| ドイツ・ザクセン州短訪 アイスレーベン4 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年7月20日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニューに戻る アイスレーベン1 アイスレーベン2 アイスレーベン3 アイスレーベン4 アイスレーベン5 アイスレーベン6 ◆アイスレーベン4 19世紀 ナポレオン戦争 アイスレーベンのシナゴーグ プロイセン王国が1806年にイェーナ・アウアーシュテットの戦いでフランス帝国に敗北すると、フランス軍の占領を受けた。アイスレーベンはプロイセン王国ではなく、ザクセン選帝侯国領であったにもかかわらずである。市内には公示が貼り出され「ザクセン選帝侯国全土は中立である」と確約していたにもかかわらず、都市の備蓄のすべてが徴発された。フランスはマンスフェルト伯領を、ナポレオンの弟ジェロームのもとに新設されたヴェストファーレン王国に編入した。 こうしてここでも農奴制が廃止され、経済的自由権、三権分立、ユダヤ人の同権、フランス民法典や教会記録簿の謄本が導入された。新市街は旧市街に編入された。旧来の諸制度の廃止により、ユダヤ人商人の都市居住が可能となり、1814年には初のシナゴーグを建設することができた。場所はラング小路 (Lange Gasse)、今日のルター通りであった。 ナポレオンが1813年にライプツィヒの戦いで敗北すると、ヴェストファーレン王国のマンスフェルト地への支配は終焉を迎えた。プロイセンのワシの紋章がヴェストファーレン王国の紋章に取って代わった。解放戦争にアイスレーベンも関与している。上級鉱山監督局長フォン・フェルトハイム (von Veltheim) (1785年–1839年)の指揮の下、義勇工兵大隊を編成し、参戦した。[14][16] 復古 1815年、旧マンスフェルト伯領は、ウィーン会議の結果、プロイセン王国に編入された。自治体アイスレーベンは、1816年にマンスフェルダー・ゼー郡に属し、郡庁はアイスレーベンに置かれた。 1817年、ルター派学校の新しい建物をマルティン・ルターの生家の中庭に建設した。最初の郵便局は、1825年にいわゆる「地方飛脚郵便 (Land-Fußbothen-Post)」として聖ペトリ教会の隣に開設された。 アイスレーベン師範学校 (Eisleber Lehrerseminar) が聖ペテロ教会の後の敷地内に設立された。1910年は、上方の都市公園に建物を新築し、現在はマルティン=ルター=ギムナジウム・アイスレーベンとなっている。師範学校は1926年まで存続し、ルター学校を訓練学校とした。 1827年には、聖霊門 (Heilig-Geist-Tor) とラントヴェーア (Landwehr) の間のハレ街道 (Hallesche-Chaussee) の拡張とともにアイスレーベンの道路の強化が始められた。1835年には新市立病院が完成した。 1847年には飢饉のため社会不安が高まり、当局によって軍事力をもって鎮圧された。ユダヤ教徒は増加の一途をたどり、礼拝場所が手狭になったため改築され、1850年に新アイスレーベン・シナゴーグが完成した[14][16]。 産業革命 アイスレーベン付近の4基の炉、鉱滓置場、1895年頃 アイスレーベンでの地盤沈下:ブライト道 (Breiter Weg) の家屋。1895頃 1852年にはマンスフェルトにある5つの鉱山事業所が合併し、マンスフェルト含銅粘板岩組合 (Mansfeldische kupferschieferbauende Gewerkschaft) に統合された。1858年には、都市防塁で最後に残る部分が取り壊された。 1863年には、ハレとカッセルを 結ぶ鉄道線の建設が開始された。最初の区間は1865年に営業を開始した。オーバーヒュッテ (Oberhütte)、ミッテルヒュッテ (Mittelhütte) が操業を停止すると、都市の西方でクルークヒュッテ (Krughütte) とクプファーローヒュッテ (Kupferrohhütte) での採鉱が始まった。 マルティン坑とクルークヒュッテの間には、1871年、ヨーロッパで最初のケーブルカーが設けられ、排石の輸送に使用された[32]。1883年に宗教改革者ルターの生誕400周年を記念して、ルドルフ・ジーメリングによるルター記念碑がマルクト広場に建立された[14][16]。 1892年には、ザルツィヒ湖(「塩辛い湖」)の水が下方の杭に浸水し、市中心部までに至った。そのため湖は1893年に排水が開始され、こうして地図上から姿を消した。その結果、アイスレーベンの都市部には深刻な地盤沈下が発生した。 1898年までに440棟以上の住宅が被害を受け、その多くは解体を余儀なくされた。多くの建物には、今日でも損傷または修理の跡が見られる。 多くの立坑に被害が出たため、大量解雇を余儀なくされた。鉱山被害への補償は遅々として進まず、また公正を欠くものであったため、ついには住民の暴動を引き起こした。1896年にはマンスフェルト含銅粘板岩組合は50万マルクを家屋所有者に支払うことになった[14][16]。 20世紀 1908年と1950年の東ドイツの郡改革まで、アイスレーベンは、独立した都市郡であった。 高度経済成長と第一次世界大戦 20世紀はアイスレーベンで最初の路面電車の開業で幕を開けた。1900年6月12日に鉱山700周年記念祭が、皇帝ヴィルヘルム2世と皇后アウグステ・ヴィクトリアの臨席の下、盛大に執り行われた。 好調な鉱山のおかげで、第一次世界大戦前の期間には都市の生活状況は一般に上昇した。人口は2万5,000人以上へと増加し、アイスレーベンは「郡独立市」となり、マンスフェルダー・ゼー郡から分離した。多くの公共の建物が新築された。 鉱業学校(1903年)、新病院(1904年)、下水道と下水処理場、新上級実科学校(現在の「ショル兄妹」小学校)、カタリーナ通り新女子小学校(1911年)、師範学校の新校舎(1911年)と地域歴史博物館(1913年)である。1909年に鉱山労働者は、労働組合結成の権利を求め、ストライキを決行した[14][16]。 アイスレーベンの第一次世界大戦の戦死者は、都市の公式記録によると575人である。 ヴァイマル共和国 1921年の5月闘争:アイスレーベンの革命的労働者が警察に拘引される。 1921年2月20日のプロイセン州議会選挙で、中部ドイツの工業地域では、左翼諸政党が過半数を獲得した。 共産主義者の政権掌握への恐れから、1921年3月19日、ヴィルヘルム・アベックが組織するプロイセン州警察部隊がヘットシュテットとアイスレーベンに、工場の操業を維持するべく派遣された。中部ドイツの5月闘争に際しては、労働者階級に約100名の犠牲者が出た。 1927年6月27日にアメリカの飛行家クラレンス・チェンバレンがアイスレーベン郊外の麦畑に着陸し、大陸間有人飛行を成功させた。これはチャールズ・リンドバーグの記録を2週間遅れで塗り替えるものだった。 1931年以降、マンスフェルト銅鉱の操業停止を避けるべく、銅鉱は政府からの助成金を受けた。この地域の経済の大部分が依存していたためである[14][16]。 ナチス時代と第二次世界大戦 アイスレーベンの血の日曜日:ブライト道 (Breiter Weg) 30番地の家屋にある記念銘版。1933年にドイツ共産党の事務所が置かれていた。 1933年2月12日、突撃隊の一団が、ブライト道 (Breiter Weg) のドイツ共産党 (KPD) 下級地区司令部の事務所を襲撃し、多数が負傷し、3名が殺害された。この通りは東ドイツ時代には「ファシズムの犠牲者通り (Straße der Opfer des Faschismus)」と呼ばれていた。以来、これをアイスレーベンの血の日曜日という。 1938年11月9日には「水晶の夜」事件が起き、私服の突撃隊員、親衛隊員がシナゴーグに押し入り、破壊した。ユダヤ人は虐待され、財産は破壊された[33]。 ユダヤ人はドイツ中で差別を受けたため、多くはアイスレーベンを、さらにはドイツを去った。1938年には残るユダヤ人は42人であり、少なくともその内21人はショアーで殺害された[34][35]。 有名なナチ党員には、後の武装親衛隊中将ルドルフ=ヘルマン・フォン・アルヴェンスレーベン、後の親衛隊大佐で、マイダネクの収容所司令官ヘルマン・フローアシュテットであった[36]。 他にも、聖職者もナチ政権に抵抗し、告白教会のヨハネス・ノアーク牧師が「国家煽動」の廉で投獄され、その結果、1942年に死亡した[37]。 第二次世界大戦中、913人の住民が命を落とした[14]。 戦争の終わりに至るまで、アイスレーベンはほとんど無傷であった。重要でないとは言えない鉱工業地帯の只中にあるにもかかわらずである。すべての学校や病院は、数千もの負傷兵の軍病院として使用された。 アメリカ軍は1945年4月13日、ハルツ要塞の南部周辺に到達し、アイスレーベンは戦うことなく降伏した[38]。アメリカ第1軍は即座に捕虜収容所を開設した。ヘルフタ近郊のヘルマン坑の斜面の北と東側にである。約8万m2の敷地に、ドイツ兵と民間人が野営状態で収容された。一時的に9万の捕虜が収容され、その内2,000人から3,000人が非人道的な状態のために死亡した。 収容所は1945年5月23日に閉鎖され、捕虜は他の都市に移送された。死者の遺体は、今日に至るまで発見されていない。命を落とした人々を追悼するため、1995年5月20日に戦争捕虜記念碑が設置された[39]。 戦後 1945年7月2日には、ソ連赤軍がアイスレーベンに進駐した。第1次ロンドン分割協定とヤルタ会談の決定のため、ソ連占領地域の一部となったのである。これを歓迎してアイスレーベンの共産主義者は、レーニン記念碑の計画を発表した[14][16] 。 1945年8月1日には、買い取った建物に714席を持つアイスレーベン市民劇場 (Bürgertheater Eisleben) の幕が開けた。これは戦後ドイツ初の劇場である。 フェーリクス・エッケ (Felix Ecke) の変名[40][41]、ラルフ・ヴィーナーが設立し、運営していた。 つづく |