エントランスへはここをクリック      <全体メニュー・中央アジア>

   シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

サマルカンド3日目

郷土史博物館2

グレコ・バクトリア王国

  Viloyai O'lkashunosilk Muzeyi

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2015年3月7日
独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁
総合メニュー(中央アジア)

郷土史博物館1  郷土史博物館2  郷土史博物館3  郷土史博物館4  郷土史博物館5
郷土史博物館6  郷土史博物館7  郷土史博物館8  郷土史博物館9  郷土史博物館10
郷土史博物館11  郷土史博物館12  郷土史博物館13  郷土史博物館14
郷土史博物館15  郷土史博物館16  郷土史博物館17  郷土史博物館18

◆ウズベキスタンの歴史(概要)

紀元前のグレコ・バクトリア王国(Greco Bactrian Kingdom)時

 その後、サマルカンドのBCからAD1000年前後までの文物(レプリカ)がありましたが、その多くは昨日、Afrosiab考古学博物館で見たものでした。というのも、Afrosiab考古学博物館、郷土史博物館ともに、サマルカンドをテーマにした博物館であるからです。

 非常に残念なのは、ここでも英語の説明はまれで大部分がウズベク語とロシア語であったことです。

 以下は、Afrosiabの考古学博物館についての論考(ブログ)と重複する部分があります。

 以下は、グレコ・バクトリア王国の版図です。

 グレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃 - 紀元前130年頃)とは、ヒンドゥークシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、ウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタンの一部)に、バクトラを中心として建てられたギリシア人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つです。

 グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂しました。

 名称のグレコ・バクトリアとは、ギリシア人のバクトリアという意味で、単にバクトリアやバクトリア王国とも呼ばれます。

 以下の解説は主にWikipediaに寄っています。


グレコ・バクトリア王国の版図     




撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

建国以前

 バクトリア地方は、もともとアッシリアが分裂してできた4王国の一つであるメディア王国の一部でした。その後、紀元前518年ごろ、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世の時代に征服され、ペルシア帝国の一部となりました。さらにその後、紀元前328年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王によって征服されています。大王の死後はセレウコス朝シリアの一部となり従軍ギリシア人の一部が住み続けました。

 アレクサンドロス3世(紀元前356年7月20日- 紀元前323年6月10日、在位紀元前336年 - 紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王は、ギリシア北部アルゲアデス朝のマケドニア王、コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主、エジプトのファラオを兼ねた人物です。

 ヘラクレスとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれました。

 ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多いようです。

 ハンニバル、カエサル、ナポレオンなどの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていました。

 旧約聖書やコーラン、シャー・ナーメ、ゾロアスター教など多様な民族の教典にも登場します。

 現代でもアレクサンドロスの名に関する名をつける人は多いようです。

 1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や、1926年 からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されています。

 以下はAfrosiabの考古学博物館で見た絵です。以下はどうも紀元前のグレコ・バクトリア王国(Greco Bactrian Kingdom)時代のもののようです。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3


つづく