ザクセン王国の栄華を今に ドイツ・ザクセン州短訪 シューマン3 Robert Alexander Schumann 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニューに戻る シューマン1 シューマン2 シューマン3 シューマン4 シューマン5 シューマン6 シューマン7 シューマン8 シューマン9 ◆シューマン3 大学時代(1828年 - 1830年) ![]() ハインリヒ・ハイネ(1797年 - 1856年) Source:Wikimedia Commons Julius Giere - http://germazope.uni-trier.de/Projects/HHP/heine/images/displayimage?url=Giere1838_01.jpg&bildnr=8, パブリック・ドメイン, リンクによる 1828年3月にツヴィッカウのギムナジウムを優等で卒業したシューマンは、友人エミール・フレクシヒ(1808年 - 1878年)に宛てた手紙に次のように書いています。 「学校はいまや背後となり、眼前には世間が広がっている。これで学生生活も終わりだと思うと涙を禁じ得ない。とはいえ、悲しみよりも喜びの方が大きい。今こそ、真実の魂が前へ進み出て、その何たるかを世に示す時である」 1828年3月18日付、友人フレクシヒに宛てたシューマンの手紙[21] シューマンはライプツィヒ大学法科に進学しました。これは、シューマンの母ヨハンナの意向および父アウグストの遺産を管理しシューマンの後見人を務めたゴットロープ・ルーデル(1776年 - 1859年)の勧めに従ったものでした。 同じライプツィヒ大学の神学科に進んでいたフレクシヒおよび法科のモーリッツ・ゼンメル(1807年 - 1874年)と同居生活を送ることになったシューマンは、ゼンメルの紹介でギスベルト・ローゼン(1808年 - 1876年)と知り合います。 ローゼンはハイデルベルク大学に転校することになっていましたが、ジャン・パウルの崇拝者であり、シューマンとたちまち意気投合しました。 4月、シューマンはローゼンをツヴィッカウに招き、5月の新学期を前に二人でバイエルン王国への旅に出ました。バイロイト、レーゲンスブルク、アウクスブルク、ニュルンベルク、ミュンヘンを訪れ、バイロイトではジャン・パウルの未亡人ロルヴェンツェルからジャン・パウルの肖像画を譲り受けとりました。ミュンヘンでは詩人のハインリヒ・ハイネ(1797年 - 1856年)に会っています。 ハイネの印象について、シューマンは「ハイネは、人情味のあるギリシャのアナクレオンのように、ぼくを親しげに迎えてくれ、友情を込めて僕の手をしっかりと握ってくれました。(中略)ただ彼の口元には、辛辣で皮肉な微笑がありましたが」と書いています。 5月から学生生活が始まり、法律の勉強に取り組もうとしたシューマンでしたが、大学の講義への出席率は次第に低下して行きました。シューマンは母親への手紙に、冷徹な法学を好きになれないと書き送っています。ライプツィヒの周辺には故郷のツヴィッカウのように森や野の自然がなかったことも失望につながったようです。 シューマンはピアノを入手し、学生仲間の中から弦楽器奏者を見つけて室内楽の演奏に熱中するようになりました。このころ彼らが好んで取り組んだのはシューベルトのピアノ三重奏曲第1番でした。 また、1827年に死去したベートーヴェンを記念して、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団がベートーヴェンの交響曲全曲演奏会を催し、シューマンはこれを聞いて強い印象を受けました。聖トーマス教会の礼拝ではバッハのカンタータなどを聞きました。 このころの習作として、歌曲や連弾のための8つのポロネーズ、ハ短調のピアノ四重奏曲などが試みられています。とくにピアノ四重奏曲は交響曲へ改作しようとした形跡も見られます。 ![]() フリードリヒ・ヴィーク(45歳、1830年ごろ) Source:Wikimedia Commons 不明 - http://www.schumann-portal.de/pgcms/modules/mod_medien/files/m126.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる ![]() クララ・ヴィーク(1830年) Source:Wikimedia Commons 不明 - スキャナで取り込み. Transfered from fr:Wikipedia. Original uploader on 2005-09-08 12:41 was The jocker., パブリック・ドメイン, リンクによる ツヴィッカウで交流のあったアグネス・カールスの夫エルンストが1828年からライプツィヒ大学の医学教授となったことにより、シューマンはライプツィヒでカールス家と再会します。 カールス家で催された音楽会で、シューマンはピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)とその娘のクララ(1819年 - 1896年)、ライプツィヒ歌劇場指揮者のハインリヒ・マルシュナー(1795年 - 1861年)、楽譜出版商ホフマイスター(de:Friedrich Hofmeister, 1782年 - 1864年)らと出会います。 ヴィークのピアノ授業料は高く、その指導は厳格な上に過酷、残忍とまでの評判を取っていましたが、シューマンは母親に手紙を書いて許可をもらい、ヴィークにレッスンを申し込んで承諾されました。 娘のクララは当時9歳で、シューマンの前でフンメルのピアノ三重奏曲のピアノを担当し、シューマンによると「驚くほど巧みに」演奏しました。クララはこの年の10月20日にエルネスティーネ・ペルトハーラーの演奏会に賛助出演して音楽界デビューを果たします。 こうしてシューマンは1828年の夏ごろからヴィークにピアノを師事し、クララとも親しくなりました。 同じころ、シューマンはカールスの友人でブラウンシュヴァイクの楽長ゴットロープ・ヴィーデバイン(1779年 - 1854年)に自作の曲を送り、助言を頼みました。ヴィーデバインからは、シューマンには天性多くのものがあるが、専門技術と音楽的要素の用い方がいまだ不十分との返事が来ました。 シューマンは1828年8月5日付のヴィーデバインに宛てた手紙に、「いまや作曲法の研究に取りかかるべきときと存じます。―私は、勇気を出して、楽音のオデオン(大劇場)へ上る階段に足を踏み入れたいと存じます」と感謝と決意を綴っています。 友人ローゼンからの手紙を読んだシューマンはハイデルベルク大学への転校を思い立ち、後見人のルーデルに相談して賛同を得ました。当時ハイデルベルク大学にはティボー(1772年 - 1840年)やミッテルマイアー(de:Carl Joseph Anton Mittermaier, 1787年 - 1867年)ら高名な法科教授がおり、彼らの講義を聴くというのがシューマンの転校理由でした。しかし、実際のところシューマンは早朝からピアノに向かっており、頭の中に法律はすでにありませんでした。また、ティボー教授が音楽サークルを指導しており、『音楽芸術の純粋性について』という著書もあることへの期待もあったようです。 友人のゼンメルはシューマンに法律か音楽かどちらかを選ぶよう忠告しましたが、シューマンはこのときは決定できませんでした。 ![]() ライン川とラインガウの谷 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンク 1829年5月、ツヴィッカウに戻ったシューマンは、ハイデルベルクに向かう旅で南ドイツを回りました。マイン川およびライン川沿いを馬車で下り、フランクフルト、マインツ、コブレンツなどを経由して5月21日にハイデルベルクに到着しました。このとき初めてライン川を見たシューマンは感銘を受け、母親に宛てて次のように書き送っています。 「老いて堂々とした父なるラインの初めて見せる光景を、冷静な心全体で受け止めることができるように、ぼくは目を閉じました。それから目を開いてみますと、ライン川はぼくの前に古いドイツの神のようにゆったりと、音も立てず、厳粛に、誇らしげに横たわり、それとともに、山や、谷のすべてがぶどうの楽園である、花が咲き緑なすラインガウのすばらしい全景が広がっていたのです」 1829年5月、母ヨハンナに宛てたシューマンの手紙[41] この旅行では、当時ベストセラー作家だったヴィリバルト・アレクシス(本名ゲオルク・ヴィルヘルム・ヘーリング、1798年 - 1871年)と意気投合し、コブレンツまで同行しました。フランクフルトでは、ベートーヴェンの弟子だったフェルディナント・リース(1784年 - 1838年)に会い、イギリス人のリース夫人に魅せられています。 同年の夏から秋にかけて、シューマンは再び旅行に出かけ、スイスと北イタリアを訪れました。ミラノ・スカラ座ではロッシーニのオペラを聴きました。旅行中、シューマンは持ち金を使い果たし、旅先から後見人に送金を催促する手紙を頻繁に出し、ミラノでは借金をしています。 つづく |