エントランスへはここをクリック      <全体メニュー・中央アジア>

  シルクロードの今を征く
 Now on the Silk Road

サマルカンド2日目

アフラシャブ考古学博物館②
Arxeologik Muzey Visit in Samarkand

青山貞一 Teiichi Aoyama 東京都市大学名誉教授
 
池田こみち Komichi Ikeda 環境総合研究所顧問
掲載月日:2015年3月18日  公開予定日 2020年7月31日
独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁
総合メニュー(中央アジア)

アフラシャブ考古学博物館①  アフラシャブ考古学博物館②
アフラシャブ考古学博物館③  アフラシャブ考古学博物館④
アフラシャブ考古学博物館⑤  アフラシャブ考古学博物館⑥
アフラシャブ考古学博物館⑦  アフラシャブ考古学博物館⑧

アフラシャブ考古学博物館⑨  アフラシャブ考古学博物館⑩
アフラシャブ考古学博物館⑪  アフラシャブ考古学博物館⑫

 ところで、サマルカンド郊外にある今のアフラシャブの丘は生命感がまったくない、まさに土の塊となってます。しかし、チンギスカンのモンゴル軍によって徹底的に破壊される前、何世紀もの間、サマルカンドの街はこのアフラシャブの丘の上に営々と築かれてきたのです。

 入場料を支払い博物館の中に入ると、いきなり以下のような大壁画の一部が展示されていました。この考古学博物館は、この壁画こアフラシャブの丘の上に営々と築かれてきたソグド王国を示す象徴ものだったのです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8
 

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 アフラシャブの丘を発掘調査した結果、文化の痕跡が11層もの厚さで積み重なっているのことが確認されています。「アフラシャブの名」は、伝説の最初のソグド王から採ったもので、当時の街は城壁で囲まれ、4つの大きな門がありました。この門を通じてシルクロードと結ばれ、遥か彼方から運ばれてくる物資や商人たちで賑わっていたのです。

 実はこのアフラシャブ(Afrosiab)は、もともとサマルカンドの中心地があった場所です。ここに8世紀に最初のモスクが建てられますが、チンギス・カンのモンゴル軍によりほぼ全面的に破壊されます。すなわち、モンゴル軍によって破壊される前、アフラシャブ(Afrosiab)の丘に営々と旧サマルカンドのまちを造築してきたのです。


◆旧サマルカンド アフラシャブ

アフラシアブ【Afrasiab】とは

 ウズベキスタン共和国,サマルカンド北部にある13世紀までの都市遺跡で、旧サマルカンドに相当します。現状はほぼ三角形の平面を呈し、面積219ha。四つの城壁により、北からアルク、シャフリスタン,ラバトに分かれています。

 1874年に発掘が始まりましたが、1958年以降はシーシキンV.A.Shishkinが組織的に調査しました。北部に最古の部分が認められ,この遺跡はおそくとも前6世紀にさかのぼります。しかし、発掘された主要な時代の遺構は6~8世紀に集中し、宮殿、庶民の住居、工房が認められています。

注:本稿では、Afrosiab と Afrasiab がでてきますが、前者がウズベク語、後者がラテン語です。上述のように、「アフラシャブ」には古代から中世にかけて都市として存在した Afrasiab をそのまま使っています。

 参考:ラテン文字:Afrasiyab, Afrasiab、ウズベク語: Afrosiyob、Afrosiab

出典:コトバンク、Wikipedia


 ※本稿はサマルカンド3日目午後のサマルカンド郷土史博物館の記述と併せてご覧ください。
   グレコ・バクトリア王国の歴史  ウズベキスタンの歴史  サマルカンドの歴史

 まずアフラシヤブ (サマルカンド)について、紹介しましょう。

 上述のように、「アフラシャブ」は古代から中世にかけて都市として存在したマルカンド周辺地域における最古の遺跡です。
 
 マルカンドはサマルカンドの昔の名称です。そのマルカンドは防衛上の理由からアフラシヤブの丘の上に建設されました。南は渓谷に、北は現在のサマルカンドの一部である肥沃な土地に囲まれていたのです。

 アフラシヤブは紀元前7~6世紀に人が住みだしたとされ、ソグディアナ文化の中心地となっていました。「カラーイェ・アフラーシヤーブ (Qal’a-ye Afrasiyab、アフラシヤブの城) は、17世紀の終わりに記された資料に見られています。

 アフラシヤブの名前はシャー・ナーメに登場するトゥーラーンの英雄アフラースィヤーブと関連があると考えられています。多くの研究者、学者はアフラシヤブをタジク語で北の境界に位置する黒い河の対岸を意味するパルシャーブ が変形したものであると考えており、アフラー はペルシア語で対岸を意味するファラー (Fara) の詩における形としています。

 シャーブは黒を意味するシャーと文脈により水、川、海を意味するアーブ が合わさったものと考えられています。


現在のアフラシャブの丘。サマルカンド歴史博物館の裏手にあります
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


現在のアフラシャブの丘。サマルカンド歴史博物館の裏手にあります
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 アフラシヤブ地域は約220haに渡っており、アフラシヤブの遺構の深さは約8~12mです。アフラシヤブの考古学的な調査は19世紀の終わりに行われています。1920年代に、考古学者のミハイル・マッソンにより引き続き調査が行われました。

 ミハイル・マッソンの考古学的な研究によりサーマーン朝の宮殿はかつてアフラシヤブに存在したことが明らかになっています。そして1960~70年代にかけは再び発掘調査が行われました。アフラシヤブの考古遺跡ではアフラシヤブ壁画と呼ばれる壁画も発見されています。


サマルカンド考古学博物館3へつづく