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ドイツ・ザクセン州短訪

アイスレーベン2

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年7月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
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アイスレーベン1
 アイスレーベン2   アイスレーベン3
アイスレーベン4  アイスレーベン5    アイスレーベン6


◆アイスレーベン2

歴史

民族大移動期


 3世紀から5世紀の民族大移動時代には、スエビ族の諸部族、アンゲル族、ヴァルネ族がホルシュタイン、シュレースヴィヒ、メクレンブルクの地から南方へ移動した。

 テューリンゲンまでのエルベ川とザーレ川の西部には、この移動が地名の語尾「-レーベン (-leben)」からうかがい知ることができる。

 例えば、ハルデンスレーベンとエアフルトの間にある約100の都市や村の名称がこうして生まれた。ヘルマン・グレースラー(ドイツ語版)によると、「レーベン」はこの文脈では遺産、世襲地を意味する。地名の前部は、領主の種族と関連する[13]。

 5世紀には、移住者が先住のヘルムンドゥリ族(ドイツ語版)と混交し、テューリンゲン族(ドイツ語版)の国に属していたが、この国は531年にフランク族によって滅ぼされた。

 北テューリンゲンはザクセン族が征服し、定住した。その後は、フランク族の諸王が、いくつかの地域にシュヴァーベン、ヘッセン、フリースラントから農民を入植させた。こうしてシュヴァーベンガウ)、ヘッセガウ、フリーゼンフェルト(ドイツ語版)といった地方名ができた。

中世

ファウル湖の水城


 9世紀と10世紀には、いわゆる「ファウル湖(Fauler See, 腐湖の意)」の西岸に水城 (Wasserburg) が建設された。

 994年11月23日付の文書にアイスレーベンの名が見られる。これは後の皇帝オットー3世によるもので、既に貨幣鋳造権、関税権を含む市場特権を持つ6か所の内の一つとしてであった。交易路の交差点に位置し、王の水城に守られて発展した市場町は、王の私有財産であり、周辺の村々からの税はここで徴収された。

ニンニク王


ニンニク王
Source:Wikimedia Common
CC 表示 3.0, リンクによる


 1081年にはアイスレーベンでザクセン諸侯が、ザルム伯ヘルマン・フォン・ルクセンブルク(1053年-1088年)をハインリヒ4世の対立王に選出した選挙を承認した。なおヘルマンはこの時イタリアに滞在中であった。

 ヘルマンはアイスレーベンの水城を居城としたが、ハインリヒ4世がフリースラントから向けた軍勢に包囲された。エルンスト・フォン・マンスフェルト伯が援軍を遣し、フリース人を打ち破った。戦場は、長きにわたりフリース人通り (Friesenstraße) と呼ばれ、今日はフライ通り (Freistraße) となっている[15]。

 1084年までヘルマンは、実際に王位に就くべく手を尽くしたが、十分な支持を集めることができず、街を去った。当時、城壁の前にたくさんのニンニクが生えていたことから、人々から「ニンニク王 (Knoblauchkönig, Knoblauchskönig)」と呼ばれた[16][17]。市庁舎の北側の壁にある砂岩の彫刻は、伝承によると[18]、ニンニク王を表したものである。今日、王は観光宣伝のイメージキャラクターとなっている。

都市として初の記録文書

 1069年にはマンスフェルトに居城を持つマンスフェルト家(ドイツ語版)が、皇帝ハインリヒ4世からガウ伯領(ドイツ語版)を授けられた。アイスレーベンは間もなくこの伯爵領の中心都市へと発展した[14]。 1121年からマンスフェルト伯は、市政のために都市代官を置いた。

 アイスレーベンが、初めて自主的に選出した市長を持ったのは1809年以降のことである。1150年頃、居住地域の東端に位置する湿地帯であった「ファウル湖」の干拓が始まった。マクデブルクの司教ヴィヒマン (Wichmann) は、排水溝や堤防建設のため、フリース人とフラマン人を招き、後のニコライ地区 (Nicolaiviertel) となる地に入植させた。その痕跡は、今日でも例えば防塞付近のたくさんの堀や堤防に見て取ることができる。

 12世紀の半ばには都市壁の建設が始められ、市場や周辺の通りを囲んだ。壁は都市住民によって造られ、手工業組合ごとに持ち場が決められ、保守と防衛に責任を負っていた。門の警備は、都市が雇用した都市警吏(ドイツ語版)がその任に当たった[16]。この壁は市場といくつかの周辺の通りのみを囲んでいた。

 1180年にアイスレーベンは、初めて都市 (Civitas) として文書に記録された。都市代官 (Stadtvogt) のもとに市参事 (Consules) が12名置かれていた。都市市民はマンスフェルト伯に貢納の義務を負い、都市の裁判権はその下に置かれた。

 現在までで知られる限り、最初にアイスレーベン で貨幣が鋳造されたのは、1183年のことである。教会の小教区には、聖アンドレアス小教区、聖ゴットハルト小教区があった[16]。


銅鉱山の起源

 1200年頃、ヘットシュテットにある銅山で銅鉱脈が見つかった。伝説によれば鉱夫ナッピアン (Nappian) とノイケ (Neucke) によるもので、今日ではマンスフェルト鉱山を象徴する人物となっている。当初、農民は自分の土地を採掘したが、間もなく産業となっていった。1215年に皇帝フリードリヒ2世は、マンスフェルト伯に鉱山支配権(ドイツ語版)を授け、1364年には、カール4世によって承認された[16] 。鉱業は経済構造を変え、伯爵と都市、両者の富の基礎となった[16][14]。

ヘルフタ修道院

 シトー会のマリア修道院は、マンスフェルト伯ブルヒャルト (Burchard) 1世によって設立され、当初はマンスフェルト城(ドイツ語版)の近くに建てられた。これにはアイスレーベンの聖カタリーナ診療所 (Katharinenhospital) が属していた。

 1234年に修道院は伯爵ブルヒャルトの未亡人によって今日のロスドルフ廃坑(アイスレーベンの北西、カタリーネンヘルツヒェン (Katharinenhölzchen, カタリーナ林の意)付近、1229年にはロートヘルスドルフ (Rodhersdorf)、直近にはロストドルフ (Rostdorff) と記された)に移されたが、マンスフェルト城付近という土地柄ではあったものの、賢明な選択ではなかった。この地は水の確保が非常に困難で、ロスドルフへの移転は、芳しいものではなかった。

 1258年、女子大修道院長であるゲルトルート・フォン・ハーケボルン (Gertrud von Hakeborn) の発議で、移転することとなった。彼女の兄弟のアルブレヒトとルートヴィヒは、ヘルフタに城と領地を所有していたため、ヘルフタの土地の一部を売却するよう願い出た。

 こうして修道院は、現在のヘルフタ修道院(ドイツ語版)の地に移転した。この地は今日、アイスレーベンの一地区となっている。修道院は1284年にゲプハルト・フォン・クヴェーアフルト (Gebhard von Querfurt) による略奪にあった。


カタリーナ修道会地所 (Katharinenstiftgut) の管理人の家
Source:Wikimedia Common
CC 表示-継承 2.5, リンクによる


 1342年にブラウンシュヴァイク公爵が都市を包囲したが、失敗に終わった。この間、周辺の村や修道院が破壊された。その後、市壁の第5次拡張が開始された。修道院は、都市堡塁の端に移転された。今日の修道院広場の地である。

 しかし修道院の移転はここでも終わらなかった。1525年に「新ヘルフタ修道院」が農民戦争で蜂起した農民によって荒らされると、女子大修道院長カタリーナ・フォン・ヴァッツドルフ (Katharina von Watzdorf) と修道女らは、差し当たりハレに逃げ延びた。

 その後、皇帝カール4世から命令が下された。メーレンに移り、その地に修道院を再建せよ、というのである。しかし同年の内に、マンスフェルト伯ホイアー4世 (ドイツ語版)は力を尽くして修道院を再建し、こうしてアルト=ヘルフタの地に戻ることができたのであった。しかしこの地も修道女にとって安住の地ではなかった。

 宗教改革は1542年にプロテスタントの礼拝の導入を強制した。あらゆる手を尽くして、最後の女子修道院長ヴァルブルガ・ロイバース (Walburga Reubers) を筆頭に、信仰を忠実に守る女性たちをプロテスタントに改宗させようしたが、これに失敗すると、プロテスタントとなったゲオルク・フォン・マンスフェルト =アイスレーベン伯爵は、1546年に修道院を解散した。

 修道女は離散した。修道院の最後に残る記録は、1542年6月19日のものである。こうして破壊された村々から多くの農民が、伯爵の許しを得て、ベーゼ・ジーベン(ドイツ語版)小川(当時の呼称はヴィラーバッハ (Willerbach))の対岸へと移り住んでいった。ラムトーア通り (Rammtorstraße) には、今日、都市農民(ドイツ語版)の典型的な家屋が残る。修道院の再建が始まったのは、1998年のことである[16]。

1498年の建設と都市火災

 その後の100年は、繁栄の時代が続いた。ハルバーシュタット司教との確執から、1362年に都市は包囲されたが、堡塁で守り切ることができた。1371年には聖霊司教区本部 (Heilig-Geist-Stift) が初めて記録に現れ、1408年には初の市庁舎が石造りで建設された。1462年には「聖ニコライ教会 (St.-Nicolai-Kirche)」の聖歌隊席が聖別された。

 この教会は、ゴットハルト教会の基礎壁の上に建設されたものである。1433年にはマルクト広場に建ち、秤をもつ織物商館が記録されている。今日のマルクト22番地に当たる場所である。1440年には家屋所有者は530人、人口は4,000人を数えた。

 1447年に聖ペトリ=パウリ教会の塔の建設が始まり、ニコライ教会とアンドレアス教会のものは1462年に開始された。 1454年、市参事はマンスフェルト伯から、900ライン・グルデン(ドイツ語版)の担保に、道路舗装に関する下級裁判を手に入れた。伯爵はその後、この担保を請け出すことができなかった[19]。


ルター記念碑
Source:Wikimedia Common
CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 1483年11月10日、マルティン・ルターがラング小路(Lange Gasse, 郊外の橋地区 (Brückenviertel, trans aquam))のマルティン・ルターの生家で生まれた。今日はルター通り (Lutherstraße) となっている。

 明くる日の聖マルティヌスの日には聖ペトリ=パウリ教会で洗礼を受けた。ルター家がアイスレーベンに住んだのは、1484年の春までであった。しかしルターは、洗礼を受けたこの都市と終生、関係を持ち続けた[注 1]。近年、市政と観光業界は、この結びつきを大きく取り上げているが、これは特に2017年の宗教改革記念周年が当てはまる。

 1480年から1520年にかけて第二の都市壁が建設された。この場合、郊外のペトリ地区(農民)、ニコライ地区(フリース人)とヌスブライテ (Nußbreite)(鉱夫)が都市に加わった。1498年には、第一の都市壁内が壊滅的な火災に見舞われた。多くの住宅だけではなく、市庁舎も焼失し、聖アンドレアス教会も損傷した。マンスフェルト伯は、5年間、税金を免除することとし、これにより住民の流出に歯止めをかけることができた。


つづく