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ザクセン王国の栄華を今に
ドイツ・ザクセン州短訪


シューマン6
Robert Alexander Schumann

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日
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シューマン6

精神障害の発症


エクトル・ベルリオーズ(1850年、ギュスターヴ・クールベによる肖像画)
Source: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

結婚後、シューマン夫妻が4年間住んだライプツィヒは、急速にドイツ音楽界の中心となっていった。その中心にいたのは、メンデルスゾーンである。彼はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者を務める傍ら、1843年にライプツィヒ音楽院を創設し、イグナーツ・モシェレス(ピアノ)、フェルディナンド・ダヴィッド(ヴァイオリン)、モーリッツ・ハウプトマン(音楽理論)らと並んでシューマンを作曲とピアノの教授に迎えた[100]。

メンデルスゾーンはイギリスからウィリアム・スタンデール・ベネット、デンマークからニルス・ゲーゼらをライプツィヒに招き、シューマンも彼らと親交を結んだ。シューマンは彼らを「新音楽時報」で応援したほか、ベネットに『交響的練習曲』(作品13)を献呈しており、『子供のためのアルバム』(作品68)の第42曲「北欧の歌」において、ゲーゼの名前の綴りであるGADEの音名を主題に使っている[100]。


エクトル・ベルリオーズ(1850年、ギュスターヴ・クールベによる肖像画)
Source: WikimediaCommons パブリック・ドメイン, リンクによる

シューマンはこの時期二度にわたって病気で倒れた。最初は1842年で、「過労」としてクララとともにボヘミアの温泉に保養に行った[101]。 日本の音楽評論家、門馬直美(1924年 - 2001年)は、シューマンが家庭を維持する経済的な重荷を背負いながら、大作を書いても予期した収入をもたらさず、疲労感に襲われて次第に神経衰弱気味になっていったとする。このため、1842年から1843年にかけて作曲の筆はほとんどすすまず、シューマンは内省的になり、外部との新鮮な接触を嫌悪するようになった[30]。

しかし、1843年1月にエクトル・ベルリオーズ(1803年 - 1869年)がパリからライプツィヒを訪れたことはシューマンに刺激と喜びを与えた[30]。 1843年2月ごろから創作意欲を取り戻してきたシューマンは、トマス・モアの原作に基づく独唱、合唱、管弦楽のためのオラトリオ『楽園とペリ』(作品50)を完成させる[102][92]。 『楽園とペリ』の成功は、シューマンの作曲家としての名声を決定的なものとした。この年、クララの父ヴィークがシューマン夫妻に和解を求めてきたのも、この曲の成功が理由の一つだった[103][92][30]。


シューマンが描いたモスクワのクレムリン宮殿(1844年)
Source: WikimediaCommons ブリック・ドメイン, リンクによる

二度目は1844年8月、ロシア旅行から帰ってきてまもないころで、より深刻だった[101]。この年1月25日から5月末にかけて、シューマンとクララはロシアに滞在した[30]。クララはサンクトペテルブルクでロシア皇帝の前で演奏し、ピアニストとして成功した[101]が、5ヶ月間にわたる旅行はシューマンにとって大きな負担となった[104]。

ライプツィヒに戻ったシューマンは、「新音楽時報」の編集主幹をオズヴァルト・ロレンツ(de:Oswald Lorenz)に譲り[101]、ゲーテの『ファウスト』の音楽化の構想を練り始めた[30]。しかし、夏ごろから体調が悪化し、死を恐れたり、高所恐怖症の症状を示すようになった[30]。シューマンは『ファウスト』第2部最後の「神秘の合唱」を作曲したものの、強度の神経疲労のために構想は中断され、この作品の完成はドレスデン時代を経てデュッセルドルフ時代まで持ち越されることになる[104][105]。また、9月にシューマンはライプツィヒ音楽院で教鞭をとろうと試みたが、症状の悪化により断念せざるを得なかった[101]。

10月にシューマンはドレスデンで類似療法の医師ヘルビッヒ博士の治療を受けた[101]。記録によるとシューマンの症状は、幻聴、ひっきりなしの震え、高所や鋭い金属物などに対するさまざまな恐怖症があった。とくに幻聴のために作曲もできなくなった[101]。クララはこのころのシューマンについて、「ロベルトは一晩も眠っていません。彼の想像力は恐ろしい妄想を描いているのです。毎朝早く、私は涙にくれている彼を見なければなりません。彼はもうすっかり諦めているのです」と書いている[101]。

病気の回復には気候条件の変わったところが良いと考えたシューマンは、ドレスデンへの移住を決意する[101][104][30]。この年、メンデルスゾーンがゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者を辞任し、シューマンはその後任を希望していたが、デンマーク人のゲーゼが選ばれたことで落胆し、自己嫌悪に陥ったことも転地の理由となった[101][99]。1844年12月、シューマンはライプツィヒ音楽院の職を辞し、クララら家族とともにライプツィヒを去った[101][30]。

ドレスデン時代(1844年 - 1850年)


ドレスデン時代のシューマン夫妻(1847年)
Source: WikimediaCommons  パブリック・ドメイン, リンクによる

ドレスデンに移ったシューマンはバッハの作品を再び研究し始めた。1845年4月25日、ピアノに足鍵盤(ペダル)を取り付けたペダルピアノを導入し、バッハのオルガン曲を練習できるようにした[106]。この年に作曲されたペダルピアノのための『練習曲』(作品56)、『スケッチ』(作品58)、『BACHの名による6つのフーガ』(作品60)などはその成果である[107]。創作力を徐々に回復したシューマンは、1841年に書いたピアノと管弦楽のための『幻想曲』を改訂し、新たに2つの楽章を追加してピアノ協奏曲(作品54)を完成させた[107]。

交響曲第2番(作品61)は、1845年末から約1年間を費やして完成した[108]。この間、1846年5月には幻聴や耳鳴りのために作曲できなくなり、双極性障害の症状も現れるようになっていた[109]。このため第2交響曲は、シューマンが危機を乗り越えて再生した「勝利の歌」ということもできる[108]。


フェルディナント・ヒラー(1811年 - 1885年)
Soutce: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

当時のドレスデンは、ザクセン王国の首都としてフリードリヒ・アウグスト2世の治世下にあった。芸術家たちは王の雇い人という立場に置かれ、宮廷画家が援助される一方、音楽家は冷遇されていた。また、交響作品や室内楽よりもオペラが好まれた[110]。

こうした保守的で窮屈な環境にあってシューマンの友人となったのは、アマチュア男性合唱団の指揮者をしていたフェルディナント・ヒラー(1811年 - 1885年)である[111][112]。シューマンとヒラーは協力して、ライプツィヒのゲヴァントハウスのような会員制の演奏会を企画し、1845年11月10日に演奏会を実現させた。

このとき、出演予定だったクララが病気のため、代役としてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のソリストを務めたのは、当時14歳のヨーゼフ・ヨアヒム(1831年 - 1907年)だった。しかし、一般大衆に音楽が行き渡っていないドレスデンでの運営は厳しく、活動の継続は断念せざるを得なかった[111]。

また、シューマンはドレスデン宮廷歌劇場の楽長をしていたリヒャルト・ワーグナー(1813年 - 1883年)と出会う。しかし、この二人の関係は冷ややかで、発展しなかった[111]。一方、メンデルスゾーンを高く評価していたシューマンはますます親密な文通を続けた[112]。


ジェニー・リンド(1820年 - 1887年)
Soutce: Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

シューマン夫妻にとってドレスデンはライプツィヒと比べて音楽的に遅れており、居心地の良い土地ではなかった[110]。 家計を助ける目的もあって、クララは出産と子育ての合間を縫ってしばしば演奏旅行に出かけた[112]。

1846年11月末から翌1847年1月にかけて、二人はウィーンで一連の演奏会を開催し、シューマンの交響曲第1番やピアノ協奏曲などを取り上げたが、失敗に終わった[113]。
音楽批評家のエドゥアルト・ハンスリック(1825年 - 1904年)は、このとき演奏会終了後の楽屋で「みんな冷たい人なんだわ、恩知らずが」と当たり散らすクララと、「落ち着きなさい。クララ、10年経てばすべてが変わるよ」となだめるシューマンの姿を書き残している[111]。 二人の窮地を救ったのは、「スウェーデンのナイチンゲール」と称されていたソプラノ歌手、ジェニー・リンド(1820年 - 1887年)で、彼女との共演によって1月11日の最後の演奏会は大成功を収めることができた[111]。 また、リンドを通じてシューマンとアンデルセン(1805年 - 1875年)との交流が生まれた[113]。

1847年からはオペラ『ゲノフェーファ』(作品81)に取りかかるが、精神障害に悩まされながらの作曲となった[114][115]。 7月、生まれ故郷ツヴィッカウでシューマンを称える記念祭が2週間にわたって開催され[109][112]、招かれたシューマンは恩師のクンチュや幼なじみたちと再会を果たした。

記念祭のハイライトはシューマンの交響曲第2番の発表であり、この出来事は、シューマン夫妻のウィーンでの挫折を埋めるものとなった[109]。 一方でこの年、長男エミールが早世し、11月4日にメンデルスゾーンが死んだことは痛手となった[112]。

1847年11月、友人のヒラーがデュッセルドルフの音楽監督に就任し、ドレスデンを離れることになった。シューマンはヒラーの指名を受けて男声合唱団「リーダーターフェル」の指揮者となる。シューマンは翌1848年1月にこの合唱団を70名規模の混声合唱団に拡大した。自作発表の場を得たことにより、シューマンは以降多くの合唱曲を作曲した[109][116][112]。

前田昭雄はこの時期、シューマンの様式は円熟の境地を見せ、深みと哲学的な思索性を持つようになったとしている。声楽曲としては、オペラ『ゲノフェーファ』(作品81)、バイロンの詩に基づく劇付随音楽『マンフレッド』(作品115)、『ゲーテのファウストからの情景』(WoO 3)第1部の主要部分が作曲され、歌曲にはゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター歌曲』(作品98)や『レーナウ歌曲集』(作品90)などがある[107]。

管弦楽作品としては、先に挙げたピアノ協奏曲や交響曲第2番に加え、4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(作品86、1849年)がある[109][107]。 室内楽曲の分野では、ピアノ三重奏曲第1番、同第2番のほか、オーボエやクラリネット、チェロ、ホルンのための作品が書かれている[107]。

また、ピアノ曲では『森の情景』(作品82)や『子供のためのアルバム』(作品68)がある。後者は「楽しき農夫」などの親しみやすい曲が含まれており[107]、ドレスデンで子供たちに囲まれた暮らしの中で作曲されたことをうかがわせる[109]。

ドイツに起こった三月革命は、1849年5月にドレスデンにも及んだ。思想的には自由主義・共和主義に共感していた[注釈 19]シューマンだが、暴力を嫌悪し、ワーグナーのような政治的行動はとらなかった[106][117][107][112]。 シューマンは家族とともに郊外のクライシャに避難した[106][117][107]。

1850年、かねてからバッハの作品の多くが出版されずに埋もれてしまっていることに憤慨していたシューマンは、バッハ没後100年を機に「バッハ協会(de:Bach-Gesellschaft Leipzig)」の設立に尽力、バッハ作品全集の計画に参加して中心的役割を果たした[106]。 その一方で高所恐怖症が悪化し、同年のオペラ『ゲノフェーファ』のライプツィヒ公演の際には宿の2階の部屋にいられず、1階に部屋を変えてもらわなければならないほどだった[109]。

このころ、シューマンは音楽界での定職に就きたいという希望を持つようになり、1847年には空席になっていたウィーン音楽院院長職への就任を打診し、メンデルスゾーンの死後はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者への就任についても探りを入れていたが、これらはいずれも実現しなかった[106]。

1849年の秋、ヒラーからケルンで新しい職に就くため、デュッセルドルフの音楽監督のポストをシューマンに譲りたいという手紙を受け取った[106]。 シューマンはためらったが[118]、ドレスデンの旧弊さに嫌気がさしていたクララは定職に就く機会を逃さないようシューマンに勧めた[112]。 シューマンは受諾し、1850年9月、家族とともにデュッセルドルフに向かって旅立った[106][112]。

つづく