| ドイツ・ザクセン州短訪 アイスレーベン6 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年7月20日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニューに戻る アイスレーベン1 アイスレーベン2 アイスレーベン3 アイスレーベン4 アイスレーベン5 アイスレーベン6 ◆アイスレーベン6 記念碑 文化記念碑はルターシュタット・アイスレーベンの文化記念碑一覧を参照。 ルター記念碑はルドルフ・ジーメリングによって1883年に制作され、マルクト広場に立っている。 レーニン記念碑は、ロシアの彫刻家マトヴァイ・マニゼルによって1926年に制作され、1942年までプーシキンにあった。その後、ドイツ国防軍によって金属として利用するため接収され、アイスレーベンに運ばれたが、溶融されなかった。 そのため戦後、アイスレーベンで著名な広場に立てられた。平和的革命の後の1991年に撤去され、今日ではベルリンのドイツ歴史博物館に修復後、貸与されている。 「僚友マルティン (Kamerad Martin)」は、「鉱夫のローラント (Bergmannsroland)」としても知られ、アイスレーベンの旧市街と新市街の法的な独立を象徴する人物である。ザクセン=アンハルト州にある多くのローラント像の一つに数えられる。 カール・アイツの石は、教育者、音響学者としての功績に敬意を表して建てられた。 追悼の木 (Gedenkbäume) は、1864年3月17日、ライプツィヒの戦いの50周年に植えられた2列の西洋菩提樹の並木である。 彫刻家マックス・クルーゼによる『マラソン走者』(Der Marathonläufer, 1911年)は、アイスレーベンに1826年から1926年にあった師範学校を記念したものである。 「戒めの門 (Das Tor der Mahnung)」は、彫刻家リヒャルト・ホルンによって1932年に制作された像であり、第一次世界大戦の犠牲者の追憶するものである。 フリードリヒ・ケーニヒ記念碑は、高速印刷を発明したフリードリヒ・ケーニヒを記念し、彫刻家フリッツ・シャーパーによって1891年に制作された。 エルンスト・ロイシュナー記念碑は、上級鉱山監督官、精錬所監督官エルンスト・ロイシュナー(1828年-1896年)を記念し、1903年に彫刻家カール・ゼフナーによって制作された。 世俗の建物 旧市街の市庁舎は、1508年から1532年にかけて建てられた。 マンスフェルト伯の都市居城 伯爵領鋳造所 (Gräfliche Münze)、ルネサンス様式の建物 旧ギムナジウム (Alte Gymnasium) は当初「上級ラテン語学校 (Fürnehme Lateinschule)」として1563年から1564年にかけて建てられた。1601年の大火災後、1604年に再建された。聖職者で作詞家のマルティン・リンカートは1610年から1611年にかけて教鞭をとった。1883年にプロイセン王立ギムナジウムとなっていた学校は、宮殿広場 (Schlossplatz) の新校舎に移転した。 旧教区監督官舎は4階建てで、16世紀初頭に建てられた。ヨハネス・アグリコラ、 マギスター・イスレベイウス (Magister Islebeius) の下では、男子校であった。1546年にルター協定に従い「上級ラテン語学校」とも呼ばれるようになった。1601年には火災によって深刻な損傷を受けたが、後期ゴシック様式の特徴的な正面入口は現存している。 旧貨物計量所 (Alte Waage) ![]() 西から見たマルクト広場、旧貨物計量所と共に Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 2.5, リンクによる 旧副牧師館 (Altes Vikariat) 旧鉱山学校はバロック様式の建物で、元はカタリーナ修道院の診療所が入っていた。1798年に設立されたアイスレーベン鉱山学校が1817年から1844年にかけて使用した。 新市街市役所(旧裁判所)は、1571年から1589年に建設された。 「モーレン薬局 (Mohrenapotheke)」は1817年に建てられた。 百万橋 (Millionenbrücke) カタリーナ修道院地所の管理人の家 (Haus des Verwalters vom Katharinenstiftgut) には、豪華な破風、マンサード屋根、化粧漆喰で装飾された入口があり、1723年にバロック様式で建設された。 1913年にアイスレーベン区裁判所が王立区裁判所のために建設された。 定例催事 アイスレーベン草原市は、中部ドイツで最大の祭りで、毎年9月第3週末に行われる。その起源は、1521年に皇帝カール5世から承認された家畜・雄牛市場に遡る。この他にも、毎年「春の草原 (Frühlingswiese)」が行われる。 ヘルフタ修道院の文化の夜 (Kulturnacht im Kloster Helfta) スポーツ マンスフェルダーSVアイスレーベンは、ルターシュタット・アイスレーベンのスポーツクラブの一つである。スポーツ施設は市営で、5,000席をもつ。設備は天然芝と人工芝のグランドと屋根付きのスタンドがある。 KAVマンスフェルダー・ラントは、2013年以来、レスラー第1ブンデスリーガ (1. Ringer-Bundesliga) に所属している。 経済と社会資本 交通 ![]() 修道院広場 (Klosterplatz) のバスターミナル Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる 道路交通 連邦道路80号線はアイスレーベンを迂回し、連邦道路180号線で結ばれている。都市の南部には、連邦自動車道38号線の「アイスレーベン」ジャンクションがある。 鉄道 ーテナウ通り (Rathenaustraße) 近くにある駅には、ハレ-ハン・ミュンデン線が通り、毎時1本RE9( ハレ - ノルトハウゼン – カッセル)とRB75(ルターシュタット・アイスレーベン – ハレ)が停車する。 バス バスの市内路線、地域路線は南ハルツ運輸会社によって運営されている。州域バス路線、410、420、700は、特にヘットシュテット、マンスフェルト、アシャースレーベン、クヴェーアフルト、ネーブラに直通している。 教育機関 マルティン=ルター=ギムナジウム・アイスレーベン カタリーナ学校(Katharinenschule, 1960年から1994年は総合技術学校ヨーン・シェール) トーマス・ミュンツァー学校(小学校) 宮殿広場小学校 (Grundschule am Schlossplatz) トーアガルテン通り小学校 (Grundschule Torgartenstraße) ショル兄妹小学校 (Grundschule Geschwister-Scholl) マンスフェルト=ズュートハルツ職業学校 (Berufsschule Mansfeld-Südharz) 過去の教育機関 アイスレーベン鉱山学校、後のアイスレーベン工業学校 ギムナジウム・アン・デア・ベルクマンスアレー(Gymnasium an der Bergmannsallee, 現在はマルティン=ルター=ギムナジウムの一部) グラーベン学校(Grabenschule, 現在はカタリーナ学校の一部) リューレマン広場中等学校 (Sekundarschule am Rühlemannplatz) 人物 ![]() マルティン・ルター Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ![]() ヨハネス・アグリコラ Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ![]() フリードリヒ・ケーニヒ Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 出身者 ヘルフタのゲルトルート(1256年–1301年)カトリック教会の神秘家、聖人。 マルティン・ルター(1483年–1546年)神学者、宗教改革者 カスパー・リンデマン(1486年–1536年)医師 フィリップ・ドラッハシュテット(† 1539年アイスレーベン)鉱山・精錬所経営者、マンスフェルト伯顧問官、ルターの知人 ヨハネス・アグリコラ(1494年–1566年)宗教改革者 ミヒャエル・トイバー(1524年–1586年)法学者 パウル・クレル(1531年–1579年)ルター派神学者 カスパー・シュッツ(1540年頃–1594年)プロイセンの歴史家 小ハインリヒ・コンペニウス(1565年ごろ – 1631年)オルガン製作者 ヨハネス・ブレーヴァー(1616年–1700年)ルター派神学者 アンドレアス・ヴェーバー(1718年–1781年)哲学者、ルター派神学者 クリストフ・ヴェーバー(1734年–1787年)医師、レーブルクの温泉医 (Brunnenarzt)、ヴァルスローデの地方医 (Landphysicus) クリスティアン・ハインリヒ・シュミット(1746年–1800年)法学者、文芸学者、修辞学者 カール・フェルディナント・シュミット(1750年–1809年)法学者、民族学者 ゴットフリート・レープレヒト・シュポーン(1756年–1794年)教育者、文献学者、福音派神学者 カール・トラウゴット・ゴットロープ・シェーネマン(1765年–1802年)法学者、文献学者、ゲッティンゲン大学教授 フリードリヒ・ゴットヘルフ・ベンヤミン・シュミーダー(1770年–1838年)は、福音派神学を大学で学び、文献学者、作家、教育者となり、1804年から死去までブリークの王立ギムナジウムの校長を務めた。 フリードリヒ・ケーニヒ(1774年–1833年)出版者、発明家 カール・ベルンハルト・トリニウス(1778年–1844年)医師、ロシア皇帝の侍医[50] カール・モーリッツ・フライシャー(1809年–1876年)教育者、ギムナジウム教師、時事評論家 フリードリヒ・アウグスト・フォン・クヴェンシュテット(1809年–1889年)地質学者、古生物学者 エルンスト・フォーゲル(1810年–1879年)神学者、フランクフルト国民議会議員 ヘルマン・オッティーリエ(1821年–1904年)プロイセンの上級鉱山監督局長 ヘルマン・ゲンテ(1838年–1886年)古典文献学者、先史学者、ギムナジウム教師 カール・フィッシャー(1841年–1906年)労働者、作家 マックス・エッシェンハーゲン(1858年–1901年)地磁気学者 リヒャルト・ベットガー(1873年–1957年)SPDの政治家 マックス・シュナイダー(1875年–1967年)音楽史学者 マックス・ヘーベッカー(1882年–1948年)鉱山技師、いわゆる「シュヴァーンキルヒェン・イム・バイエリッシェン・ヴァルトのヴェーラの奇跡」の発起人 カール・アルトゥール・ヘルト(1883年–1938年)風景画家 ヴェルナー・リンドナー(1883年–1964年)建築家、ドイツの郷土保存 (Heimatschutz) で最も重要な代表者の一人。 クルト・ヴァイン(1883年–1968年)教育者、植物学者 ヘルマン・ツィッカート(1885年–1954年)ドイツの株式市場のパイオニア ヘルマン・リントラート(1896年–1960年)CDUの政治家 エクベルト・ハイエッセン(1913年–1944年)少佐、1944年7月20日事件での抵抗運動の闘士 リヒャルト・レンシュ(1923年–1997年)オルガン製作者、ラウフェン・アム・ネッカーを拠点とする Rensch 社の創業者 フランツ・ウーレ=ヴェットラー(* 1927年)ドイツ連邦軍退役中将 ウーテ・シュタルケ(* 1939年)体操選手、世界チャンピオン ルッツ・テッシュナー(* 1945年)演劇・映画俳優 ヨースト・シュプリンゲンスグート(* 1945年)ジャーナリスト クラウス=ペーター・シュティーグリッツ(* 1947年)ドイツ連邦軍退役中将、第13代空軍総監 モニカ・ギバス(* 1951年)歴史学者 アンネッテ・フォークト(* 1952年) 科学史学者(* 1952) クリステル・ホルンシュタイン(* 1954年)ジャーナリスト、社会学者、ベルク大学ヴッパータールの男女平等担当者 エーファ=マリア・アウフ(* 1955年)教授、東洋学者 グードルーン・ベーレント(1955年–2011年)陸上選手 ビルギット・ケラー(* 1959年)政治家 (SED/PDS/Die Linke)、テューリンゲン州議会議員、ノルトハウゼン郡郡長 ドロレス・レンテ(* 1959年)WASG/Die Linke の政治家 ペーター・ガッファート(* 1960年)林務官、政治家 トーマス・ランゲ(* 1964年)ボート競技で2回のオリンピック金メダリスト ティーモ・ホフマン(* 1974年)プロボクサー マルコ・クルト(* 1978年)サッカー選手 カーチャ・ヴァカン(* 1981年)短距離走選手 アネリー・ブレンデル(* 1983年)サッカー選手 ノルマン・ミュラー(* 1985年)陸上選手 ゆかりの人物 ![]() カール・アイツ Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ヘルマン・フォン・ザルム(1053年–1088年)、ザルム=ルクセンブルク伯爵ヘルマンとも (Graf Hermann von Salm-Luxemburg) は、皇帝ハインリヒ4世の対立王で、1181年から1184までアイスレーベンの水城を居城とした。 カスパー・ギュッテル(1471年–1542年)ルター派の神学者、宗教改革者、アイスレーベンで死去。 ヨハン・シュパンゲンベルク(1484年–1550年)福音派の神学者、宗教改革者、アイスレーベンで死去。 ミヒャエル・カエリウス(1492年–1559年)ルター派の神学者、宗教改革者。 ゲオルク・マヨーア(1502年–1574年)ルター派の神学者、宗教改革者、1550年から1551年まで当地の教会監督。 トーマス・ハルトマン(1548年–1609年)福音派の神学者、賛美歌の作詞家。 ヨハネス・フェルスター(1576年–1613年)ルター派の神学者、アイスレーベンにあったマンスフェルト伯領の総教会監督で、当地で死去。 ニコラウス・フォークテル(1658年–1713年)測量技師、鉱山監督官、作家、アイスレーベンに誕生、死去。 ヨハン・アントン・トリニウス(1722年–1784年)牧師、神学者、作家、アイスレーベンに誕生、死去。 ノヴァーリス、本名ゲオルク・フリードリヒ・フィリップ・フォン・ハルデンベルク男爵 (1772年–1801年)法律家、鉱山学者、初期ロマン主義の代表的詩人、当地のギムナジウムの最上級クラスに通った。 ヨハン・カール・フライエスレーベン(1774年–1846年)はザクセン選帝侯国の上級鉱山監督局長で、1800年に鉱山委員会理事及びマンスフェルト鉱業所長としてアイスレーベンに招聘された。含銅粘板岩の採掘改善について多くの刊行物を発表した。1818年にはプロイセンによるアイスレーベン鉱山学校に、フライベルク周辺から集めた鉱物コレクションの中から212個を寄贈した。 エドゥアルト・ファイン(1813年–1858年)法学者、アイスレーベン近郊のヘルフタにて死去。 エルンスト・ロイシュナー(1826年–1898年)上級鉱業所長、精錬所長、1913年位は記念碑が建てられている。 ヘルマン・グレースラー(1840年–1910年)教師、郷土研究家、作家、著作は250を超える[51]。 カール・アイツ(1848年–1924年)音響学者、音楽教育者。 カール・リューレマン(1864年–1947年)教師、記録保管人、考古学者、博物館長、地域史家、130の一部は数部にもわたる著作の作家、1927年から1934年までザクセン州及びアンハルト歴史委員会 (Hist. Kommission der Provinz Sachsen u. für Anhalt) の会員、1944年アイスレーベン名誉市民。 オットー・リヒター(1865年–1936年)1890年から1906までアイスレーベンにおける聖歌隊長、オルガン奏者、1900年にアイスレーベン・バッハ協会 (Bachverein Eisleben) を創設、1906年からドレスデンの十字架教会聖歌隊長。 マックス・ラーデマン(1896年–1941年)政治家 (KPD)。1933年にアイスレーベン市会議員、1941年にザクセンハウゼン強制収容所で殺害[52]。戦後、アイスレーベンの「リューレマン広場中等学校 (Sekundarschule am Rühlemannplatz)」は彼に因んで名付けられ、記念銘版が置かれている[37]。この他にもアイスレーベンにはマックス・ラーデマン通り (Max-Lademann-Straße) がある。 ヴェルナー・エッゲラート(1900年–1977年)政治家、1945年に郡長 (KPD)、 土地改革で大きな役割を果たした。 パウル・ベルク (Paul Berck, 1912年–1933年)いわゆるナチ運動の殉教者、アイスレーベンで射殺。 ラルフ・ヴィーナー(* 1924年、本名 Felix Ecke)1945年7月13日、アイスレーベンに「市民劇場 (Bürgertheater)」を創設し、戦後ドイツ初の劇場となった[53]。 フリッツ・ヴェンク (Fritz Wenck) 神学者、ナチ体制に対する抵抗運動の闘士。1934年から1935年にかけて反政府的ビラを妻とともにアイスレーベンに運ぶ。夫婦ともに1937年に逮捕される。拘留の後、ザクセンハウゼン強制収容所に送られる[54]。1945年にザクセンハウゼン強制収容所からベルゲン=ベルゼン強制収容所への死の行進の途上、殺害される[37]。今日(2010年)アイスレーベンの1本の通りが、彼に因んで因んで命名されている。 つづく |