エントランスへはここをクリック       総目次に戻る

ザクセン王国の栄華を今に
ドイツ・ザクセン州短訪


シューマン2
Robert Alexander Schumann

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁

総合メニューに戻る

シューマン1  シューマン2  シューマン3  シューマン4  シューマン5 
シューマン6   シューマン7   シューマン8  シューマン9


シューマン2

ギムナジウム時代(1820年-1828年)


シューマンの生家にある音楽室(現シューマン博物館)
Source:Wikimedia Commons
Vwpolonia75 (Jens K. Müller) - 投稿者自身による作品, CC BY-SA 2.0 de, リンクによる

 1820年、シューマンは10歳でツヴィッカウのギムナジウムに入学しました。

 シューマンにピアノを手ほどきしたのは、聖マリア教会のオルガニストを勤めていたヨハン・ゴットフリート・クンチュ(1775年 - 1855年)です。クンチュは高度な音楽知識や技能は持っていませんでしたが、シューマンの音楽に対する情熱を育てました。

 シューマンは後に、クンチュについて「(クンチュ)先生は私の音楽的才能を認め、いずれは私の天性がおもむくことになった音楽の道を示唆して下さった唯一の方です」と述べています。

 クンチュの指導の下、シューマンは友人で同じくクンチュの弟子だったフリードリヒ・ピルツィングとともにハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンらの管弦楽曲をピアノ連弾用に編曲して練習しました。

 父アウグストはシューマンの音楽的才能を認め高価なシュトライヒャーのピアノを買い与え、シューマンはピアノを何時間も即興的に弾きました。

 シューマンはギムナジウムで開かれた校内演奏会に出演し、難曲として知られるモシェレスの『アレクサンダー変奏曲』を弾きました。また、オーケストラや合唱を組織して詩や音楽の発表会などを主催しました。 両親は、シューマンが友人たちと編成した小さなオーケストラのために、総譜や譜面台など必要な用具のすべてを寄贈するなど、シューマンの活動を支援しました。

 こうしたもとでシューマンは作曲を始め、1821年、11歳のときに合唱と管弦楽のためのオラトリオ『詩篇第150番』を作曲したのをはじめ、ピアノで即興的に幻想曲や変奏曲を作っては家族に聴かせるようになりました。しかし、この時代の作品はほとんど失われています。

 父アウグストはシューマンが音楽的才能を発揮することを喜び、シューマンが15歳のときにウェーバーに手紙を書き、息子を弟子にしてもらえないかと頼みましだ。しかし返事はなく、ウェーバーは翌1826年6月に死去します。その2ヶ月後の8月にはアウグストも世を去りました。父の死の数週間前には、姉のエミーリエが29歳で入水自殺していました。

 ギムナジウム在学中、シューマンはツヴィッカウで父アウグストと親交のあった郵便局長ヨハン・ゲオルク・シュレーゲルや製造業者カール・エルトマン・カールス(1780年 - 1842年)などの私邸で開かれる音楽会やサロンに迎えられました。

  カールス家でしばしば開かれた室内楽音楽会では、1827年にカールスの甥でコルディッツ(de:Colditz)の医師エルンスト・カールスとその妻アグネス(1802年 - 1839年)と知り合います。8歳年上のアグネスは容姿端麗な歌手で、シューマンはシューベルトの歌曲のピアノ伴奏を引き受けるなどするうちに彼女に魅せられ、夏休みの間、アグネスについてコルディッツまで行き、そこでまた音楽をともにするほどでした。

 シューマンはこの時期、アグネス以外にもナンニ・ペッチュ、リディ・ヘンペルという二人の少女と交際しており、ほとんど同時進行で恋愛を楽しんでいました。またシューマンは、このころからシャンパンや葉巻きたばこを嗜むようになりました。


ジャン・パウル(1763年 - 1825年)
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンク

 一方、シューマンは文学にも情熱を燃やしました。 シューマンは早くから父アウグストの編集を手伝いながら古今の文学書に親しみ、詩や戯曲を書くようになりました。13歳のときには父が刊行する雑誌に短文を寄稿し、1828年にはシューマンの詩がドレスデンの夕刊紙に掲載されました。

 ギムナジウムでは15歳で「ドイツ文学」サークルに入り、リーダー的存在となります。このサークルを通じてシューマンはシラー、ゲーテ、クロプシュトック、ヘルダーリン、ホフマンらの作品に親しみ、とくにシラーとゲーテは彼にとって偶像的存在となりました。

 とりわけシューマンに大きな影響を与えたのは、ドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウル(1763年 - 1825年)です。ジャン・パウルの空想に満ちた文学的スタイルにシューマンが魅了されたのは1827年ごろで、父アウグストもジャン・パウルを愛読していました。

 『巨人』、『生意気ざかり』、『見えない少舎』、『宵の明星』などのジャン・パウル作品をシューマンは精読し、傾倒のあまり、自分より傾倒の度合いの少ないものを敵対者と見なしかねないほどでした。

 また、ホメーロス、ソポクレス、ホラティウス、プラトン、キケロ、タキトゥスなどの古典やバイロン、シェイクスピアなどの外国作品にも接しており、後にシューマンが音楽評論で見せることになる対話体の手法は、プラトンによるところが大きいとされています。


つづく