ザクセン王国の栄華を今に ドイツ・ザクセン州短訪 シューマン4 Robert Alexander Schumann 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニューに戻る シューマン1 シューマン2 シューマン3 シューマン4 シューマン5 シューマン6 シューマン7 シューマン8 シューマン9 ◆シューマン4 ![]() ハイデルベルク大学の法科教授、アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー(1772年 - 1840年) Source:Wikimedia Commons Unknown artist; without any doubt dead for more than 70 years - Humboldt-Universität zu Berlin, パブリック・ドメイン, リンクによる ハイデルベルク大学のティボー教授は法律学の権威であるとともに熱心なアマチュア音楽家でした。 彼は合唱団「ジングフェライン」を組織し、自宅では毎週木曜日の夕方に音楽会が開かれていました。ティボーは自らピアノを弾いてヘンデルのオラトリオを演奏しました。シューマンの手紙によるとティボーは、神はシューマンに法律家としての運命を与えていないという見解を示し、シューマンは自分の時間をほとんど音楽に充てるようになりました。 シューマンのピアニストとしての評判はハイデルベルクの外にまでおよび、バーデン大公妃ステファニー(1789年 - 1860年)に招かれてマンハイムで演奏するほどでした。 こうした時期に、作品1の『アベッグ変奏曲』が完成しています。 ハイデルベルクでシューマンはシャンパンや葉巻きたばこを楽しむだけでなく、居酒屋やレストランを飲み歩き、ダンスパーティーやカーニバルの仮装大会などにも顔を出して地元の娘たちからも好かれました。彼は手紙で「ハイデルベルクの人気者」になったと自慢しています。同時に浪費癖が目立つようになり、家族や後見人、友人にも金を無心する手紙を書いています。 ![]() 1830年頃のニコロ・パガニーニ(1782年 - 1840年) Source:Wikimedia Commons ゲオルク・フリードリヒ・ケルスティング - Hannelore Gärtner: Georg Friedrich Kersting. Seemann, Leipzig 1988, パブリック・ドメイン, リンクによる 1830年4月、友人たちとフランクフルトに出かけたシューマンは、ニコロ・パガニーニ(1782年 - 1840年)のヴァイオリン演奏を聴いて決定的な影響を受けました。彼は母ヨハンナに宛てて自分の決意を打ち明けました。 「僕の今までの人生は、詩と散文との間であがいてきた苦しみの20年間でした。(中略)僕はいま、人生の岐路に立ち、どの道を選ぶべきかという問題に直面して、怯えています。そして、僕の芸術に向かおうとする資質が正しい道なのではないかと考えてしまうのです」 1830年7月30日付、母ヨハンナに宛てたシューマンの手紙 父アウグストとは異なり、母ヨハンナにとって音楽は「パンにならない芸術」であり、息子が法律の道に進むことが彼女の希望でした。シューマンの手紙にはヴィークの指導を受ける旨が書かれていたため、ヨハンナは彼に意見を求めました。 ヴィークはシューマンを弟子として引き受けると回答し、それだけでなく、3年以内にシューマンをモシェレスやフンメル以上のピアニストに育てると約束しました。これにより、ヨハンナはシューマンの意向をひとまず受け入れました。 ただしヨハンナの承諾は、シューマンをヴィークの弟子として6ヶ月間仮採用することが条件でした。 半年後にヴィークは、シューマンの才能と素質は彼が音楽家になるべきことを完全に証明するものであり、無理やり法律家にするのは愚かだと再回答しました。ヨハンナはついに納得して、シューマンが音楽家になることを認めました シューマンは1830年9月24日にハイデルベルクを発ち、10月にライプツィヒに戻りました。シューマン20歳のときです。 ライプツィヒ時代(1830年 - 1844年) 指の故障によりピアニストを断念 ![]() 20歳のころのシューマン(1830年) Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンク 1830年10月にライプツィヒに戻ったシューマンは、ヴィークの家に住み込みでレッスンを受けました。また、ヴィークの紹介によりライプツィヒ歌劇場の指揮者ハインリヒ・ドルン(1804年 - 1892年)にも音楽理論を学びます。 しかし、気難しく厳格なヴィークに対して次第に不満を募らせたシューマンは、翌1831年8月に当時名ピアニストとして名声を博していたフンメル(1778年 - 1837年)に宛てて手紙を書いてヴィークへの不満を打ち明け、レッスンを受けたいと頼んでいます。 シューマンはこのことをヴィークにも話し、激しい叱責を受けました。 1831年10月にヴィークがクララを連れて演奏旅行に出かけると、シューマンはヴィークの家を出ました。 その後もヴィークとのレッスンは続けられたものの、シューマンは再びパーティや社交活動に精を出すようになります。 シューマンは自分の下宿やカフェ・バウムなど街のコーヒー・ハウスで芸術好きな仲間たちと夜遅くまで音楽論議を交わしました。この集まりは、後の「ダヴィッド同盟」の出発点となったのです。 このころの作品に、『蝶々』(作品2)があります。 1831年、シューマンは「自伝的覚え書き」に「テクニックの練習をしすぎて、右手がだめになってしまった」と述べており、この時期に右手を故障したものと見られます。 故障の原因として、シューマンが独自に工夫した機械装置によってピアノを練習したことが挙げられていますが、詳しくは後段で述べます。 同じころ、シューマンは目の病気に罹り、失明する恐怖にも襲われています。 思い悩んだシューマンは、一時はチェロに転向することや音楽をあきらめて神学の道に進むことも考えましたが、1832年5月に作曲で身を立てる意志を固めました。 いったんピアノを離れて交響曲の作曲を試みたシューマンでしたが、『ツヴィッカウ交響曲』は未完に終わり、再びピアノ曲に専心するようになります。 「新音楽時報」の創刊と「ダヴィッド同盟」 ![]() 「新音楽時報」の表紙(1834年) Source:Wikimedia Commons anonymus - Eigenscan, パブリック・ドメイン, リンクによる シューマンは1832年、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてショパン(1809年 - 1849年)を紹介する論文を投稿していましたが、ドイツで流布している音楽批評の水準に不満を感じていました。 このため、1833年ごろからカフェ・バウムなどで友人や音楽関係の知己たちと新しい雑誌を発行する可能性について話し合い、1834年4月3日に「新音楽時報」(Neue Zeitschrift fur Musik)を創刊します。 「新音楽時報」の初代編集主幹はユリウス・クノル(1807年 - 1861年)であり、シューマンは編集の手伝いをしていましたが、まもなく仕事のすべてを引き受けることになりました。 シューマンは「新音楽時報」の中で、「新しい詩的な時代」を準備するために低俗なペリシテ人と戦う「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出し、「フロレスタン」や「オイゼビウス」といったペンネームにより自身の分身を登場させました。 ![]() 死の床のルートヴィヒ・シュンケ(1834年) Source:Wikimedia Commons Emil Kirchner - Scan aus Ernst Burger: Robert Schumann, Mainz 1999, S. 131, パブリック・ドメイン, リンクによる ![]() ヘンリエッテ・フォイクト(1808年 - 1839年)Source:Wikimedia Common Source:Wikimedia Commons Anonymus - Boetticher, Robert Schumann in seinen Schriften und Briefen, Berlin 1942, パブリック・ドメイン, リンクによる 1833年秋に兄ユリウスと兄嫁ロザーリエが相次いで死去したことにより、シューマンは孤独と恐怖感に苛まれました。 この年の日記に、シューマンは次のように書いています。 「これより僕の生涯に、大きい断面。10月から12月にかけ、怖ろしい憂鬱病に悩む。気が狂うという固定観念が僕をとりこにした」。しかし、友人のルートヴィヒ・シュンケ(de:Ludwig Schuncke, 1810年 - 1834年)や芸術家のパトロンだった商人カール・フォイクト(1805年 - 1881年)とその妻ヘンリエッテ(de:Henriette Voigt, 1808年 - 1839年)らとの親しい交際が慰めとなりました。 シューマンの友人たちの中でも、同じ下宿に住んでいたピアニストのシュンケとはとくに固い友情で結ばれていました。シューマンはシュンケに「使徒ヨハン」とあだ名を付け、作品7の『トッカータ』を彼に献呈しています。 二人の友情はシュンケが1834年末に肺結核で死去するまで続きました。 また、シューマンはヘンリエッテに心惹かれており、彼女を「変イ長調の魂」と呼び、ピアノソナタ第2番を彼女に捧げています。 エルネスティーネとの交際 ![]() ルネスティーネ・フォン・フリッケン(1816年 - 1844年) Source:Wikimedia Common 不明 - Schumann-Portal.de, パブリック・ドメイン, リンクによる 1834年4月、当時18歳のエルネスティーネ・フォン・フリッケン(1816年 - 1844年)がヴィークの新しい弟子としてヴィーク家に住み込みました。 シューマンはエルネスティーネと恋愛関係となり、半年経たないうちに彼女と婚約しますが、その後数週間のうちに双方の合意によって婚約は解消されました。 エルネスティーネはフォン・フリッケン男爵とツェトヴィッツ伯爵夫人との間の私生児であり、イギリスの音楽学者、評論家のアラン・ウォーカーによれば、彼女はこうした複雑な家庭事情についてシューマンに率直に語らず、このことを知ったシューマンが傷ついたとしています。 二人の恋愛から生まれたのが、『謝肉祭』(作品9)と『交響的練習曲』(作品13)です。 『謝肉祭』の中で、シューマンはエルネスティーネの出身地であるアッシュ(ASCH)の文字に基づく音型をちりばめています。 また『交響的練習曲』は、エルネスティーネの父フォン・フリッケン男爵が作曲した主題に基づく変奏曲です。 1835年からシューマンとクララとの恋愛が始まると、エルネスティーネは潔く身を引き、むしろ二人を励ましました。 つづく |