ザクセン王国の栄華を今に ドイツ・ザクセン州短訪 シューマン1 Robert Alexander Schumann 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニューに戻る シューマン1 シューマン2 シューマン3 シューマン4 シューマン5 シューマン6 シューマン7 シューマン8 シューマン9 ◆シューマン1 ![]() アドルフ・フォン・メンツェル(1815年 - 1905年)によるシューマンの肖像画 Source:Wikimedia Commons アドルフ・フォン・メンツェル - Vita Robert Schumann, photo by Michael Sondermann Presseamt Stadt Bonn, パブリック・ドメイン, リンクによる ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家です。ドイツ語発音に基づきローベルト・シューマンと表記されることもあります。 ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残しました。 とくにピアノ曲と歌曲において評価が高いと言えます。 概説 ツヴィッカウの裕福な家庭に生まれ、ライプツィヒ大学の法科に進むも、ピアニストをめざしてフリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)に師事します。しかし、指の故障によりピアニストを断念、作曲家となります。 ヴィークの娘でピアニストのクララ(1819年 - 1896年)との恋愛と結婚はシューマンの創作活動に多大な影響を及ぼしました。文学への造詣も深く、1834年に「新音楽時報」の創刊に携わり、以後10年間にわたって音楽評論活動を行います。 このころから精神障害の症状に悩まされるようになります。1844年にライプツィヒからドレスデンへ、1850年にデュッセルドルフへと移住して指揮者としても活動します。この間、子供向けのピアノ曲を作曲するなど教育分野での貢献も残しました。 1853年にヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)と出会い、「新しい道」と題する論文で若き天才として紹介されますが、翌1854年にライン川に投身自殺を図ります。救助されたシューマンはボン近郊のエンデニヒの療養所に収容され、2年後の1856年に46歳で死去しました。 生い立ち 幼年時代(1810年-1820年) ![]() ロベルトの父、アウグスト・シューマン(1773年 - 1826年) Source:Wikimedia Commons Friedrich Fleischmann - http://www.portraitindex.de/documents/obj/67100915, パブリック・ドメイン, リンクによる 1810年6月8日、ザクセン王国のツヴィッカウで書籍販売・出版業を営んでいたアウグスト・シューマン(1773年 - 1826年)とその妻ヨハンナ(1767年 - 1836年)との子として生まれます。 シューマンは5人兄弟の末子であり、兄3人、姉1人がいました。 ![]() シューマンの生家(ツヴィッカウ、現シューマン博物館) Source:Wikimedia Commons André Karwath aka Aka - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 2.5, リンクによる シューマンの両親はもともと南のテューリンゲン地方の出身であり、 シューマンの父方の祖父フリードリヒ・ゴットロープ・シューマンは、ライプツィヒの南、ゲーラ近くのエントシュッツ地区の牧師でした。 シューマンの父アウグストは、文学者を志しライプツィヒ大学に学びました。1795年にツァイツ(de:Zeitz)の外科医の娘ヨハンナ・シュナーベルと結婚、1799年にロンネブルクで書店を開業し、1807年にツヴィッカウに移りました。 ツヴィッカウでは書店に併せて出版社を設立し、スコットやバイロンの翻訳全集などを出版しました。アウグスト自身も中世の騎士や修道士を題材にした物語を書き、商業的な論文や雑誌の編集もこなしました。事業に成功したアウグストは土地の名士となっていました。 シューマンの母ヨハンナも短い詩を書いたり、ピアノで軽い旋律を弾いたりしていました。シューマンの四女オイゲーニエによれば、ヨハンナは歌を歌い、アウグストはモーツァルトのアリアをヨハンナに覚えさせたといいます。 シューマンの友人でヴァイオリニストのヴァジェレフスキ(de:Wilhelm Joseph von Wasielewski, 1822年 - 1896年)が1858年に出版したシューマンの最初の伝記によれば、ヨハンナは魅力的で知的でしたが広い教養はなく、視野が狭かったとされます。その他の伝記では、現実的な性格として描かれています。 ![]() イグナーツ・モシェレス(1794年 - 1870年) Source:Wikimedia Commons Godefroy Engelmann after Pierre-Roch Vigneron - This image is available from the New York Public Library's Digital Library under the digital ID 1407504: digitalgallery.nypl.org → digitalcollections.nypl.org, パブリック・ドメイン, リンクによる 両親はシューマンのために住み込みの家庭教師を雇い、シューマンは6歳から4年間、私立の小学校で学びました。 シューマンは7歳のときに父アウグストに連れられてドレスデンに行き、ウェーバー指揮によるベートーヴェンの交響曲を聴いて感動しています。シューマンはこのころからピアノで小さな舞曲を作曲し、周囲の注目を集めるようになりました。 さらに1819年夏、9歳のときに父同伴でボヘミアのカールスバートに出かけ、イグナーツ・モシェレス(1794年-1870年)のピアノ・リサイタルを聴いて圧倒的な感銘を受けます。この体験は、シューマンがピアニストを目指すきっかけとなったとされています。 また、この年にはライプツィヒで初めてのオペラ、モーツァルトの『魔笛』に接しました。これにもシューマンは強烈な刺激を覚え、モーツァルトのオペラからの抜粋をピアノ用に編曲しています。 つづく |