ザクセン王国の栄華を今に ドイツ・ザクセン州短訪 シューマン7 Robert Alexander Schumann 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニューに戻る シューマン1 シューマン2 シューマン3 シューマン4 シューマン5 シューマン6 シューマン7 シューマン8 シューマン9 ◆シューマン7 ュッセルドルフ時代(1850年 - 1854年) ![]() 40歳ごろのシューマン(1850年) Source: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ![]() ヨーゼフ・ヨアヒム(1853年、アドルフ・フォン・メンツェル画) Source: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ュッセルドルフでシューマン夫妻は歓迎を受けた[119][120][118][121]。 この地でシューマンは管弦楽団と合唱団の指揮を担当し[121]、シューマンが指揮した最初のコンサートは成功を収めた[119]。 創作力も旺盛であり、この時期に相次いで書かれたチェロ協奏曲(作品129)と交響曲第3番「ライン」(作品97)は、シューマンのデュッセルドルフ時代を代表する作品となった[122][118]。 しかし、最初のシーズンが終わると、1851年3月に地元の新聞がシューマンの指導力を批判する匿名記事を掲載した[119][123][121]。 この年、シューマンは室内楽協会を設立している[124]。 つづくシーズンでは事態はさらに悪化した。シューマンは右手の不自由のためにしばしば指揮棒を取り落とし、例えばミサ曲の演奏では曲が終わり、神父が祈祷を唱え始めたにもかかわらずまだ指揮を続けるなどということが起こった[119]。 また、シューマンの内向的な性格や、とりわけこのころ顕著になり始めていた自閉癖のために、団員たちは困惑させられるようになった[123][118]。 指揮のテクニック不足や、自分の考えをオーケストラに明瞭に伝える能力にも欠けることが露呈し、シューマンの名声は急速にしぼんでいく[119]。 1852年の冬には、オーケストラの理事会がシューマンの練習方法について批判する書簡を送り、摩擦が表面化した。書簡は辞任勧告の意味合いが含まれており、シューマンは拒否したが、これに対して理事会は総辞職で応じた。新しく組織された理事会とシューマンは、ユリウス・タウシュ(de:Julius Tausch, 1827年 - 1895年)を補助指揮者として合唱団の練習を任せ、シューマンはオーケストラの練習と公開コンサートの指揮を続けることで合意した[122][125]。 1853年5月に開催された「低ライン音楽祭」では、改訂されたシューマンの交響曲第4番(作品120)が初演され、成功した[126]。 5月17日にはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲でヨーゼフ・ヨアヒムと共演する。ヨアヒムはシューマンに対する賛嘆の念を示し[127]、二人の交流から、2曲のヴァイオリン・ソナタ(作品105、作品121)、ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲(作品131)、ヴァイオリン協奏曲(作品番号なし)が書かれた[128][129]。 しかし同年秋にはオーケストラとの間に新たなトラブルが発生する。ヨアヒムを招いて開かれた公開コンサートでは、シューマンは演奏を開始することができなかった[122][130]。 ヨアヒムは、これについて次のように述べている。 「若いころには正確に拍子をとれたのかもしれないが、彼は演奏に注意を与えることは何もしなかった。『楽園とペリ』のリハーサルではクララ(ピアノを弾いていた)が『主人はここは弱く弾いてほしいといっています』と言い、シューマンはかたわらでその通りとばかりうなずくのであった。演奏がうまくいかないと、ひとり腹を立てていた。 あるとき、自分の交響曲を演奏する際、彼は指揮棒を振り上げたまま立っていて、オーケストラ・メンバーは楽器を構えたまま、いつ弾き始めたらよいかわからないのだった。そこで、第1プルトに座っているケーニッヒスレウと私が手で合図して演奏を開始すると、シューマンは嬉しそうに笑いながらついてくるという有様だった」 ??ヨーゼフ・ヨアヒムによる回想[119]] ウォーカーは、こうしたシューマンの奇妙な行動について、病気の進行に伴って彼の身体機能が犯され、動作、言葉、聴力などが均衡の取れないものになっていったのだとしている[119]。 これ以降、シューマンに指揮の機会は訪れなかった[130]。 オーケストラの統率を失ったシューマンに対し、理事会はタウシュを正指揮者としてコンサートの指揮もすべて任せることを要求した。シューマンは受け入れざるを得なかった[122][125]。 ブリオンによれば、シューマンとクララは経済的な理由のためにこの屈辱に耐えなければならなかったとする[125]。 シューマンの病状は次第に重くなっていった。1851年6月にはシューマン自身が「神経の発作」に悩まされ続けていることを明かしている[122]。 1852年夏には、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり、医者に勧められてシューマン夫妻は北海沿岸の保養地シェヴェニンゲンに出かけたが、効果はなかった[121]。 シューマンの弟子だったヴァジェレフスキによれば、1853年3月、シューマンは降霊術を扱った本を読んでおり、次女エリーゼと二人で霊媒実験を始めたという。このことをシューマンは5月25日付けのヒラーに宛てた手紙に「実に不思議な現象です」と書いている[131]。 1853年6月にクララが記した日記には、シューマンが目を覚まし麻痺性の発作に襲われたことが記録されている。シューマンの言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった[122]。 デュッセルドルフ時代の作品 シューマンのデュッセルドルフ時代の作品は多岐にわたっており、フランスの著述家、マルセル・ブリオン(fr:Marcel Brion, 1895年 - 1984年)は、実生活上のいざこざがあっても彼の創造力には少しも影響を与えなかったとする[132]。 例えば、チェロ協奏曲は1850年10月10日から24日にかけて、交響曲第3番は1850年11月2日から12月9日にかけて、ヴァイオリンソナタ第1番は4日間、同第2番は6日間、ピアノ三重奏曲第3番が7日間と、驚くべき速筆で書かれている。『ヘルマンとドロテア』序曲はわずか数時間で作曲された[132]。 ドレスデン時代から始まった「文学的音楽」の系列としては、上記ゲーテの『ヘルマンとドロテア』序曲のほか、シラーの『メッシーナの花嫁』序曲、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』序曲(いずれも1850年)、ウーラントの『王子』、『歌人の呪い』(1852年)などがある[118]。 シューマン畢生の大作となった『ゲーテのファウストからの情景』は、ライプツィヒ時代の1844年に第2部終末の場面を作曲して以来10年がかりの構想となり、最後の序曲は1853年4月13日から15日までの3日間で作曲された[133][118]。 デュッセルドルフの音楽監督の職務には、カトリック教会の典礼に基づく宗教音楽の実践義務も含まれていた[134]。 このため、シューマンはパレストリーナやバッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトらの作品に接しながら宗教音楽の分野に手を染め、1849年に管弦楽伴奏による男声重唱のためのモテット『苦しみの谷にあっても絶望することなかれ』(作品93)、1852年にはミサ曲(作品147)、レクイエム(作品148)などが作曲された[135][118][121]。 ブラームスの来訪 ![]() ジャン=ジョセフ・ボナヴェンチャ・ローレンスによるシューマンの肖像画(1853年) Source: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ![]() 同じくローレンスによるヨハネス・ブラームスの肖像画(1853年) Source: Wikimedia Commons <a>, パブリック・ドメイン, リンクによる 1853年9月30日、当時20歳のヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)がヨアヒムの紹介状を携えてシューマン家を訪れた[136][137][118][138]。 ブラームスがピアノの前に座って自作のソナタを弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか」といった[136]。 ウォーカーはこの出会いについて、「二人の出会いは音楽史に残る出来事だった」、「(シューマン家の)暗澹とした日々に、一筋の光を与えた」と形容している[136]。 シューマンはブラームスの作曲家としての優れた才能を認めて「若き鷲」と呼んだ[136][138]。 「彼が成長するにつれて、私は消えゆくのみ」とも語った[137]。 シューマンはライプツィヒの音楽出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルに手紙を書いてブラームスを紹介するとともに、10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した[136][137][118][138]。 シューマンの厚誼に深く感謝したブラームスは、シューマンのもっとも忠実な弟子となり、シューマンが絶望のどん底にあるときも変わらぬ友情を示した。ブラームスはまた、クララが助力を必要とするときには常に慰め、彼女の心の支えとなった[136]。 ブラームスは10月いっぱいシューマン家に滞在した[136][139]。 この間ヨアヒムもデュッセルドルフを訪れ、シューマンはブラームスおよび弟子のアルベルト・ディートリヒ(1829年 - 1908年)とともに『F.A.E.ソナタ』を共作してヨアヒムに贈っている[136][140][139][注釈 20]。 自殺未遂 シューマンはクララとともにたびたびデュッセルドルフを抜け出して演奏旅行に出かけた。とくにオランダではシューマンの作品が受け入れられ、高い評価を得た。1854年のはじめにはヨアヒムやブラームスとともに旅行し、ハノーファーでの演奏会を成功させた[142][118][130]。 シューマンの日記によると、1854年2月10日の夜に彼は激しい耳の痛みに襲われた。4日後の2月14日、レストランでヴァイオリニストのベッカーと同席したシューマンは、手にしていた新聞を置いて「とてもこれ以上読んでいられない。A音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と言ったという[143]。 クララは日記に次のように記した。 「かわいそうなロベルト、ひどく辛いらしい。彼にはどんな音も音楽に聞こえてしまうのだ。……これが止まらなければ気が狂ってしまうと何度も訴えている。巨大な管弦楽のようなものが聞こえ、それが終わるかと思えば、また次の音楽が彼の幻想の中に聞こえてくるという具合で、幻聴はひどい状態に達している」 ??1854年2月、クララ・シューマンによる日記[143] ![]() シューマンが自殺未遂を起こしたライン川の橋(1850年の版画) Source: WikimediaCommons パブリック・ドメイン, リンクによる 2月17日には、シューマンは天使たちが歌って聞かせてくれたという変ホ長調の主題に基づく『主題と変奏(天使の主題による変奏曲)』を書くが、この旋律は前年の1853年に作曲したヴァイオリン協奏曲に酷似している[143][118][130][注釈 21]。 翌18日になると天使たちは悪魔に変わり、虎やハイエナの姿を取ってシューマンをめがけて襲いかかった。二人の医師が呼ばれ、シューマンを診察した。 19日、シューマンは悪魔の精霊に取り囲まれ、夜まで苛まれた。20日にはシューマンは罪と悔恨に打ちひしがれ、自分は罪人で地獄に落ちるのだといって聖書を読み続けた[143][145]。 その後も発作と小康状態を繰り返したが、2月26日夜、シューマンはもはや分別を保てず、このままでは妻や子供たちを傷つける恐れがあるとして自分を精神病院に入れるように言い、身の回りの整理を始めた[143][145][118][130]。 翌2月27日、クララと医師が話し合っている隙にシューマンは家を抜け出し、ガウンとスリッパのままの姿でライン橋まで行き、ライン川に身を投げた[143][145][130]。 飛び込む前に、シューマンは結婚指輪を外して川に投げ込んでおり、これは16年前の1837年11月、クララへの求婚で悩んだシューマンが婚約指輪を深い池に投げ込んだのと同じ行為だった[143]。 シューマンの寝室には、『主題と変奏』の浄書[118]と「愛するクララ、僕は結婚指輪をライン川へ投げ入れます。君もそうしてください。そうすれば、二つの指輪はひとつに結ばれるのです」という走り書きがあった[143]。 シューマンが川に飛び込むところを漁師が目撃しており、彼は救助された[143][118]。 家に連れ戻されたシューマンは再び精神病院への入院を望み、ボン近郊のエンデニヒにあるゲイムラート・リヒャルツ博士が経営する療養所に収容されることになった[143]。 3月4日、シューマンはエンデニヒに向かった[145][130]。 このときクララは懐妊中であり[注釈 22]、消耗の極みに達していたために、医師がシューマンに会うことを許さず、彼の自殺未遂についても聞かされなかった。クララがこれを知ったのは、シューマンが死んで2年後のことである[143]。 終焉(1854年 - 1856年) シューマンが没するまで過ごしたボン近郊エンデニヒの療養所(現シューマン記念館) シューマン夫妻の墓(ボン) シューマンはエンデニヒで2年間を過ごした。リヒャルツ博士の療養所(現シューマン記念館de:Schumannhaus Bonn)は、広い庭園の中に建っており、シューマンは庭を自由に散歩できた[146][147]。 外出もしており、ボンでベートーヴェン記念碑を訪ねている[146]。 部屋にはピアノや五線譜、筆記用具が備えられ、作曲もできた[146][147]。 エンデニヒにおいて、シューマンはパガニーニの24の奇想曲用のピアノ伴奏を補筆しており、ヨアヒムのオペラ『ハインリヒ4世』序曲のピアノ編曲もしている[147][148]。 クララと家族との面会はシューマンの神経を刺激しないために禁じられたが、ブラームスやヨアヒム、ディートリヒ、批評家のハンスリックらが面会に訪れた[130]。 シューマンがエンデニヒから出した手紙は、クララ宛が7通、ブラームス宛が4通、ヨアヒム宛が1通、長女マーリエ宛が1通残されており、のちにハンスリックによって公表された。クララ宛の手紙は子供たちへの心遣いを含めた愛情あふれる手紙となっている[149]。 また、1854年11月27日付けのブラームスに宛てた手紙には、ブラームスが作曲した『シューマンの主題による変奏曲』(作品9)についての批評を書き送っているが、ここには精神錯乱を思わせる箇所は全く見当たらない[147]。 シューマン自身は回復できると考えていたが、しかしその望みは日毎に薄れた[146][148]。 発音が困難になり、感覚の鈍磨が聴覚、味覚、嗅覚にまで広がった[148]。 シューマンは絶え間なく部屋の中を歩き回り、ときにはひざまずいて手を組み合わせた。お前の作品は盗作だと非難する声が聞こえ、シューマンは興奮して「そんなことはない、嘘だ!」と叫んだ。食事を拒否することもしばしばで、次第にやせ衰えていった。1854年8月14日にシューマンを見舞ったブラームスは、シューマンは突然ワインを飲むのをやめ、毒が入っていると言って床に流したという[146]。 1855年の夏には、シューマンの伝記を書いたヴァジェレフスキがエンデニヒを訪れた。だれも聴いている者もいないのに、即興でピアノを弾いているシューマンの姿を「それはバネがこわれて、ときどき思い出したように動く機械のようだった」と述べている[146][148]。 1855年の秋、リヒャルツ博士はもう回復の望みはないと診断した[146][148]。 1856年6月8日にブラームスがエンデニヒを訪れたときは、シューマンの足は腫れ上がり、ベッドに寝たきりとなっていた。このときシューマンは、地図帳から地名を拾い出し、正確にアルファベット順に並べる作業をしており、シューマンが好んだ言葉遊びが最後まで残っていた[146][148]。 7月23日にリヒャルツ博士から危急を知らせる電報を受け取ったクララは7月27日にエンデニヒに着き、2年ぶりにシューマンと再会した。「それは夕方6時から7時のころのことでした。彼は私を認めて微笑み、非常な努力を払って―もうその頃、彼は四肢の自由がきかなくなっていました―彼の腕を私に回しました。私はそれを決して忘れません。世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」とクララは述懐している[146][150][148]。 翌28日、シューマンの手足の痙攣が続き、クララはシューマンにワインを飲ませた。ワインの一部がクララの手の上にこぼれると、シューマンは嬉しそうにクララの指をなめた[146]。 1856年7月29日午後4時、シューマンは46歳の生涯を閉じた[146][注釈 23]。 シューマンの最後の言葉は、「おまえ、……ぼくは知っているよ……」だった[150]。 遺体は2日後にボンで埋葬された。ブラームス、ヨアヒム、ディートリヒが棺を担ぎ、グリルパルツァー[注釈 24]が弔辞を述べた。クララが葬儀をごく近しい友人にしか知らせなかったため、クララとヒラー以外に参列したのは、6年前にシューマンがデュッセルドルフに到着したとき、歓迎のセレナーデを演奏した楽団コンコルディア・ゲゼルシャフトのメンバーだけだった[146][148]。 クララと子供たち シューマンとクララの子供たち(向かって左からルートヴィヒ、マーリエ、フェリックス、エリーゼ、フェルディナント、オイゲーニエ。1854年) シューマンの死後、クララは子供たちとともにベルリンに移った。1863年からはバーデン=バーデンを本拠地として、外国演奏旅行を増やし、集中的にコンサートを開くようになった。クララは同時代で最高の女性ピアニストとしての名声を築き上げるとともに、シューマンの作品を弾く機会を逃さず、シューマンの曲のもっとも権威ある解釈者として信頼された。クララは1896年に76歳で没し、ボンのシューマンの墓にともに葬られた[151]。 シューマンの8人の子供は、長男エミールが1歳で亡くなったほかはみな成人した。長女マーリエは音楽教師として独身で過ごし、インターラーケンで死去した。次女エリーゼは、ゾンマーホフ(1844年 - 1911年)と結婚し、夫に先立たれた後は17年間独身で暮らした。三女ユーリエは、1869年夏ごろからブラームスから心を寄せられていたが、ブラームスがそれを率直に打ち明けることはなく、イタリアの貴族ラディカーディ・ディ・マルモリート伯爵(1831年 - 1923年)と結婚した。ブラームスは傷心から『アルト・ラプソディ』(作品53)を作曲している[注釈 25]。次男ルートヴィヒは商店で働き、生涯独身だった。三男フェルディナントは銀行員となったが、シューマンに作曲を学び、作品を残している。四女オイゲーニエは独身で音楽教師となり、回想記を残した。末子のフェリックスは詩人を志し、彼の2編の詩にブラームスが付曲している。作品63の歌曲集中の「青春の歌1(わが恋は緑)」と「青春の歌2」である[152]。 シューマンの病気 死因 シューマンが成人してから体験した症状は、麻痺、言語障害、けいれん、めまい、視力減退、耳鳴りなどがあった[62]。 これらの原因がなんだったのか、100年近くの間、医学界では謎とされていた[153]。 また、シューマンの兄弟たちはみな短命で、シューマンより早く世を去っている。姉のエミーリエは原因不明の皮膚病にかかり、19歳の時にチフスで高熱の発作を起こし、川に投身自殺した。シューマンの祖父のいとこゲオルク・フェルディナント・シューマンも1817年に投身自殺しているが、この二人の自殺とシューマンの自殺未遂との関わりは不明である[11]。 シューマンの伝記を最初に書いたヴァジェレフスキはシューマンの死因についてエンデニヒ療養所のリヒャルツ博士に問い合わせており、リヒャルツ博士は1883年にシューマンの検屍報告書を発表した[注釈 26]。 これによると、シューマンの脳は摘出されて検査を受けており、シューマンの脳は同年齢の一般男子の脳と比べて軽く、萎縮していることが認められた[153][130]。 リヒャルツ博士は、精神病の遺伝については否定している。シューマンの精神疾患は原発性の特異なもので、全神経組織を統合する力が徐々に、しかし遅滞なく衰弱していき、ここから心的障害が部分的に現れたとしている[154]。 さらに、その最初の根源はきわめて若いころにあり、それが年月とともに進行していったとしている[130]。 イギリスの音楽学者、評論家のアラン・ウォーカーは、リヒャルツ博士の最終的な診断は、梅毒による全身麻痺だったとしている。しかし、シューマンの病状に関するカルテがエンデニヒの療養所から消えてしまい、この結論は確認できなくなった[153]。 これについてウォーカーは、リヒャルツ博士はクララに恥をかかせないために病院の記録を隠したのではないかと述べている[153]。 この結果、シューマンの病気については統合失調症、結核性髄膜炎、脳腫瘍といったあらゆる病気が当てはめられ、シューマンの伝記作者たちは、あやふやなまま提供されたさまざまな説に翻弄されることになった[153]。 1959年、精神病理学と神経病理学の専門家、マリオット・スレイターとアルフレッド・メイヤーは共同論文を発表し、医学的な証拠を残らず再調査した結果、シューマンのすべての病状に適合するのは第三期梅毒しかないという結論を下した[62][153]。 シューマンは1844年に「歌うような雑音」が聞こえると訴えており、これは第二期梅毒の典型的な症状に該当する。このことから潜伏期間を推定すると、シューマンが梅毒に感染したのは1830年から1831年の間と考えられる。このころシューマンはライプツィヒで無頼な日々を送っており、1973年に出版されたシューマンの当時の日記には、女性との性的交渉について細かく記録していた[153]。 その後、1994年にリヒャルツ博士によるシューマンのカルテが公開され、シューマンの死因が梅毒による進行性麻痺だったと報道された[155]。 指の故障 ウォーカーによれば、おそらく1830年にヴィークのレッスンを受け始める前からシューマンは右手の不調に気づいていた[156]。 その1年後、1831年の「自伝的覚え書き」にシューマンは「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と記している[62]。 1832年にヴィークがクララの演奏旅行に同伴してライプツィヒに戻ったときには、シューマンの右手はまったく使えなくなっていた[156]。 シューマンの指の故障について、伝えられているのは、シューマンは指の動きを均等化するために指の1本だけを吊りながら演奏するという機械装置を独自に考案し、右手の第4指ないし第5指の腱を傷めたというものである[62][157][60][49]。 しかし、シューマン自身がこのように説明している記述はどこにもない[62]。 指の訓練機械について最初に触れたのは、ヴィークである。彼は1853年の著書『ピアノと歌』で「その指の訓練器は私のある有名な弟子が私の意に反して発明し、密かに使っていた。そして当然のこととして、第3、第4指を痛めてしまったのである」と述べている[62]。 ヴィークはこの弟子がシューマンであるとは述べていないが、後世の解説者たちはこれをシューマンと結びつけた[62]。 さらに、シューマンの四女オイゲーニエが父親が第3指を縛ってつり上げ、他の指で鍵盤を弾いたと述べたことで決定的となった[62][157][注釈 27]。 1889年、シューマンの研究家フリードリヒ・ニークス[注釈 28]がクララに会ってインタビューしたところ、クララはシューマンが故障した指は右手の第2指であり、固い無音鍵盤で練習したのが原因だと語った。ニークスは、それまで知られていた説と矛盾するクララの証言について、70歳という老齢による錯誤であろうとして信用しなかった[62]。 しかし、80年後の1969年、ライプツィヒ市の資料室からシューマンと軍司令官との間に交わされた未公開の書簡が発見された。シューマンは1842年に軍隊入りを志願したものの、手の疾患のために兵役免除となっていた。書簡にはシューマンの主治医ロイター博士の署名入り診断書が添えられており、右手の人差し指と中指が悪いと記されていた。これは、クララの証言を裏付けるものである[62]。 1971年、イギリスの音楽学者エリック・サムス(en:Eric Sams)は、少なくとも一般的に知られているような形でのシューマンの指の「事故」はなかったとし、シューマンは水銀中毒のために運動機能に回復不能の症状を来したと仮定した[62]。 19世紀当時、梅毒の治療には広く水銀が使われており[62]、この間、すでに述べたように1959年にスレイターとメイヤーの共同論文によって、シューマンの死因が第三期梅毒であることが指摘されていた[62][153]。 音楽 評価 ツヴィッカウのシューマン像 シューマンと同時代のドイツの作曲家・音楽批評家ルイス・エーレルト(en:Louis Ehlert, 1825年 - 1884年)は、著作『シューマンとその楽派』(1849年)において、「ベートーヴェンが古典的時代の芸術の頂点なら、シューマンはわれわれの現代の時代意識を体現する存在になっている。彼の苦闘が結んだ愛には、必ず優しい、温和な守護神(天才)が宿っていて、われわれは人間的にそこへ惹きつけられる」と述べている[4]。 また、19世紀ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキー(1840年 - 1893年)は、「この世紀後半の音楽は、芸術の歴史の中に、後の世がシューマン時代と呼ぶような、そういう時期として入ってゆくに違いない。シューマンの音楽は、ベートーヴェンの作品と有機的に結びつきながら同時に決定的にこれから離れ、われわれに新しい音楽形式の全体的な世界を拓き出し、そういう偉大な先駆者たちもいまだ触れたことのない弦を響かせている。そこにはわれわれの心的生活の秘かなプロセス―あの疑いと憂鬱と、理想を振り仰ぐまなざしと―今日の人の心を感動させるものが響きを発しているのだ」と述べている[4]。 シューマンの創作の重要な時期区分としては、3つの都市名で区切ることができる。ライプツィヒ時代(1828年 - 1844年)、ドレスデン時代(1844年 - 1850年)、デュッセルドルフ時代(1850年 - 1854年)である。この前後に、ツヴィッカウの幼少年時代、エンデニヒの最後の療養所生活、より短い期間では、ハイデルベルクとウィーンでの生活を挙げることもできる[159]。 ライプツィヒ時代に書かれ、シューマンの名を一般に不朽のものとしているのは、ピアノ曲と歌曲である[6][7]。 作品番号の1番から23番まではすべてピアノ曲であり、20歳代のシューマンはピアノ作品に集中した[7]。 作品24からは歌曲の創作が続く[160]。 こうして、30代では1840年が「歌の年」、1841年が「交響曲の年」、1842年が「室内楽の年」、1843年にはオラトリオ『楽園とペリ』が完成、というように分野が拡大されていった[7]。 ドレスデン時代とデュッセルドルフ時代を通じて、オペラ『ゲノフェーファ』(作品81)、劇付随音楽『マンフレッド』(作品115)、『ゲーテのファウストからの情景』(WoO 3)などさらに分野を拡大した。晩年には『ミサ曲』(作品147)や『レクイエム』(作品148)など宗教音楽も作曲したが、一般的に評価されていない。シューマンの芸術の幅が広がり、奥行きと深みを増すにつれて、反面、想像力の鮮やかな直観性、純粋な詩情、天才的なひらめきは重厚な構成に比重を譲っているように見られる[7][注釈 29]。 ブリオンは、ビーダーマイヤー的な家庭環境で育ったシューマンの音楽からは、良心も精神も純粋であって、充実して輝かしい人間性が内面的に成熟した場合の、静かな、無言の深い喜びが輝き出ているとし、これをドイツ・ロマン派の牧歌的な側面として位置づけている[162]。 また門馬は、シューマンの作品に行進曲のリズムが多く見られるのは、ナポレオン戦争のさなかに生まれたシューマンの幼児体験からの影響とする[1]。 一方でシューマンは技巧的な作品を否定しておらず、このことは幼年時代にモシェレスを聴いて圧倒的感銘を受けたことやハイデルベルク時代に音楽で身を立てようと決心をしたきっかけがパガニーニの演奏だったことからもうかがえる。「技巧」へのロマン的賛美は、ヴィークへの入門を決意した際にも強く意思されていた[29]。 交響曲第3番「ライン」より第1楽章第1主題。3/4拍子で書かれているが、3/2拍子のように聞こえる[163]。 シューマンの作品には楽譜に対して実際の音楽の拍節が異なって聞こえる場合がしばしばあり[164]、日本の作曲家池辺晋一郎(1943年 - )はこれを「拍節マジック」と呼んでいる[165]。 また、池辺は、シューマンが『楽園とペリ』(作品50)においてワーグナーよりも早くライトモティーフを使用していると指摘している[166]。 シューマンの作品全体の概観からは、作品がグループあるいは組になって作られている傾向が見て取れ、このように同じ分野の作品を立て続けに作曲した後に次の分野に移るという形で作品を残した作曲家は他に例がない[6]。 このことからウォーカーは、シューマンは心理学者のいう「循環気質」型の性格であり、彼のすべての業績は、その創造的衝動が潜行しては、また別な分野に再び現れて形成されているとする[6]。 この点、近年の資料研究によって未公開のスケッチや文書資料などが明らかにされ、交響曲をはじめとする大作品への意欲や、最高の普遍性を持った作曲家であろうとする願いが、シューマンの初期のころから根強く存在していたことが判明している[161]。 例えば、1832年に『間奏曲集』(作品4)の着手前にシューマンはト短調のいわゆる『ツヴィッカウ交響曲』を試みている。1838年には2曲の弦楽四重奏曲、1839年にはピアノ協奏曲が試みられた。これらは完成されなかったが、後の交響曲や室内楽などの分野での成果を予告するものだった[167]。 また、同一分野の作品を短期間に集中して書き上げることも特徴的で、例えば1842年、シューマンは作品41の3曲の弦楽四重奏曲を作曲するのに5週間とかからず、作品44のピアノ五重奏曲は6日間、作品47のピアノ四重奏曲は5日間で書き上げるなど、超人的な速筆ぶりは晩年まで変わらなかった[168]。 ブリオンは、このようなシューマンの作曲方法について、彼の有機的な創造性が、いわばいっぱいにせき止められた水がひとたび出口を見つけるや、鉄砲水の勢いで一気にほとばしり出るのに似ていると述べている[132]。 批判的見解 ブリオンは、一方でシューマンのこうした集中的な創作傾向はかえって自分自身を苦しめることにもなったとする[168]。 シューマンがひとつのことにこだわる傾向は作曲分野以外にも見られ、曲の中でリズムパターンに固執する例も多い[74]。 ドレスデン時代以降は精神障害に苦しみ、研究家の中には、これらの病気がシューマンの作曲活動に影響を及ぼし、彼の創造力の衰えとして結論づける論者もいる[109]。 また、ワインガルトナー以降の交響曲論者によって、シューマンの天才は初期のピアノ曲や歌曲にあり、交響曲その他の後期の作品には否定的な評価を与える見方がある[160]。 例えば門馬直美は、シューマンの交響曲の音響的な基盤はピアノと室内楽であるとし、楽想的にもピアノ的なものが幅をきかせており、ヴァイオリンの音型などでもむしろピアノ向きだと思えるものが少なくないと指摘している[5]。 また、フランスの文学者アンドレ・ジッド(1869年 - 1951年)は、シューマンとショパンのピアノ様式を端的に区別し、「シューマンは詩人であり、ショパンは芸術家である」と述べている。シューマンのピアノ曲には、ときにピアノを逸脱した独自性を示すことがあり、ピアノの鍵盤は詩的な表現のための道具として供される印象を与えるためである[160]。 前田は、これらの見方について「結局、シューマンのピアノ曲はシンフォニックといわれ、シンフォニーはピアノ的といわれ、それぞれ否定的なニュアンスでいわれることが多いという事実である。しかし、同じことは肯定的にも捉えられ得る」と述べる[160]。 シューマンの『フモレスケ』(作品20)についての文章の中で、前田はシューマンの音楽について、程度の差こそあれ、「欠陥にもかかわらず」ありのままに愛されうる性格が著しく、形式的破綻すらも血の通ったひとつのドキュメントとして愛されることができる、としている[169]。 文学との関係 E.T.A.ホフマン(1776年 - 1822年) フリードリヒ・リュッケルト(1788年 - 1866年) シューマンの作品は、1770年に始まったロマン派文学の開花を音楽化したもののようにしばしば思われているが、むしろ、もっとも徹底的で完全な表現を追求するドイツ・ロマン派の天才の最高の発露のように思われる。 ??マルセル・ブリオン『シューマンとロマン主義の時代』p.38[170] 文学における、音楽における「詩的なるもの Das Dichterische, Poetische」のまさに輻合する点に、シューマン芸術は源をもち続けたのだ。そういう根源的な意味でシューマンは「詩人」であったと思う。 ??前田昭雄『シューマニアーナ』pp.55-56[169] シューマンの読書好きは父親譲りで、主として文学と哲学を好んだ[171]。 シューマンは13歳のとき、当時興味を持った批評や詩、哲学的著作からの引用や自作の劇『精神』(未完)からの断章、両親の文章などを「スクランダー」というペンネームで『美しい黄金色の牧場の葉と花』としてまとめている。 また、1825年から1828年の間に書いた自作の文集を「ムルデ河畔のロベルト」というペンネームで『雑録』としてまとめている。このころ、シューマンはゲーテの『ファウスト』をほとんど全部暗記し、友人たちからは「ファウスト」または「メフィスト」などと呼ばれていた。 このほか、シューマンが手がけた文学作品として、コリオランを題材にした合唱付きの悲劇『ランデンドルファー兄弟』や喜劇『レオンハルトとマンテリエ』、ジャン・パウルから影響を受けた『6月の晩と7月の昼間』という小説があるが、いずれも未完である[172]。 シューマンが文学者をめざさず音楽の道を選んだことについて、ブリオンは「シューマンにとって、限界があり、厳密さを欠く文章表現よりも、音楽はずっと豊かで、多様で、陰影があり、緻密な言葉を提供した」と述べている[35]。 初期のピアノ曲にとくに関係が深いのがジャン・パウルとE.T.A.ホフマンの二人である[171]。 例えば、シューマンの『蝶々』(作品2)はジャン・パウルの小説『生意気盛り』から着想された作品である[173]。 また、『幻想小曲集』(作品12)、『クライスレリアーナ』(作品16)、『夜想曲集』(作品23)のそれぞれの題名はE.T.A.ホフマンの文学作品から採られており、いずれもロマン的憧憬に彩られている[174]。 シューマンは絶えず読んだジャン・パウルの全集の次のような部分にアンダーラインを引いている。 「花は生きていて眠るからには、きっと子供や動物と同じように夢を見る。結局、生物はすべて夢を見るのだ」[175] シューマンの文学に対する豊かな素養は、歌曲の詩の選択にも反映されている。彼が選んだ詩人では、ハイネが44篇、つづいてリュッケルトが42篇と多い。これにガイベル(de:Emanuel Geibel, 1815年 - 1884年)がつづく。アイヒェンドルフとケルナー(de:Justinus Kerner, 1786年 - 1862年)はそれぞれ20曲ずつとなっている。ゲーテについては歌曲は18曲とそれほど多くないが、より大規模な合唱作品がある[176]。 このほかシャミッソー、ファラースレーベン、レーナウ、メーリケ、ウーラント(de:Ludwig Uhland, 1787年 - 1862年)、ヘッベルなどのドイツ詩人・作家、スコットランドのロバート・バーンズ、デンマークのアンデルセン、イギリスのバイロンなどが採り上げられた[176]。 また、読書のほか自然を好み、散歩をよくした。ライン川や、とくに生まれ故郷ツヴィッカウには強い愛着を抱いていた[171]。 シューマンは1845年に出版されたフンボルト(1769年 - 1859年)の『コスモス』を読んでこれを推奨している。ブリオンは、自然哲学者が自然との一致及び事物のほとんど予言者的な幻影から宇宙体系を推論するように、シューマンが自然との牧神的な一致から普遍的な魂の表現をつかみ取って作品とりわけ交響曲へ流入させていると述べている[35]。 作品 詳細は「シューマンの楽曲一覧」を参照。 交響曲 シューマンは生涯に計4曲の交響曲を作曲した[6]。 交響曲の創作に本格的に進出したのは1841年からで、前年の1840年にはピアノ曲から歌曲への創作分野の転換があり、クララと結婚している。1841年には交響曲第1番「春」(作品38)と後に改訂されるニ短調交響曲が書かれた[5]。 交響曲第2番(作品61)はシューマンのドレスデン時代の作品である[108]。 デュッセルドルフ時代に交響曲第3番(作品97)が書かれ[122]、さらに1841年に書かれたニ短調交響曲が改訂され「第4番」(作品120)として出版された[126]。 なお、第1交響曲に先立つ1832年に『ツヴィッカウ交響曲』に取り組み、1841年にはハ短調の交響曲の構想もあったが、これらは完成されなかった[5]。 シューマンはピアノ曲を創作するはるか以前から『ハムレット交響曲』などのスケッチを書いており、1829年にはヴィークに宛てた手紙に「交響曲を頭の中で書きました」と報告している。このように、交響曲への意欲はシューマンのごく初期から彼の中にあり、シューマンのピアノ作品は交響的イメージから発想されたり、交響的な次元に向かって開いていることが多い。第1交響曲はわずか4日でスケッチが完成されているが、こうした前提をふまえたものであり、霊感のみによって突然成就されたものではなかった[160]。 シューマンの交響曲は、管弦楽編成の点では古典派の延長線上にあり[5]、19世紀前半のロマン派交響曲として、また、ベートーヴェンやシューベルトからブラームスやブルックナーへの橋渡し的存在として重要である[6][4][5]。 これらの影響とは別に、シューマンの交響曲にはシューマンならではの個性や格調、筆致があり[5]、例えば1903年に古典的なシューマン評伝を書いたヘルマン・アーベルトは、「シューマンの交響曲の際だった特質は、第一に楽想の例外ない独創性と深い真摯さであり、また純粋な熱中の、われわれを抗いがたく引き込む飛翔力である」と述べている[177]。 にもかかわらず、シューマンの交響曲は彼のピアノ曲のようには広く支持されていない[6]。 その理由の一つとして挙げられるのが、シューマンの管弦楽法についてであり、「オーケストレーションがときに鈍重で垢抜けない」[6]、「色彩的には華麗で明快なものではなく、どちらかといえばくすぶったような、曇りがちの天候のような響きを出す」[5]、「往々にして暗く重く、3度やオクターヴの平行が多く、楽器の使い方が技術的に問題」などといった批評が多く見られる[178]。 このため、グスタフ・マーラーをはじめ、シューマンの交響曲のオーケストレーションに修正を加えて演奏する例が見られたが、近年ではオリジナルを尊重して手を入れない、あるいはリハーサルの段階で各パートのバランスを調整して問題を解決させた演奏が多くなっている[6][178]。 門馬直美は、こうしたシューマンの管弦楽の扱い方について、「未熟さがあるからだといわれることが多いが、逆に言えば、そこにシューマンの味があり、特色がある」としている[5]。 また、『西洋音楽史』のドナルド・グラウトは、シューマンの交響曲について次のように述べている。 「彼の交響曲では、ときどき付帯的に絵画的なものを偲ばせることもあるが、彼は絶対音楽を望んだのであり、その理想はベートーヴェンであった。しかし全体として彼は、古典派の交響曲の様式の大らかさと有機的な統一を創り上げることに成功しなかった。シューマンの交響曲の美しさは、その細部とロマン主義的な精神の燃焼に在る」 ??ドナルド・グラウトによるシューマンの交響曲への論評[179] これに対して前田昭雄は、グラウトの評価を十分賛同できるとしつつ、「有機的統一に欠ける」という指摘は修正を要するとしている[179]。 すなわち、シューマンの形式は決して新主題の羅列ではなく、形式原理が認識されなかっただけであり[180]、「人は理解できぬものに対してはさしあたり否定的な評価を下すことになる」と述べている[181]。 協奏曲 シューマンは早い時期からピアノ独奏と管弦楽のための協奏的作品に取り組んでいるが、変ホ長調(1828年)、ヘ長調(1829年 - 1831年)、ニ短調(1839年)などはいずれも未完である。完成されたものとしては、ピアノ協奏曲(作品54)、『序奏とアレグロ・アパッショナート(ピアノ小協奏曲とも)』(作品92)、『序奏と協奏的アレグロ』(作品134)などがある[182]。 ピアノ以外では、4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(作品86)、チェロ協奏曲(作品129)、ヴァイオリン独奏と管弦楽のための幻想曲(作品131)及びヴァイオリン協奏曲(WoO 23)があり、池辺晋一郎は、「そんなふうに言われることはあまりないが、シューマンは実は協奏曲作家だ」と述べている[182]。 このうち、ピアノ協奏曲はロマン派時代の最も優れた協奏曲の一つである[183]。 この曲は第1楽章が『幻想曲』として1841年に作曲されており、残りの楽章は1846年、ドレスデンで完成された[183][184]。 チェロ協奏曲は、シューマンがデュッセルドルフに移ってまもない1850年10月に完成しているが、なぜ書かれたのかその理由ははっきりわかっていない。シューマンはかつて右手を痛めてピアニストになることを断念したとき、チェロ奏者になることも考えており、ウォーカーはおそらく多分にノスタルジーがあったからではないかとしている。初演は1860年で、シューマンの存命中には演奏されなかった[183][185]。 また、ヴァイオリン協奏曲はシューマン最晩年の作品だが、楽譜を贈られたヨーゼフ・ヨアヒムがこの曲を採り上げることはなく、作曲から80年近く経った1937年に初演されている[182][186]。 室内楽曲 シューマンはギムナジウムに在籍していた1823年ごろから友人や知人の家でモーツァルトやウェーバーらの室内楽を楽しみ、ピアノを担当した[187]。 室内楽曲のもっとも初期の試みとして、1828年から1829年にかけてハ短調のピアノ四重奏曲やヴァイオリンとピアノのためのソナタがある。1839年6月にも2曲の弦楽四重奏曲を書こうとしているが、最初の部分だけで中絶した。1840年にクララとの結婚後、シューマンはベートーヴェンの弦楽四重奏曲を熱心に研究した。本格的に室内楽に取り組んだのは1842年であり、弦楽四重奏曲(3曲)、ピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲などが書かれた[187]。 ドレスデン時代以降にはピアノ三重奏曲(3曲)やヴァイオリンソナタ(3曲)などがある[188]。 シューマンの室内楽曲は独特の幻想味にあふれている。古典的な伝統に従いながらも自由さを見せる構成の中に、巧妙な対位法がシューマンの幻想の広がりを妨げることなく織り込まれている[187]。 3曲の弦楽四重奏曲のほかは楽器編成にピアノを用いているほか、チェロが愛好されていることが特徴である[187]。 また、古典派的な多楽章形式を基礎に置いたもののほか、ピアノ曲の分野で好んだような小品集や組曲形式も見られ[187]、これらの作品では、シューマンは趣に富んだ楽器の組み合わせを考え出した[189]。 クラリネットとピアノのための『幻想小曲集』(作品73)、ホルンとピアノのための『アダージョとアレグロ』(作品70)、オーボエとピアノのための『3つのロマンス』(作品94)などは、本来ロココ風である管楽器とロマン的なピアノによる対話であり、これらはシューマンが18世紀とロマン主義とを調和させ、均衡させることができた例である[189]。 ピアノ曲 『子供の情景』(作品15)のスコア表紙 シューマンの作品23までの曲はすべてピアノ曲である。ピアニストを目指して訓練したが指を痛めて断念、作曲に転向した経緯から、シューマンにとってピアノはもっとも親しい楽器だった[190]。 最初期には未出版の曲も含めてほとんど変奏曲ばかり書いており、作品1の『アベッグ変奏曲』も同様である[191]。 ピアノ書法の面では、ペダルの用法に特徴があり、『蝶々』(作品2)の終わりの部分では、属七の和音の構成音を次第に減らしていって最後に属音のみが残って消えるようにフェルマータを置いている。このようなペダルが不可欠な終わり方は『アベッグ変奏曲』の終曲にも見られる[190]。 『謝肉祭』(作品9)や『交響的練習曲』(作品13)において、シューマンは初期ロマン派の作曲家たちが直面していた大曲の音楽構成についてひとつの解決法を打ち出している。これらは、糸で連ねられた真珠のように、小品が途切れることなく演奏されていくという新しい形式の音楽である。19世紀前半にはメンデルスゾーンやショパン、リストらもピアノの小品を書いているが、シューマンの場合は小品の集まりが一つの曲として構成されていたり文学的・幻想的な関連で括られており、こうした曲のまとめ方はシューマン独自のものである[192][190]。 また、シューマンは曲中で気に入ったリズムを導入すると、それにきわめて長く固執する性癖を持っていた。『交響的練習曲』の終曲や、ピアノソナタなどその他の作品でもそうした傾向が現れている[190]。 クララとの結婚をめぐるヴィークとの争いの間、シューマンは彼の代表的なピアノ曲を相次いで作曲している。すなわちピアノソナタ第1番(作品11)、『幻想小曲集』(作品12)、ピアノソナタ第3番(作品14)、『子供の情景』(作品15)、『クライスレリアーナ』(作品16)、『幻想曲』(作品17)などである[82]。 マルセル・ブリオンは、クララとの結婚までの6年間はシューマンの作品にピアノ史上類のないほどの悲劇的な壮大さを与えており、これらの作品にクララへの思いが喜びや希望や苦痛や悲嘆の形で込められていないものは1小節もなかった、と述べている[193]。 ハンス・ヨーゼフ・オルタイルは、この数年間にシューマンが書いたすべての作品はクララとの関係を題材にしており、それらの核心をなすのが『子供の情景』だとする。この曲集はシューマン自身が正確に述べているように子供向きのものではなく、クララとのなれそめから1838年春の作曲時期に至るまでシューマンがヴィークの家庭との関わりではっきりと思い浮かべた過去の出来事を、音楽によって再創造した「思い出の対話」である[194]。 シューマンのピアノ曲には曲の開始部と終結部を同じフレーズとしているものが特徴的に見られ、例えば、『子供の情景』の第4曲「おねだりする子供」や『森の情景』(作品82)の第7曲「予言の鳥」がある[164]。 また、シンコペーションを好み、しばしば表記上の拍と耳で聴く拍が違っている。例えば、『子供の情景』の第10曲「大まじめに(むきになって)」や『幻想小曲集』の第1曲「夕べに」などで、後者は、全曲を通じて3/8拍子に聞こえるが、楽譜は2/8拍子で書かれている[164]。 ジャン・パウルの影響によって、シューマンの初期のピアノ曲の基調にはフモールの概念があり、『フモレスケ』(作品20)では、この概念がタイトルそのものとなった。シューマン自身の説明によれば、「フモール」は独自のドイツ的な内容を持つものであり、「夢幻的」かつ「涙の下から微笑む」心である[195]。 池辺晋一郎は、インスピレーションが詩的な想念となり、ピアノの音に転化していく。こういったことがシューマン独自の世界なのだ、と述べる[173]。 一般に「シューマンのピアノ曲」として認知されているのは1839年の『4つの小品』(作品32)までであり、ドレスデン時代以降になると、ペダルピアノのための『6つの練習曲』(作品56)、同じく『4つのスケッチ』(作品58)、『6つのフーガ』(作品60)、『4つのフーガ』(作品72)といったバッハの対位法研究の成果を示す作品群が現れ、さらに、『子供のためのアルバム』(作品68)をはじめとした家庭向きあるいは教育向きとも見られるピアノ作品も書かれるようになった[191]。 また、1850年にシューマンは「若き音楽家への助言」を発表しており、これは『子供のためのアルバム』の序文としてよく使われている[196]。 声楽曲 歌曲 ロマン派の歌曲の歴史の中で、シューマンはきわめて重要な役割を果たしている[197]。 ブリオンによれば、シューマンはロマン派の憧れそのものを、またそのもっとも本質的な特徴を体現しており、彼の歌曲は、モーツァルトを除いては他のいかなる作曲家も及ばぬこの上ない調和を達成しているとしている[197]。 日本の音楽評論家横溝亮一(1931年 - 2015年)は、「シューマンの歌曲は詩と音楽の香気あふれる合一である」と述べている[198]。 また、ウォーカーは、「もし、シューマンが歌曲しか書かなかったならば、彼はより大家と目されただろう」と述べている[89]。 シューマンが本格的に歌曲の世界に足を踏み入れたのは1840年で、シューマンはこの年9月にクララとの結婚を実現させている[176]。 シューマンは30歳であり、クララの存在が彼の想像力の源であった[89]。 それまでピアノ曲を主体に書いてきたシューマンは、1839年にヘルマン・ヒルシュバッハに宛てた手紙に歌曲について「器楽曲と比べて立派な芸術と思っていなかった」と述べている。しかしこのシューマンの見解はめざましい転換を遂げ、歌曲の創作はシューマンにとって大きな意義を帯びることになった。これには、友人で声楽の教師だったオズヴァルト・ロレンツ(1806年-1889年)からの影響もあった[176]。 1840年だけでシューマンは120曲以上、生涯を通じては270曲以上の歌曲を作曲した[176]。 シューマンの文学に対する豊かな素養が詩の選択にも反映されていることについては、#文学との関係を参照のこと。 形式面では、変化有節形式と通作形式が目立って多く[176]、いくつかの歌曲集では、テーマ的な関連性を織り込む試みをなしとげている[89]。 また、歌曲において従来は伴奏でしかなかったピアノの地位を向上せしめた。シューマンの歌曲では、ピアノは歌に対して対等であり、ときには作品を支配する役割を担っている。例えば、『詩人の恋』(作品48)の終曲は充実した独奏ピアノによって閉じられる[89][199][176]。 このため、シューマンの歌曲は「歌声部の伴奏を持つピアノ曲」といわれることもある[74]。 オペラ シューマンは「新音楽時報」でマイアベーアのオペラを痛烈に批判しており、自分でも優れたオペラを作曲したいと考えていた[200]。 シューマンの日記からは、オペラ化を計画した文学作品が多数挙げられる。バイロンの『海賊』、『サルダナパラス』、カルデロン(1600年 - 1681年)の『マルティブレの橋』、『魔術師』、E.T.A.ホフマンの『総督と総督夫人』、トマス・モアの『ララ・ルク』、ゲーテの『ヘルマンとドロテア』、『ファウスト』などである。これらのうち、『ララ・ルク』や『ファウスト』はそれぞれ『楽園とペリ』及び『ゲーテのファウストからの情景』のオラトリオ的作品として結実した(下記参照)。また、『ヘルマンとドロテア』は、シューマンは友人のユリウス・ハマーに作品の手直しと台本化を依頼したが実現しなかった[201]。 シューマンが実際にオペラとして取り組んだのは2曲だが、このうち『海賊』は未完であり、『ゲノフェーファ』(作品81)のみが完成した[202]。 しかし、唯一のオペラである『ゲノフェーファ』も、優れた場面はあるものの、音楽・台本に一貫性を欠いており、親しまれているとは言い難い[202][201]。 合唱曲 トマス・モア原作によるオラトリオ『楽園とペリ』(作品50)は、シューマンの出世作となった[202]。 また、後に書かれたバイロン原作による劇付随音楽『マンフレッド』(作品115)や『ゲーテのファウストからの情景』も、独唱、混声合唱、児童合唱、管弦楽による演奏時間約2時間の大作である[202]。 とくに『ゲーテのファウストからの情景』は、シューマンの全創作のうちでも作曲家の精力が最も集中された作品であり、前田は「作品番号はつけられていない。これは未完とか遺稿とかいう意味ではなく、シューマンにとって作品とか演奏とか、初演や初版の成功とかいう意味を超えた、芸術的実存を賭けての超作品という存在に、この音楽が育っていったことを意味している」と述べている[105]。 このほか、独唱、合唱、管弦楽のための作品に『夜の歌』(作品108)、『ばらの巡礼』(作品112)、『王子』(作品116)、『うたびとの呪い』(作品139)、『小姓と王女について』(作品140)、『エーデンハルの幸せ』(作品143)などがある[203]。 舞台装置や衣装を必要とする大がかりなオペラでなくこうしたオラトリオ的作品が多く書かれた理由は、シューマンが文学に造詣が深かったことと、彼が生きた時代が「市民の時代」黎明期であり、アマチュアや市民による合唱団が巷間に生まれつつあったことが背景にある[202]。 宗教音楽 宗教音楽に対してシューマンが真剣な情熱を注いだことはそれほど理解されていない[204]。 シューマンは、「もしも聖書とシェイクスピアとゲーテを読み、それらを自分の中に取り入れてしまえば、もうその人にはなにも必要はない」と語っている[121]。 また、シューマンがアウグスト・シュトラッカリアンに宛てた1851年1月13日付けの手紙には、「芸術家の至高の目的が宗教音楽に対して創造的な力で貢献することであるのは確かなことです」と述べている[204]。 1852年からは、バッハのミサ曲 ロ短調やマタイ受難曲の演奏会も積極的に行っており、このころ『スターバト・マーテル』やリュッケルトの詩による『ドイツ・レクイエム』、プロテスタントの典礼に基づくレクイエムやオラトリオなどの作曲も計画したものの、これらは実現しなかった[204]。 とはいえ、シューマンの宗教音楽について、批評家は概して酷評を下している[135]。 例えば、シューマンのミサ曲やレクイエムのテキスト選択についてシュピッタは、ロマン的、神秘的な性格、内密なものへの共感からなされていると述べているが、アウグスト・ライスマン(1825年 - 1903年)はこれらの作品の構成の弱さを指摘している。ダームスは、シューマンの器楽曲における対位法の熟達ぶりに比べて教会音楽における声部のポリフォニーが貧弱なのはどうしたわけかと疑問を投げかけ、シューマンのミサ曲とレクイエムは単に音楽的記録としてのみ取り上げるにとどめるべきで、演奏されるに値しないとまで述べている[135]。 シューマン全集の編纂とメトロノーム問題 クララ・シューマン(1878年、フランツ・フォン・レンバッハ(de:Franz von Lenbach)画) シューマンの死後まもない1856年、クララとブラームスはシューマンの作品全集の出版について話し合った。全集の編纂には長い年月を要し、1879年から1893年にかけて全29巻のシューマン作品全集がブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から刊行された[205][206]。 この過程で、クララは1861年4月、シューマンの作品のメトロノーム指定を改訂することでブラームスと相談している[206]。ブラームスはクララに助言し、自分の演奏スピードを毎回記録し、平均値を取ることにした。その結果、メトロノーム指定を変更したのはピアノソナタ第3番、『幻想曲』、『子供の情景』、『夜想曲集』(作品23)、『森の情景』の5曲にとどまり、その他のピアノ作品や管弦楽作品ほかについては変更がなかった。変更された5曲も、数値的にごくわずかなものだった[206]。 一方、指揮者・ピアニストのハンス・フォン・ビューロー(1830年 - 1894年)は、自身が校訂したヨハン・クラーマーの1869年版ピアノ練習曲集の序文に「シューマンが創作に携わっていた間、ずっと故障しているメトロノームを使っていたことはすでに広く知られるところである」と述べた。さらに1886年、シューマンの書簡集を刊行したグスタフ・ヤンゼン(1831年 - 1910年)は、その第1版に、シューマンの死後メトロノーム指定が正確でないことがわかり、シューマンの作品の多くはメトロノーム指定が不適切であるとしてビューローの見解を支持した[205][206]。 1887年には、クララが自分の個人的な演奏習慣をもとにしたシューマンのピアノ作品の校閲版を同社から出版し、シューマンの与えたメトロノーム指定を大幅に改訂した。同時代を代表するピアニストであり、生涯を通じてシューマンの優れた解釈者でもあったクララの改訂は、シューマンのメトロノームが壊れていたという見解を公的に承認するものとなった[205][206]。 しかし、例えば『子供の情景』において、第2曲「不思議なお話」でのシューマンのメトロノーム表示が♪=112であるのに対してクララの指定は♪=132であり、第3曲「鬼ごっこ」ではシューマンの♪=138に対してクララが♪=120と、クララの解釈はシューマンのメトロノーム表示と比較して速いものと遅いものが混在している。もしメトロノームが壊れていたとして、あるときには進み、またあるときには遅れるということは通常考えられない。しかも、シューマンは1853年に作曲家のフェルディナント・ベーメに宛てた手紙で、時計で自分のメトロノームをチェックして異常がなかったことを報告していた[205]。 ウォーカーは、この問題の発端はクララにあったとする。彼女はシューマンのメトロノーム表示を随時変更し、時折見られる「突飛な」テンポ指示について、シューマンのメトロノームが壊れていたせいだと口外していたと見られる[205]。 また、門馬も1887年のころまでには、クララはすでにシューマンの意図から離れて自分のテンポで演奏していたとしている[206]。 ウォーカーは、それでもシューマンのテンポ表示はしばしば不自然に速く聞こえるとしており、これについて、作曲家が譜面を見ながら頭の中で「演奏」した場合、実際の演奏よりも速くなりがちであることから、シューマンは頭の中のテンポにメトロノームを合わせたために混乱が起こったとしている[205]。 音楽評論 「新音楽時報」の創刊 ライプツィヒのコーヒー・ハウス、カフェ・バウム シューマンの音楽評論活動は、1832年にライプツィヒの「一般音楽新聞(Allgemeine musikalische Zeitung)」に投稿した「諸君、脱帽したまえ、天才だ」という有名な論文でショパン(1810年 - 1849年)を紹介したことに始まる[64][注釈 30]。 当時ドイツで有力な音楽雑誌に「一般音楽新聞」と「音楽芸術の女神(Iris Gebiert der Tonkunst)」の二つがあり[65]、このうち「一般音楽新聞」は1798年創刊のドイツで最初の音楽雑誌として、ベートーヴェン作品の普及に大きな役割を果たした[207]。しかし、1830年ごろには音楽評論の姿勢は保守的な極みにあり[207]、同紙は以後シューマンの寄稿を不穏当と見なして掲載しなくなっていた[66]。 このころライプツィヒのコーヒー・ハウス「カフェ・バウム」で交わされる音楽談義には、シューマンのほかヴィークやピアニストのユリウス・クノル(1807年 - 1861年)、画家のヨハン・ペーター・リューザー(1803年 - 1870年)、医者のモーリッツ・エミール・ロイター(1802年 - 1853年)、シューマンの友人でピアニストのルートヴィヒ・シュンケ(de:Ludwig Schuncke, 1810年 - 1834年)らがいた[208]。 彼らの話し合いから新しい音楽雑誌の計画が立ち上がり、1834年4月3日、「新音楽時報」(Neue Zeitschrift fur Musik, 「音楽新報」とも)が創刊された[65][66][64]。 「新音楽時報」の意義と目的は、現在と未来を体現している若い音楽家の真価が認められ、耳を傾けてもらえるところまで働きかけて成果を得ることにあった[66]。 シューマン自身の言葉によれば、創造的な芸術家に出番を提供し、「彼自身の実力によるだけでなく、書かれた言葉で自分自身を表現するための機関を与える」ことだった[207]。 このように、19世紀前半、ライプツィヒで多くの重要な音楽雑誌が出版された中で、1834年に創刊された「新音楽時報」は、革新的であると自認する若い世代の作曲家や批評家たちからの強硬な反撃と見なすことができる[207]。 「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノルで、シューマンは編集を手伝った。しかし、数ヶ月経たないうちにクノルが病気に倒れ、ヴィークはこの仕事に興味を失い、シュンケが肺結核のために1834年末に死去すると、シューマンがすべてを受け継ぐことになった[67][65][64]。 「ダヴィッド同盟」 「新音楽時報」の誌面上で、シューマンは「ダヴィッド同盟」と称する架空の団体を創り出し、音楽界の俗物であるペリシテ人と戦うというコンセプトをもって評論を展開した[65][60][64]。 「ダヴィッド同盟」の構成員にはシューマン自身や友人・仲間たちを想定し、評論の内容によってペンネームが付けられた。例えば「フロレスタン」は行動的な情熱家、「オイゼビウス」は優しい夢想家であり、シューマン自身の性格の二つの側面を代表している[65][60][64][209]。 また、「ラロ楽長(マイスター・ラロ)」は分別をわきまえた調停役であり、そのモデルとしてヴィークを想定する説やシューマンとクララの名前をつなげた claRARObert に由来するという推定がなされている[65][209][64][注釈 31]。 「リヴィア」、「マリア」、「エレオノーレ」、「エストレリャ」、「キアリーナ」、「ツィーリア」などの女性名は、リヴィア・ゲルハルト、ヘンリエッテ・フォイクト、エルネスティーネ・フォン・フリッケン、そしてクララ・ヴィークら当時シューマンと交流のあった女性たちから採られた[209]。 このほか、「サーペンティヌス(蛇紳士。クララとの恋愛関係をめぐってライヴァルであったカール・バンクのこと)」や「クニフ(ライヴァル音楽批評誌の編集者フィンク(Fink)の逆読み)」など、特定の人物を当てこすったものもあった[65]。 この手法は読者の好奇心をそそり、ライプツィヒ市民はこれらのペンネームの正体を自分たちがよく知っている音楽家の中から見つけようとした[209]。 シューマン自身は、死の2年前に次のように意図を語っている[210]。 「芸術について対照的な考え方を表現するために、正反対の芸術的人格を創るのも悪くないと考えた。中でもフロレスタン、オイゼビウスと中庸を取る人物としてのラロ楽長はもっとも重要であった」[210] こうしたシューマンの音楽哲学は、彼が傾倒していたジャン・パウルから着想を得ている。小説『生意気盛り』に登場する「ヴァルト」と「ヴルト」が著者ジャン・パウルの性格の対照的な二面を表すことをシューマンは察知しており、彼は対位法を音楽教師たちよりむしろジャン・パウルから学んだと語っていた。一方、こうした二面性をシューマンの統合失調症の初期症状と考える解説者もいる[210]。 「ダヴィッド同盟」はシューマンの作品に実際に現れている[210][209]。 1835年に完成された『謝肉祭』(作品9)では「オイゼビウス」や「フロレスタン」など同盟の構成員が登場し、終曲は「ダヴィッド同盟員の行進」である。シューマンはここで低俗なペリシテ人に17世紀の「おじいさんのダンス」というメロディーを引用して当て、戯画化している[65]。 同年完成のピアノソナタ第1番(作品11)の献辞に、シューマンは自分の名前を書かず、「クララに捧ぐ フロレスタンとオイゼビウスより」と記した[65]。 1837年に完成された『ダヴィッド同盟舞曲集』(作品6)では、各曲に「E(オイゼビウスの頭文字)」や「F(フロレスタンの頭文字)」または「EとF」といったサインがあり、ところどころに「このとき、フロレスタンは黙っていたが、感情の高まりに唇は震えていた」などのメモが書き添えられている[210]。 シューマンの音楽批評 「新音楽時報」に掲載されたシューマンの「新しい道」(1853年) シューマンの音楽批評は、新しいドイツ近代音楽の特性を詩的に明確化するという目的を持っていた。ショパンやベルリオーズ、ベネット(1816年 - 1875年)、フィールド(1782年 - 1837年)ら外国人作曲家も擁護したが、シューマンが意図したのは自分が生きる時代と風土に根ざした音楽固有の要素を明確に表現することであって、ショパンたちの天才も同様に時代と風土の所産だと考えたからである[211]。 一方でシューマンはイタリア音楽の影響をドイツ音楽の発展にとって有害と見なし、イタリア人を「カナリア」に例えて「ベルカント」の精神を批判した。マイアベーア(1791年 - 1864年)に対して「虚ろなデクラマツィオン(劇的朗読。歌において言葉を音楽に優先させること)」とし、ロッシーニのコロラトゥーラを無用として攻撃した。また、自作にはフランス語の曲名やドイツ語の音楽用語を与えてイタリア語の概念から逃れようとした[211][注釈 32]。 シューマンは約10年にわたって「新音楽時報」を単独で主宰した[60]。 機知に富み、華麗で想像力あふれる彼の文章スタイルは読者の目を引き、「新音楽時報」は広く読者を増やして、全ドイツでもっとも影響力のある音楽雑誌となった[65]。 シューマンは音楽ジャーナリズムに確たる地歩を築き[60]、当初は作曲家としてよりもむしろ批評家としての名声を得た[65]。 シューマンの評論活動は、彼が作曲家として自立するまで財政的な安定を与えることにもなった[60]。 シューマンは1844年に「新音楽時報」の編集主幹をオズヴァルト・ロレンツ(de:Oswald Lorenz, 1806年 - 1889年)に譲り、ドレスデンに移った[101]。その後、常勤の編集部員には、カール・バンク(1809年 - 1889年)、ルートヴィヒ・ベーナー(1787年 - 1860年)、それにリヒャルト・ワーグナーも加わっている[211][64]。 1853年、ブラームスとの出会いによってシューマンは10年ぶりに評論の筆を執り、「新しい道」と題する評論を書いてブラームスを世に紹介した。この評論は、ショパンの天才をいち早く発見したシューマンの最初の評論と呼応して、「天才は天才を知る」の見事な実例となっている[118]。 「新音楽時報」の発行を中心とするシューマンの就筆活動は近代音楽評論の道を開くものとして大いに注目に値する[198]。 その一方で、シューマンの論文は今日ではあまりにも心情的・主観的色合いが濃すぎるとされる[140]。 マールブルク大学教授のジークハルト・デーリングによると、シューマンは独自の芸術方針を貫くことに熱心だったが、偏った判断を避けることができなかったし、そうしようともしなかった。彼は熱狂的な情熱にとりつかれて音楽の進むべき道筋を示そうとしたが、音楽一般の発展を促そうとはしなかった。このような傾向に潜む考え方は、ロレンツから編集を引き継いだフランツ・ブレンデル(de:Franz Brendel, 1811年 - 1868年)が、もっぱら「新ドイツ学派」だけを引き立てたことでいっそう明確になった[207][注釈 33]。 人物 エルンスト・リーチェルによるシューマン夫妻のレリーフ(1846年) シューマンのサイン シューマンは子供のころから晩年に至るまで日記を書き続けており、ツヴィッカウのシューマンの生家の記念館には1828年から1853年までの旅日記がすべて保管されている。ブリオンは、シューマンの日記は後世の人に読ませる目的ではなく、彼にとって人間生活という荒れ狂う海を渡りぬくための航海日誌のようなものだったとしている。シューマンの妻となったクララも日記を付けており、しかも彼女が生まれた日から父親のヴィークがクララの一人称で代筆し、娘が筆を持つことができるようになると自分で毎日書くよう求めていた[94]。 1830年ごろのシューマンについて、友人で楽長兼ピアニストだったトーマス・テークリヒスペックは次のように伝えている。 「体つきはたくましいがすらりとした若者で、ほおはとくに赤いというほどではないが血色のよい、生気あふれた顔をしていた。耳の横からこめかみにかけて、たっぷり一房になってなでつけられている、少し長めに伸ばしたブリュネットの髪がその顔にたいへんによく合っていた。彼の目はくぼんでいて黒っぽく、熱狂的な光で輝いていた。彼の風貌全体が気品そのものだった」[157] 後年の精神障害もあって内向的とされるシューマンの性格だが、ブリオンによれば、もともとの人間嫌いではなく、若い娘たちとのつきあいを好み、友情を重んじた。集まりに招かれると、仲間たちの前で演奏を楽しんだ。友人のテプケンは青年時代のシューマンの様子を次のように語っている。 「彼との共演は、彼がどの曲でも解釈と演奏法についてヒントを与え、実例で説明してくれたので、私にとって興味があると同時に、勉強になった。共同の楽しみの後では、たいてい彼の方からピアノによる幻想曲が即興で演奏され、彼は存分に才能を発揮した。実を言うと、シューマンから音楽が流れ出る様は、つねに私に楽しみを与えてくれたのであるが、どんな大音楽家のものを聞いても、これに匹敵するような楽しみを後には二度と味わったことがない」[213] とはいえ、シューマン最初期のピアノ作品の独創的で華麗な意匠が評価される中でも、彼はより客観的で普遍性への要求を自分に課していた[214]。 「お前の中から警句的な、機知的なものを取り除け―それはお前の本性にはない。単純に、自然に書け。ゲーテはつねに良いお手本だ。正確と簡潔に慣れよ、表現の連続性にも。意味をぴたりと射当てる言葉を見出すまで、探しつづけること」 ??1831年10月17日付けシューマンの日記[214] シューマン夫妻には、8人の子供が生まれた。クララは子供が生まれるたびに演奏活動を中断しなければならなかったが、シューマンは家族が増えることを喜び、子供たちと楽しく過ごしていた[109]。 シューマンの四女オイゲーニエは、父の思い出の中で次のように述べている。「父が21歳のとき、ゲーテの詩から『黄金の杖』として選び出した銘は、父の性格をよく表しています。その詩とは次のようなものです。『広い世界と人生の中で、長い歳月をたゆまず努力し、つねに探求し、かつ創り出し、うちに閉じこもらず、円熟を志す』」[215]。 ブリオンは、シューマンが『ファウスト』の作者を人生の師として選んだのは正しかったが、彼の生涯がこの銘どおりとなったのはさらに見事だった、と述べている[215]。 バッハ、ベートーヴェン、シューベルト シューマンは手紙に「私の手本とする双璧はバッハとベートーヴェンです」(1838年、ジモーニン宛て)と書き、とくにバッハ(J.S.バッハ)については「私の確信するところでは、バッハには到底かないません。彼は桁違いです」(ケーファーシュタイン宛て)、「(バッハは)芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」(哲学者クリューガー宛て)などと記している[216]。 1840年にクララと結婚したシューマンは、二人でバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、それが終わると、ベートーヴェンなどウィーン古典派の弦楽四重奏曲を勉強した[91][30]。 また、1845年にドレスデンに移ったときにもバッハのオルガン曲を研究するためにピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けたペダルピアノを導入している[106]。 デュッセルドルフ時代の1853年には、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全6曲と無伴奏チェロ組曲全6曲のピアノ伴奏部を作曲しているなど、折に触れてバッハ作品に立ち戻った[140]。 ベートーヴェンに関しては、6歳のころからピアノ作品に親しんでおり、1825年ごろからはピアノ連弾で交響曲第3番「英雄」を演奏していた[217]。 1828年からはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でベートーヴェンの交響曲に接しており[217]、ベートーヴェンの9曲の交響曲の総譜のほか、弦楽四重奏曲(大フーガを除く全曲)、『ミサ・ソレムニス』、歌劇『フィデリオ』、ピアノ協奏曲第1番、同第4番、同第5番、レオノーレ序曲第1番 - 同第3番、コリオラン序曲、エグモント序曲、献堂式序曲、ピアノ三重奏曲第7番「大公」、七重奏曲、ピアノソナタ全曲、『歌唱・ヴァイオリン・チェロ・ピアノのための25のスコットランド民謡集』の楽譜を所有していた[218]。 シューマンの『幻想曲』(作品17)では、ベートーヴェンの歌曲集『遥かなる恋人に』から「恋人よ、あなたのために歌うこのメロディーを受け取って下さい」の箇所が引用されていることで知られる[219]。 このほか、『子供のためのアルバム』(作品68)の第2曲「兵士の行進」にベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第5番「春」のスケルツォ楽章との類似が見られ、パロディーと考えられる。ピアノソナタ第2番(作品22)の終楽章でもベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第9番「クロイツェル」の終楽章を意識したと考えられている。もっとも引用が明確なのは『謝肉祭』(作品10)の終曲「ダヴィッド同盟員の行進」で、ここではベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のフィナーレからの引用がはっきりと聴き取れる[220]。 シューベルトについては、ライプツィヒに来て間もないころから友人たちと室内楽を演奏する際のお気に入りがピアノ三重奏曲第1番だった。シューマンはこのころからシューベルトに特別な親近感を抱き、「私だけのシューベルト」などと述べており[31][32]、1828年11月、シューベルトの死去が報じられたときには夜通し泣いたという[31]。 1829年5月からのハイデルベルク滞在中も、ピアノでもっとも多く演奏したのがシューベルト作品で、この時期に弾いたベートーヴェン作品はピアノ独奏曲ではなく室内楽曲が3曲のみだった[221]。 シューマンは1838年秋からウィーンに滞在してシューベルトの交響曲第8番を発見し、1839年3月にメンデルスゾーンの指揮により初演された。このことは、1841年に交響曲第1番「春」が書かれたことと密接に関わっている[5]。 シューマンと同時代の作曲家たち ベルリオーズ シューマンの日記にエクトル・ベルリオーズ(1803年 - 1869年)の名前が初めて登場するのは1834年5月末である。1836年6月23日付の手紙では、自作のピアノソナタ第1番(作品11)をベルリオーズに送っている。ベルリオーズはこれに対し、序曲『宗教裁判官』(作品3)のスコアをシューマンに送った。序曲『宗教裁判官』は、シューマンが四手ピアノ版に編曲しており、これを同年3月の「新音楽時報」で紹介していた[222]。 ベルリオーズの音楽は、その想像力、燃え上がる幻想、情熱の激しさによってシューマンを圧倒し、シューマンは彼を「ダヴィッド同盟」の一員と見なしていた[223]。 とくに『幻想交響曲』をベートーヴェンの後継的な価値ある作品と位置づけ[224]、ベルリオーズの管弦楽法を詳細に研究し、彼の音楽の「フモール」を高く評価した[223]。 1843年1月、ベルリオーズはライプツィヒを訪れ、初めてシューマンと会った。滞在中、二人はたびたび食事し、顔を合わせた。しかしベルリオーズはピアノを好まず、シューマンの多くのピアノ作品になじめなかったという[222]。 またクララは1839年2月にパリに演奏旅行しており、ベルリオーズに会ったが、よい印象を抱かなかった[222]。 メンデルスゾーンもまたベルリオーズに批判的であり、シューマンのベルリオーズ評価は彼らとの議論や口論の原因ともなった[223]。 メンデルスゾーン 1846年のフェリックス・メンデルスゾーン(1809年 - 1847年) フェリックス・メンデルスゾーン(1809年 - 1847年)に対しては、シューマンはその才能を畏敬の念を持って眺め、「19世紀のモーツァルト」と呼んだ[100]。 1835年8月にライプツィヒで会って以降、二人の交際はメンデルスゾーンの死まで続いた[225]。 一般的には、この二人の関係はシューマン側からの一方的・無制限の尊敬、メンデルスゾーン側からは適当な距離を置いた敬意及び度重なる援助と支持という形で了解されている。しかし、子細に見れば、シューマンのメンデルスゾーンへの態度は無条件の賛美ではなく、メンデルスゾーンの表現の過剰への反発や解釈上の衝突などが含まれていた。シューマンはメンデルスゾーンが指揮したベートーヴェンの第9交響曲について、第1楽章のテンポが速すぎると苦情を述べており、メンデルスゾーンの音楽の未来性については、回想録に次のように記している[225]。 「彼は、自分の使命が終わったことを感じているのだろうか。私はそうだと思う。『讃美の歌』以後の作品には、ひとはけの憂愁がしばしば尾を引く。彼の使命は終わった。彼自身がよく知っていた。すべて傷ましい」[225] ショパン 同年生まれのフレデリック・ショパン(1810年 - 1849年)を、シューマンは1831年に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」として紹介した。 これはシューマンが発表した初めての評論である[226]。ショパンは1835年10月にライプツィヒを訪れ、シューマンはショパンの演奏を聴いて「新音楽時報」で報告した。その後も1836年から1842年までの間に、ショパンが出版したピアノ曲の大部分を「新音楽時報」で紹介した。シューマンはショパンをパリで最高のピアニストであり、作曲家だと考えていた。ショパンに大曲がないことを嘆き、当初はさらに広範で深みのある音楽を期待していたが、やがてその望みは叶わないだろうと落胆した。ショパンのピアノソナタ第2番(作品35)については全面的には支持せず、とくに終楽章については「これは音楽ではない」と述べている。一方のショパンは、シューマンの音楽にも批評にもほとんど無関心であり、たまに手紙でシューマンに触れることがあっても綴りを間違えたりした[226]。 リスト 1846年のフランツ・リスト(1811年 - 1886年) シューマンとフランツ・リストとの関係は複雑なものだった[227]。 リストはシューマンをいち早く評価したひとりで、シューマンと共通する音楽観に立ってシューマンの詩的な音楽の理念を支持した。シューマンもリストも「詩的」という言葉を好んだが、二人においてこの言葉の意味するところは微妙に違っており、リストの場合はより標題音楽的な指向が強かった[224]。 リストはまた、シューマンの変奏技巧の巧みさにも着目していて、変奏曲に関してはベートーヴェンの後継者だと位置づけていた[224]。 リストはシューマンの作品の成長発展に深い影響を及ぼした[93]。シューマンは自作をすべてリストに送って助言を求め、リストがコンサートでシューマンの曲を演奏することに感謝していた[228]。リストはいずれシューマンにとってピアノはあまりにも物足りなくなると見抜き、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めている。シューマンが室内楽曲の分野に足を踏み入れたのは1842年である[93]。こうした経緯から、1840年に初めてリストに会ったシューマンは、「お互いに20年来の知己のように思えた」と語っている[227]。 しかし一方で、シューマンはリストの成金趣味や上流階級志向に困惑を覚えた[228]。 また、メンデルスゾーンによればリストは「スキャンダルと音楽的理想像との間を往復し続ける人物」であり、シューマンの妻クララはリストを「ピアノの粉砕者」と呼んでいた。シューマンはリストのあまりに華やかな個性に次第に耐えられなくなっていった[227]。 シューマンのドレスデン時代、1848年6月に二人の間に有名な諍いが起こっている。グスタフ・ヤンゼンの伝えるところによれば、リストがシューマン夫妻を突然訪問することになり、シューマンはリストを迎えるために音楽付きの晩餐会を準備した。しかしリストは約束の時刻から2時間も遅れてやってきた。音楽家たちがシューマンのピアノ四重奏曲を演奏すると、リストは「いかにも『ライプツィヒ流儀』だね」と評し、晩餐会は気まずい雰囲気となった。やがてメンデルスゾーンとマイアベーアの功績について議論が始まると、リストはマイアベーアを賞賛してメンデルスゾーンを批判した。メンデルスゾーンは前年11月に世を去っており、怒りを爆発させたシューマンはリストの両肩をつかみ、「メンデルスゾーンのような音楽家をそんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫んで部屋を出て行った。リストはクララに向き直り、「彼は私にきついことをいわれましたが、彼は、私がそうした言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」と言った[227]。 ウォーカーは、この事件をライプツィヒとヴァイマルのほぼ20年間にわたる音楽界のライヴァル同士の争いの発端ともいえるものだったとしている。リストは1848年にヴァイマルに居を定め、この地を新しい音楽の拠点にしようとしていた。古典主義的理想を信じ、交響曲を守ろうとしたシューマンに対し、リストは標題に基づく交響詩を考案し、ワーグナーとともに「芸術の総合」を唱えるようになっていった。このような文化的分裂は、後のブラームスとワーグナーをそれぞれの理論的頭目とする「ロマン派時代の大抗争」へと発展していく[227]。 後にシューマンは長い手紙を書いてリストに送ってこの件を水に流した。手紙の最後は「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と結ばれている[228]。 事件後もリストはヴァイマルでシューマンの作品を指揮とピアノの両面にわたって積極的に取り上げている。『ゲーテのファウストからの情景』第3部、『メッシーナの花嫁』序曲、劇付随音楽『マンフレッド』抜粋、交響曲第4番、ピアノ協奏曲、4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュックなどである[224]。 ワーグナー 1842年のリヒャルト・ワーグナー(1813年 - 1883年) リヒャルト・ワーグナーはライプツィヒの生まれであり、シューマンとの知己はワーグナーがまだ10歳代の1831年からである[229]。 後にワーグナーはドレスデンの宮廷歌劇場の指揮者を務め、シューマンがドレスデンに移ったことで再会するが、この二人が打ち解けることはなかった[230][112]。 シューマンが交誼を結んだフェルディナント・ヒラーの集いで二人は再三顔を合わせたものの、シューマンはワーグナーのオペラが好きになれず、マイアベーアの影響下にあって、イタリア趣味に毒されていると判断した。また、「彼(ワーグナー)のおしゃべりの才能には呆れてしまう。彼の頭の中は、いつも自分の考えでいっぱいなのだ」と語った。これに対してワーグナーは「シューマンは保守的すぎて、私の考えを受け入れることができないのだ」と非難し、シューマンの傷つきやすい性格を「行かず後家」と称して嘲笑した[111][230]。 ワーグナーのオペラ『タンホイザー』については、シューマンは故意に沈黙を守った[230]。 1845年10月に『タンホイザー』に接したシューマンは、2年後の1847年8月7日に次のように記した。 「タンホイザー、手短には論ずることのできぬオペラである。天才的な筆致によることは確かだ。もし彼が発明の才と同様に旋律の才にも恵まれた音楽家であったら、まさに時の要求する人であったろうに。このオペラについては多くのことがいわれようし、またその価値のある作品ではあるが、別の機会に譲る」[229] しかし、シューマンの詳細な評論は最後まで保留された[229]。 シューマンのこのような態度は、後のブラームスのワーグナーに対する態度に通じるものがある。ブラームスはワーグナーに終始距離を置いていたが、ワーグナーのブラームスに対する態度に比較すれば、ずっと公平なものだった。ブラームスはウィーンからヨアヒムに宛てた手紙に、「いまワーグナーが当地にいる。そして僕はワグネリアンということになるだろう。もちろんこれは矛盾だが、当地の音楽家が彼に反対する軽率な仕方をみると、思慮ある人間としてはこの矛盾もあえて冒したくなるのだ」(1862年12月29日)と書いている[231]。 年譜 つづく |