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ザクセン王国の栄華を今に
ドイツ・ザクセン州短訪


シューマン5
Robert Alexander Schumann

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁

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シューマン

クララとの恋愛とヴィークの妨害

 シューマンとクララははじめ兄妹のような関係でした。シューマンはクララや彼女の弟アルヴィンと散歩や遊びに興じ、お化けの話をして子供たちを震え上がらせたりした。しかし、エルネスティーネとの関係が終わると、シューマンの恋愛対象はクララに向かってゆきました。 

 1835年秋、フェリックス・メンデルスゾーン(1809年 - 1847年)がライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任し、10月4日に指揮者デビュー演奏会を開きました。これを聴いたシューマンは、「新音楽時報」で絶賛します。

 クララは1835年12月9日に16歳でゲヴァントハウスでのデビューを飾り、シューマンの故郷ツヴィッカウでも演奏会を開きました。このときシューマンはツヴィッカウまで戻ってクララに会っています。

 シューマンとクララの関係に気づいたヴィークは、1836年1月にクララをライプツィヒからドレスデンに移り住まわせ、シューマンから遠ざけました。同年2月4日に母ヨハンナが死去しますが]、シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごしています。

 以降、シューマンは一段と強くクララを求めるようになりました。

 このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵詈雑言を浴びせました。シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視下に置かれました。

 ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会うたびに悪罵を投げつけ、顔につばを吐きかけることもあったといいます。さらにヴィークはシューマンに生活力がなく飲酒癖があるなど虚偽・中傷を繰り返し、エルネスティーネとの恋愛事件を蒸し返して彼女の協力を得ようとしました。シューマンを動転させるために、ヴィークの友人でクララの声楽教師だったカール・バンクにクララの恋人を演じさせようと試みてもいます。

 ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともありました。しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈されたピアノソナタ第1番を弾いてシューマンに応え、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾しました。

 1837年9月、シューマンはヴィークに手紙を書き、会見に応じてくれるよう懇願しました。数日後にヴィークは会見に応じましたが、ヴィークはクララをコンサート・ピアニストとして育てたのであって、主婦にするつもりはないと告げました。

 シューマンは9月18日付けでクララに宛てた手紙に「父上との会見は恐るべきものでした。お父上は冷ややかで、敵意に満ち、混乱し、矛盾だらけでした。とにかく人を挫くことに思慮をめぐらし、人の胸に柄まで届けとばかりに匕首を突き刺してくるのです」と報告しています。

 クララはヴィークとともにたびたび演奏旅行に出かけるようになり、シューマンはクララと会うことも手紙のやりとりも禁止されていました。しかし、彼は秘密裏にクララと文通して連絡を取り合いつつ、創作面では優れた作品を次々に書いて行きました。 クララはコンサートでシューマンの作品を演奏し、音楽によって二人は一体化しました。

 ヴィークもこれを妨げることはできなかったのです[。 日本の音楽学者前田昭雄(1935年 - )は、クララとの結婚をめぐるヴィークとの闘いの年月は、シューマンの内面を危機的な深淵にまで沈めると同時に、そこから立ち上がる決定的な力ともなったとしており、この時期に相次いで成立したピアノソナタ第1番(作品11)、『幻想小曲集』(作品12)、ピアノソナタ第3番(作品14)、『子供の情景』(作品15)、『クライスレリアーナ』(作品16)、『幻想曲』(作品17)のすべてにわたり、クララへの愛に生を賭した実存的燃焼の表白が、「言葉なき」歌として、詩として劇として展開されていると述べています。

ウィーン滞在


ウィーン滞在中にシューマンが住んだ家(1838年 - 1839年)
Source:Wikimedia Common
Politikaner - 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 シューマンは1838年10月から翌1839年4月までウィーンに滞在した。クララがウィーンでの演奏会で大成功を収めたことを知り、クララのピアニストとしての活動と「新音楽時報」の本拠地をウィーンに移せばヴィークの束縛から逃れられるのではないかと考えたのです。

 これには、詩人アーデルベルト・フォン・シャミッソー(1781年 - 1838年)の勧めがあったともいわれています。 同時にウィーンは、シューマンが1832年以来めざすべき「ベートーヴェンとシューベルトの楽都」でもありました。

 しかし、ウィーンの出版社はむしろ敵意を持ってシューマンを迎えました。当時のウィーンは反動保守の政治体制下にあり、各地の自由主義運動や革命の波及を恐れて言論や出版の自由を圧迫していました。このためシューマンは「新音楽時報」が検閲によって押さえつけられることを恐れ、計画を断念します。

 ウィーン滞在中、シューマンはベートーヴェンとシューベルトの墓を訪れました。ベートーヴェンの墓の前でシューマンは1本の鉄製のペンを拾って持ち帰りました。 また、帰途にシューベルトの兄フェルディナント(1794年 - 1859年)の家を訪ね、シューベルトの遺稿の中から大ハ長調交響曲の草稿を発見しました。 この交響曲は1839年3月21日、ライプツィヒのゲヴァントハウスでの演奏会でメンデルスゾーンの指揮によって初演され、爆発的な成功を収めることになります。

結婚


29歳のころのシューマン。ヨーゼフ・クリーフーバ-(de:Josef Kriehuber, 1800年 - 1876年)によるリトグラフ。1839年
Source:Wikimedia Common
ヨーゼフ・クリーフーバー - このファイルは以下の画像から切り出されたものです: Robert Schumann Litho.JPG, パブリック・ドメイン, リンクによる


 もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得て弁護士に訴訟手続きを依頼しました。 同年7月、シューマンはヴィークと離婚していたクララの実母マリアンネ・バルギールをベルリンに訪ねてクララとの結婚の同意を得ました。また、公的な地位を得ることが結婚に役立つかもしれないと考えたシューマンは、1840年2月、シェイクスピアと音楽との関係についての論文によってイェーナ大学の哲学博士の学位を取得しています。

 訴訟を知って激怒したヴィークは、クララがピアノを弾くことを禁じて家から追い出しました。クララは、ベルリンから迎えに来たマリアンネとともに暮らしました。ヴィークはクララの相続権停止などで対抗しようとしたものの、法廷では有効な申し立てができず、罵詈雑言をわめきちらして判事からたしなめられる有様でした。

 彼は街でシューマンに出くわすと平手打ちを食わせました。こうしたヴィークの極端な行動は、物笑いの種となります。形勢不利を悟ったヴィークは1840年1月、今度はクララの動揺を狙い、レーマンという偽名を使ってシューマンに対するありとあらゆる非難を並べ立てた手紙を書き、ベルリンで開かれたクララのリサイタル当日に届けさせました。

 この策謀は、クララの弟アルヴィンがシューマンに警告したため、シューマンはあらかじめクララに連絡を取って警戒させることができました。シューマンはこのことでヴィークを別件の名誉毀損で訴えました。

 1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下され、二人は9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げました。翌9月13日はクララの21歳の誕生日でした。この結婚式には、4月に知り合ったばかりのフランツ・リスト(1811年 - 1886年)も出席しています。 名誉毀損の訴えでもシューマンが勝訴し、1841年にヴィークはシューマンを中傷したことで2週間の禁固刑に処されました。


作曲分野の広がり

 シューマンは1839年の時点では「声楽曲は器楽曲より程度が低く、―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」と述べており、現に作品23の『4つの夜曲』までほとんどピアノ曲ばかり作曲していました。

 しかし、1840年にクララとの結婚が近づくと、一転して続々と歌曲を手がけるようになります。1840年3月から7月までの間に、シューマンは音楽史に残る5つの優れた歌曲集を作曲しました。二つの『リーダークライス』(作品24および作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)でぢ。

  これらを含め、この年に120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されています。これはシューマンが生涯に残した歌曲の大半を超えるものであり、1840年は「歌曲の年」と呼ばれます。 これについてシューマンは、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。―私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」と語っています。

 結婚後、シューマンはクララとともにバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、それが終わると、ベートーヴェンなどウィーン古典派の弦楽四重奏曲を勉強しました。

 1841年には交響曲第1番(作品38)が完成します。この交響曲はシューマンの「ライプツィヒ時代」を代表する作品であり、この曲の成功は、シューマンの創作活動においてピアノ曲と歌曲から交響曲作家への脱皮という画期をなすものとなりました。

 その後もシューマンは『序曲、スケルツォと終曲』(作品52)、ピアノと管弦楽のための幻想曲(後のピアノ協奏曲第1楽章)、ニ短調交響曲(後の交響曲第4番)などオーケストラ作品に取り組みました。

 翌1842年には、シューマンは室内楽曲の分野に足を踏み入れ、3曲の弦楽四重奏曲(イ短調、ヘ長調、イ長調の作品41)、ピアノ五重奏曲(作品44)、ピアノ四重奏曲(作品47)などが生まれました。 これには、フランツ・リストの勧めがありました。リストは、1839年6月5日付けの手紙でシューマンに室内楽曲の作曲を勧めていました。 これらにより、1841年を「交響曲の年」、1842年を「室内楽曲の年」と呼ぶことがあります。

家庭生活


ロベルト・シューマンとクララが暮らしたライプツィヒの家
Source:Wikimedia Common
Photo: Andreas Praefcke - 自ら撮影, CC 表示 3.0, リンクによる


 シューマンとクララは幼いころから日記を付けており、二人は結婚と同時にそれぞれの日記をひとつに融合させ、互いに日々の出来事を報告し合いました。毎週日曜日に一週間分の日記が朗読され、二人で反省したりコメントを付け合ったりしていました。 シューマンが家で作曲しているときにはクララはピアノの練習を控えました。このためにクララは結婚から5ヶ月後の日記に演奏力の低下を嘆いています。

 シューマンとクララの間には、8人の子供が生まれた。

 長女 マーリエ(1841年 - 1929年)
 次女 エリーゼ(1843年 - 1928年)
 三女 ユーリエ(1845年 - 1872年)
 長男 エミール(1846年 - 1847年)
 次男 ルートヴィヒ(1848年 - 1899年)
 三男 フェルディナント(1849年 - 1891年)
 四女 オイゲーニエ(1851年 - 1938年)
 四男 フェリックス(1854年 - 1879年)

 シューマンは子供好きで、いくら多くてもかまわないという考え方であり、子供が増えるに従ってクララは演奏家と主婦、母親の両立に苦心することになりました。

 また、シューマンの収入だけでは生活費が足りず、クララは家計を支えるために演奏旅行の回数を増やさなくてはならなくなりました。 クララの演奏旅行にシューマンが同伴すると、すでにピアニストとしての名声が高かったクララに比べて、シューマンは粗略に扱われました。

 1842年の演奏旅行ではオルデンブルクでクララ一人が宮廷に招待されたことに傷ついて、シューマンはライプツィヒに戻っています。 屈辱を味わった彼は、一時はアメリカへの移住を考えたほどでした。

 1844年のロシア旅行でも、シューマンは「ピアニストの夫」として従属的な立場に置かれました。 しかし、シューマンはこうした自分たちの特殊な状況を明確に理解しており、次のように述べています。

 「芸術家が結婚すれば、当然そうなるに違いないのだ。人はすべてを所有することなどできはしない。結局のところ、大切なのは幸せをずっと永続きさせることである。お互いに所有しあい、心の底から理解し、愛し合ってこそ、私たちは共に幸せになれるのだ」

 このように、シューマン夫妻の間には日常の家庭生活の負担から生ずる避けがたい緊張や芸術上の観点の違いによる深刻な対立はあったものの、お互いに相補う夫婦として、しばしば理想的なカップルとして描かれています。


つづく