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   シルクロードの今を征く
 Now on the Silk Road

サマルカンド2日目

アフラシャブ考古学博物館③
Arxeologik Muzey Visit in Samarkand

青山貞一 Teiichi Aoyama 東京都市大学名誉教授
 
池田こみち Komichi Ikeda 環境総合研究所顧問
掲載月日:2015年3月20日  
独立系メディア E-wave Tokyo
 公開予定日 2020年7月31日
Copyright by T.Aoyama & K.Ikeda 無断転載禁  
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アフラシャブ考古学博物館①  アフラシャブ考古学博物館②
アフラシャブ考古学博物館③  アフラシャブ考古学博物館④
アフラシャブ考古学博物館⑤  アフラシャブ考古学博物館⑥
アフラシャブ考古学博物館⑦  アフラシャブ考古学博物館⑧

アフラシャブ考古学博物館⑨  アフラシャブ考古学博物館⑩
アフラシャブ考古学博物館⑪  アフラシャブ考古学博物館⑫

 以下はサマルカンド3日目のサマルカンド郷土史博物館の記述と一部重複します。

 このアフラシャブの丘の上にマルカンドそして旧サマルカンドのまちが形作られました。

 サマルカンドのまちは、商才に長けたソグド人の町として、いくつもの王朝の支配を受けながらも、数世紀にわたって繁栄を続けてきました。

 しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由の路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されてしまいました。

◆ソグディアナ(Sogdiana)

 ソグディアナ(Sogdiana)は、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名です。

 
バクトリアの北、ホラズムの東、康居の南東に位置する地方でもあります。現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州に相当します。


ソグドディア

 イラン系の言語を話すソグド人と呼ばれる民族が居住したことからつけられたギリシャ語・ラテン語の名称で、西からみてオクサス川(アムダリヤ川)の向こう側にあることから、トランスオクシアナとも呼ばれています。中国の歴史書では粟特と記されています。

 もともとイランとの政治的・文化的なつながりが深く、アケメネス朝時代の紀元前6世紀にはペルシア帝国に併合されてその地方州となりました。この時、ソグディアナにアラム文字が持ち込まれ、のちにソグド語がアラム文字で表記されるようになった。アケメネス朝の滅亡後はマケドニア王国のアレクサンドロス大王に征服され、その死後は南に位置するバクトリアの地方州とされました。

 内陸アジアの東西交通・南北交通の要衝であることから周辺勢力の侵入が著しく、さらに大月氏、康居、クシャーナ朝、エフタル、突厥など周辺の遊牧国家の支配を受けたり、サーサーン朝のもとでイランの支配に服したりしました。住民のソグド人も交通の要衝であることや、強大な遊牧国家の傘下にあることを生かして交易活動に従事するようになり都市文明が繁栄します。

 8世紀にはアラブ人によって征服され、イスラム教を受容しました。アラビア語では「川の向こう側にある地方」を意味するマーワラーアンナフルの名で呼び、やがてこの地名が定着します。イスラム時代には言語的に近世ペルシア語を用いるようになってソグド語が廃れ、イランとの文化的な繋がりをより緊密にしました。後には言語的なテュルク化が進み、ペルシア語の一種であるタジク語とテュルク諸語のウズベク語が話されるようになって現代に至っています。



◆ソグド人(sogd)

 ソグド人は、中央アジア、ゼラフシャン(ザラフシャン)川流域地方に住んでいたイラン系のオアシス灌漑農耕民族を意味します。
 
 また、商業を得意とし、あまり定住にこだわらず、シルクロード周辺域で多様な経済活動を行っていました。近年の研究では、シルクロードを経済的に支配していたと言われています。

 居住地であるソグディアナがシルクロードの中間に位置することから、アケメネス朝支配下にあった頃より広く交易に従事し、マケドニアのアレクサンドロス大王の征服、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても、独自のソグド語を守り、ウイグル文字の祖であるソグド文字を利用し、宗教的にはゾロアスター教、のちに一部がマニ教を信奉して、東方のイラン系精神文化を中国にもたらしました。

 その活動範囲は東ローマ帝国から唐の長安にまで及びましたが、イスラム勢力の台頭によりイスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われました。ソグディアナ地方はのちに、ウズベク人南下によるテュルク化が進んでいきました。

出典:Wikipdia

 なお、チンギス・カンのモンゴル帝国による中央アジア攻撃については、以下のような文献があります。

 中央アジア遠征ではサマルカンドで火炎兵器の投擲機、カタパルト式投石機などの最新鋭の城攻兵器の技術を入手するが、これらはホラズムやホラーサーンの諸都市に対する攻撃で早くも使われました。

 攻城にあたってはあらかじめ降伏勧告を発し、抵抗した都市は攻略された後に他都市への見せしめのために略奪されました。

 その攻撃は熾烈を極めチンギス・カンの中央アジア遠征のとき、バーミヤーン、バルフなどの古代都市はほとんど壊滅してその後も再建されず歴史上から姿を消しています。

 反対に降伏した都市に対しては法外でない程度の税金を納めさせ、モンゴルへの臣従を迫り、モンゴル帝国の監察官(ダルガチ)を置く以外は以前と変わらない統治を許しており、住民の宗教に対しても基本的に干渉せず寛容政策を取ったとされています。

 このモンゴル帝国の威光は、中央アジアではティムール帝国として受け継がれます。これも中央アジアへ多大な影響を及ぼした。ティムール帝国は、西はアナトリアのオスマン朝(オスマン帝国)、東は明へと圧を加えましたが、特に西方は、後述するようにオスマン朝に敵対するビザンツ帝国の寿命に影響しています。ティムール帝国はのちにインド方面に後継王朝の種をまきますが、これが大英帝国とも関連するムガール帝国となっています。

 下は破壊される前のアブラシャブに築かれた旧サマルカンドです。


アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド
出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料


アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド
出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料

 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドは、下の絵地図にあるように、三重の城壁に囲まれていたことが分かります。このアフラシヤブ(Afrosiab)地域は考古学者等により永年発掘が進められており、多くの遺跡、文物が発見されております。

 下の地図からでは規模は分かりませんが、アフラシヤブ地域は約220haあったとされているので、かなりの広さがあったものと推察されます。おそらく1.5km×1.5kmほどはあったと考えられます。

 そして旧サマルカンドの町は、敷地内を流れる複数の川からの表流水の供給が、まちの生命線であったと思われます。チンギス・カンのモンゴル帝国がここを襲撃したとき、その水供給システムを徹底的に破壊したという記録もあります。


アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド
出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料


 下はアフラシャブにおける四つの城壁の位置を3次元立体地形図で示しています。


アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドの地形図 ~四つの城壁~
出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料

 下は、主要な3つの表流水(河川)源を示しています。モンゴルの攻撃によりこれらの水源が徹底的に破壊されたため、その後のサマルカンドは現在の位置に移転し展開されています。なお、北東を流れる河川は、現在もほぼ同じ位置に流れています。

 私達は博物館視察後、ウルグ・ベグ天文台に向かいますが、その途中、上記の河川の存在を確認しています。


アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド ~主要な3つの表流水源~
出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料

 下も、主要な3つの表流水(河川)源を示しています。モンゴルの攻撃によりこれらの水源が徹底的に破壊されたため、その後のサマルカンドは現在の位置に移転し展開されています。ただし、上の地図と河川、溜め池の位置が微妙に変化していることが分かります。


アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド
紀元前3-2世紀の考古学的発見です
Eramizdan avvalgi III-II ASR Arga doir Arxelologik Topilmalar
出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料


サマルカンド考古学博物館4へつづく