エントランスへはここをクリック      <全体メニュー・中央アジア>

   シルクロードの今を征く
 Now on the Silk Road

サマルカンド2日目

アフラシャブ考古学博物館④
Arxeologik Muzey Visit in Samarkand

青山貞一 Teiichi Aoyama 東京都市大学名誉教授
 
池田こみち Komichi Ikeda 環境総合研究所顧問
掲載月日:2015年3月20日  公開予定日 2020年7月31日
独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁
総合メニュー(中央アジア)

アフラシャブ考古学博物館①  アフラシャブ考古学博物館②
アフラシャブ考古学博物館③  アフラシャブ考古学博物館④
アフラシャブ考古学博物館⑤  アフラシャブ考古学博物館⑥
アフラシャブ考古学博物館⑦  アフラシャブ考古学博物館⑧

アフラシャブ考古学博物館⑨  アフラシャブ考古学博物館⑩
アフラシャブ考古学博物館⑪  アフラシャブ考古学博物館⑫


アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドの遺跡発掘現場
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドの遺跡発掘現場
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドの遺跡発掘現場
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドの遺跡発掘現場
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


衛星写真で見た現在のアフラシヤブ(Afrosiab)の丘
ほぼ旧サマルカンドの位置がそのまま保全、保存されています
出典:グーグルアース


衛星写真で見た現在のアフラシヤブ(Afrosiab)の丘の北部
出典:グーグルアース


衛星写真で見た現在のアフラシヤブ(Afrosiab)の丘の北部
右上には住宅地が広がっています
出典:グーグルアース

◆アフラシャブの丘《Afrasiab》

 ウズベキスタン南東部の古都サマルカンドにある丘です。かつては城壁に囲まれた都市でしたが、13世紀にモンゴル軍の攻撃を受けて破壊され、廃墟となりました。隣接する博物館には紀元前7世紀頃のソグド王の宮殿跡で見つかったフレスコ画が展示されています。
 
 アフラシャブの丘を発掘調査した結果、文化の痕跡が十一層もの厚さで積み重なっているのことが確認されています。「アフラシャブの名」は、伝説の最初のソクド王から採ったもので、当時の街は城壁で囲まれ、4つの大きな門がありました。この門を通じてシルクロードと結ばれ、遥か彼方から運ばれてくる物資や商人たちでさ賑わっていたのです。

注:本稿では、Afrosiab と Afasiab がでてきますが、前者がウズベク語、後者がラテン語です。原則として前者に統一していますが、ここではあえて Afasiab をそのまま使っています。

出典:コトバンクなど


 アフラシャブの考古学博物館では、アフラシャブの丘北部の四層~十一層の地層となっていた部分などで発掘された壁画や土器、貨幣などを、地層区分毎に展示していました。

 とは言ってもウズベク語なので、なかなか時代区分すら分かりません(笑い)。

 そのアフラシヤブはウズベキスタン・サマルカンドの北部にある遺跡であり、アフラシヤブは紀元前500年から紀元後1220年まで存在していた、とあるので、紀元前+紀元後=1720年間です。

 下の壁画は、アフラシャブで最も有名な発掘された壁画です。

 アフラシヤブは紀元前7~6世紀に人が住みだしたとされ、ソグディアナ文化の中心地となっていました。アフラシャブの最も北の奥にある四地層の一番深くに眠っていたアフラシヤブの城は、17世紀の終わりに記された資料に見ることができます。

 ソグディアナ文化の中心地となった四地層の一番深くの遺構の深さは約8~12mもありました。この考古学的調査は19世紀末に行われ、20世紀初め(1920年代)、考古学者のミハイル・マッソンにより引き続き調査が行われています。

 ミハイル・マッソンの考古学研究によりサーマーン朝の宮殿は、かつてアフラシヤブに存在したことが明らかになっており、1960~70年代に再度発掘調査が行われています。これらの跡は、先に示しましたが、下の現在のグーグルアースの衛星画像からも十分見て取ることが出来ます。


衛星写真で見た現在のアフラシヤブ(Afrosiab)の丘
ほぼ旧サマルカンドがそのまま保全、保存されています
出典:グーグルアース



衛星写真で見た現在のアフラシヤブ(Afrosiab)の丘の北部
出典:グーグルアース


ウルグベグ天文台跡へつづく