シルクロードの今を征く Now on the Silk Road サマルカンド2日目アフラシャブ考古学博物館① Arxeologik Muzey Visit in Samarkand 青山貞一 Teiichi Aoyama 東京都市大学名誉教授 池田こみち Komichi Ikeda 環境総合研究所顧問 掲載月日:2015年3月19日 公開予定日 2020年7月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(中央アジア) アフラシャブ考古学博物館① アフラシャブ考古学博物館② アフラシャブ考古学博物館③ アフラシャブ考古学博物館④ アフラシャブ考古学博物館⑤ アフラシャブ考古学博物館⑥ アフラシャブ考古学博物館⑦ アフラシャブ考古学博物館⑧ アフラシャブ考古学博物館⑨ アフラシャブ考古学博物館⑩ アフラシャブ考古学博物館⑪ アフラシャブ考古学博物館⑫ <博物館の全体概要> 2015年に行ったウズベキスタンへの自力による現地調査は、現地でいろいろ大変でしたが、現在編纂中の「シルクロードの今を往く」<中央・西アジア>編に非常に役立っています。写真はサマルカンドのアフラシャブ考古学博物館の部分です。 このアフラシャブ考古学博物館は2人で300枚ほど写真を撮影し、帰国後に書いた論考はわずか4本でしたが、今日までに12本までに拡充しました。 サマルカンドはシルクロードの中央に位置し、あらゆる交易や情報交流の主要地点でしたが、考古学博物館は、そのサマルカンドがモンゴル帝国軍により徹底的に破壊され現在の位置に移る前の場所にありました。200ヘクタール以上の広さがあり驚きです。 しかも、博物館があるその地は、現在タジキスタンに逃れたシルクロード交易における商業活動の中核をなしたソグド人の王、すなわち「ソグド王国」があった場所でもあったのです。 現地調査では、たまたま入った博物館であり、内部には私達と学芸員以外だれもいませんでしたが、かくも世界史のひとつの重要な場所であったのです。博物館で頂いたり、購入した資料も実に貴重なものであることが、いまさらながら分かりました。また普段フェンスにカギがかけられ入れない敷地に、入れてくださり、悠久の歴史を現地で感ずることができた次第です。 シャー・ヒー・ジンダ霊廟群、サマルカンド市民のお墓を視察した後、私達は下の地図にありますサマルカンドの考古学博物館に向かいました。 ![]() 出典:ウズベキスタン大使館配付資料 以下はグーグルマップで見たサマルカンドの考古学博物館の位置です。地図中左下がサマルカンド市街、右上がウルグ・ベグ天文台がある場所になります。航空写真で三角形に見える土地が200ha以上におよぶ博物館の敷地です。 ![]() グーグルマップで見たサマルカンドの考古学博物館の位置 出典:グーグルマップ 下は拡大してみたサマルカンドの考古学博物館の敷地です。 ![]() グーグルマップで見たサマルカンドの考古学博物館の敷地 出典:グーグルマップ 途中、シャー・ヒー・ジンダ霊廟群でご一緒した若い女性たちに博物館前で再開しました。下はフェンス越しに彼女らと話す、池田です。 ![]() シャー・ヒー・ジンダ霊廟群でご一緒した若い女性たちに博物館前で再開 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 博物館の実際(正式)な名前は、アフラシャブ博物館です。 以下はその入り口をはいったところで、博物館を写した写真です。 ![]() サマルカンドの考古学博物館、正式にはアフラシャブ博物館という 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 ![]() This photo of Afrasiab is courtesy of TripAdvisor ![]() This photo of Afrasiab is courtesy of TripAdvisor 博物館の敷地の一角に以下の記念碑がありました。 Buyuk Ipak Yo'lida boshlangan do'stlik va hamkorlikka bag'ishlangan yodgorlik とあります。訳してみると、「グレートシルクロードは、「(ウズベク語)偉大なシルクロードで始まった友情と協力の記念碑」とあります。 おそらく韓国がアフラシアブの遺跡発掘調査に協力したことと関連がありそうです。 ![]() 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 以下は考古学博物館の入り口です。 ![]() 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 ![]() 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 <参考> 1300年前の高句麗使臣壁画 2014.12.26 --一部抜粋-- 1965年、サマルカンドのアフラシャブの丘にある宮殿跡から壁画が発見された。 西暦655年頃にソグディア王国のバルフマン王の治世時に制作されたものと推 定されるこの壁画は、王国を訪問した多くの国からの外交使節が登場し目を引 いた。このうち、西の壁面に高句麗人と推定される2人の使者が描かれており、 古代韓国の対外関係史に大きな衝撃を与えた。 それまでは、かつて朝鮮半島に存在していた国の対外関係は、中国や日本な ど東アジアに限られていたとの見方が有力だった。朝鮮半島から5000キロも離 れた中央アジアと関係を結んでいたとは想像もできなかった。この壁画の発見 は、古代朝鮮半島の対外関係史を再構成するきっかけとなった。 サマルカンド考古学博物館2へつづく |