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ドイツ・ザクセン州短訪

アイスレーベン3

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年7月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
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アイスレーベン1
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◆アイスレーベン3

ルネサンス

郊外を含む旧市街の再建


 1498年に最古の都市壁内(アンドレアス地区/マルクト地区)が大火で壊滅した後、マンスフェルト伯の1498年8月17日[22]付けの特権に基づき、再建が開始された。差し当たりは順調に進み、初期は後期ゴシック建築の要素が用いられました。

 都市壁拡大による郊外の取り込みと、水の供給[23]の面で役立ったこととして、1480年から1566年にかけて、つまりマクデブルク大司教が同時にハルバーシュタットの管理者であった時代、マンスフェルト伯がマルクト地区(ハルバーシュタット司教区)と郊外(マクデブルク大司教区)の封建領主を兼ねていたことが挙げられます。

 1520年から1540年にかけて、宗教改革はアイスレーベンとマンスフェルト伯領で段階的に進み、特に1525年にヨハネス・アグリコラが福音派の男子校を設立しました。これは1546年の「ルターの条約 (Lutherische Verträge)」によって設立されたラテン語学校(ギムナジウム)の前身です。

 後期ゴシックからルネサンスへの建築様式の移行は、旧市街の市庁舎、ヒンターオルトの都市居所(1500年/1589年)、聖アンドレアス教会の装飾に見ることができます。都市の再建で特筆すべき人物としては、ベルンディヌス・ブランケンベルク(Berndinus Blanckenberg, 1470年頃-1531年)がいます。

 1507年から市参事、1518年から都市代官を務めました。彼の墓碑銘はハンス・シュレーゲル (Hans Schlegel)によってルネサンス様式で制作され、聖アンドレアス教会にあります。同教会内には、同じくシュレーゲルの手になるホイアー4世・フォン・マンスフェルト伯爵の棺型墓(1541年)があります。

 都市再建は、16世紀の始めの3分の1の期間は大いに進みました、1530年以降はマンスフェルト鉱山の危機のために、かつての勢いを失って行きました。しかしながら1538年と1560年に墓地 (Campo Santo)、1564年にはラテン語学校の校舎、1566年には聖ペトリ=パウリ教会の尖塔のルネサンス様式の円蓋、カタリーナ修道院の管理棟、1571年から1589年にかけてノイシュタット市庁舎、1585年から1608年にはアンネ教会が完成しました。

 1601年には大火が起き、とりわけルネサンス様式の水城、ミッテルオルトの都市居所、ギムナジウム、貨物計量所、多数の住民の家屋が破壊されましたが、大規模な再建は見られませんでした。その原因には、1570年にマンスフェルト伯の財産接収、1573年と1579年の財産分割と交換があります。

 ハルバーシュタットとマクデブルクのザクセン選帝侯は、アイスレーベンをその郊外と交換しました。また三十年戦争の負担、鉱山と関連産業の衰退もあります。これは1671年にザクセン選帝侯が鉱山を開放するまで続きました。これらと入り組んだ行政機構(1780年までは伯爵による行政もあった)が相まって、都市は経済的に凋落して行きました。これは18世紀末まで続き、建築物に明瞭に表れています


ノイシュタットと宗教改革


ノイシュタットの市庁舎
Source:Wikimedia Common
CC 表示 3.0, リンクによる


 1501年、マンスフェルト伯家は分割相続のため「マンスフェルト=フォアダーオルト (Mansfeld-Vorderort)」「マンスフェルト=ミッテルオルト (Mansfeld-Mittelort)」「マンスフェルト=ヒンターオルト (Mansfeld-Hinterort)」の3家に分かれました。

 16世紀初頭には3家がそれぞれアイスレーベンに都市居城を構えました。アルブレヒト4世伯爵(1480年-1560年)、「ヒンターオルト家」支流の末裔が、鉱山の活性化のため、ドイツの他の地域から鉱山や精錬所で働く労働者を呼び寄せ、旧市街の西方に住まわせ、この集落に都市権を与えました。この集落は「アイスレーベン近郊新都市 (Neue Stadt bei Eisleben)」、今日では「ノイシュタット(新市街)」または「アンネ地区 (Annenvierte)」と呼ばれています。

 今日の「ブライト道」に、1571年から1589年にかけてノイシュタットの市庁舎が建設され、1848年にはここに地方裁判所、都市裁判所が置かれ、1853年には郡裁判所となりました。そのためこの建物は「旧裁判所 (Alte Gericht)」と呼ばれています。

 1514年、皇帝マクシミリアン1世は、 アルブレヒトに都市権の取り消しを要求しました。アルブレヒトは、この要求に反対し、その代わりにアウグスティーノ隠修士修道院であり、教会を備えたアンネ修道院 (Annenkloster) を設立しました。

 ここでアルブレヒトは1518年にルターと対面しています。1520年にアンネ修道院のアウグスティーノ派の総会では、ルターの教えに賛同する旨、決議した。修道院は1523年に解散しました。

 マンスフェルト=フォアダーオルト家がカトリック信仰を堅持したのに対し、ゲルハルト7世率いるマンスフェルト=ヒンターオルト家、特にアルブレヒト7世・フォン・マンスフェルトはルターと友人であり、宗教改革の思想に共鳴しました。

 1525年に2人は、福音派の教義を導入し、聖アンドレアス教会の隣に福音派学校の設立することを決定しました。しかし両者の臣下に対する扱いは、カトリックの親類と比べて、大差はありませんでした。

 ドイツ農民戦争には、アイスレーベン出身の不満を持つ鉱山労働者が多く参加し、マンスフェルト伯領のほとんどを荒廃させましたが、アルブレヒト7世は、この燃え上がる蜂起を残虐かつ無慈悲に鎮圧しました。宗教改革戦争の混乱では、マンスフェルト家の親類縁者が敵味方に分かれ戦うという事態に至りました。

 農民戦争では、ホルツツェレのベネディクト修道院とヘルフタ修道院が荒らされ、修道女は追放されました。1529年にはペストで数百人のアイスレーベン住民が死亡しました。ホイアー4世・フォン・「マンスフェルト=フォアダーオルト」の死とともに、マンスフェルト地域で宗教改革の最大の反対派の1人が姿を消しました(棺型墓はアンドレアス教会にあります) 。

 ルター自らが幾度となく伯爵家の抗争、とりわけノイシュタットをめぐる確執の調停を試みました。ルターが最後に訪れたのは1546年のことです。2月16日にルターは、ユストゥス・ヨーナスとともに初のラテン語学校のために寄付行為書に署名しました。ここは今日、マルティン=ルター=ギムナジウム・アイスレーベンとなっています。

 1546年2月18日、マルティン・ルターはアイスレーベンで死去しました。これを記念し、マルティン・ルター死去の家が保存されています。宗教改革に加わった件で、アルブレヒト7世は、皇帝カール5世から帝国アハト刑に処せられました。しかし1552年にはこの処分を解かれました。

 1550年には、再びペストが流行し、1,500人の死者が出ました。多くの鉱山労働者が都市を去ったため、1554年には鉱区の一部を閉鎖せざるをえなくなりました。賃金が切り下げられると、動揺が広がり、ストライキが発生しました。

 1562年には、聖カタリーナ教会が焼失しましたが、再建されることはありませんでした。ザクセン選帝侯アウグストは、1567年は侯の説教者に敵対的な文書を印刷したアイスレーベンの印刷所を閉鎖に追い込み、印刷工は逮捕されました。

 数知れぬ分割相続、過度の支出、経済不況のため、1570年、ついにマンスフェルト伯爵家は破産しました。伯爵家は主権を失い、ザクセンの手に渡りました。こうしてアイスレーベンにはザクセンから総監が送られるようになりました。鉱山での労働力不足のため、都市を離れようとする者は処罰の対象となりました。

17世紀と18世紀

大火災、ペスト、三十年戦争



1689年の大火前のアイスレーベン、1647年、マテウス・メーリアン
Source:Wikimedia Common
パブリック・ドメイン, リンクによる



旧教区監督官舎
Source:Wikimedia Common 
CC 表示-継承 2.5, リンクによる


 17世紀初年の1601年には、都市は過去最の火災に見舞われました。都市の中心部では、木組みの家が密集していたため、火は瞬く間に燃え広がりました。被害は家屋253棟、教区監督官舎、貨物計量所、アンドレアス教会の尖塔、マンスフェルト伯の都市宮殿にのぼりました。特に鉱山労働者が困窮し、1621年2月8日には、貨幣鋳造主任ツィーゲンホルン (Ziegenhorn)のブライト道にある屋敷が包囲されるに至りました。

 1,000人もの鉱山労働者が、貨幣偽造をやめるよう要求しました。1626年には新たにペストが流行し、数百人の死者を出しました。1628年にはアイスレーベンにヴァレンシュタインがやって来て、三十年戦争の戦火に包まれました。都市はカトリック同盟の傭兵により荒廃しました。その結果、鉱山も操業停止となりました。

 1631年には、両陣営の軍勢が入れ替わり都市を通過し、宿泊と糧食を提供するよう強いられました。1635年にザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世と皇帝フェルディナント2世の間で単独講和が締結されると、全教会で感謝のミサが執り行われました。

 しかし1636年にはスウェーデン軍の略奪にあいました。襲撃は1644年まで続きました。 1653年にはまたも大火が起こり、166の家屋が失われ、1681年にはペストによって900人が命を落としました。ルターの生家は1689年の大火で1階まで焼失しました。

再建

 1671年にザクセン選帝侯は、マンスフェルト地域の鉱山の「開放」を許可しました。これは鉱山の発展を進め、工業化するための前提となりました。1691年には貨物計量所 (Waagehaus) が再建されました。1693年にはルター生誕の家ができました。現在、慈善学校、博物館として利用されています。

 貴族リンク家 (Rinck) の住居は、1498年の大火後、16世紀初頭にフォアダーオルト家系の都市居所として再建され、1563年からは伯爵の官房が置かれ、1689年の大火後、1707年には完全に建て直されました。

 1716年からこの官房は、マンスフェルト伯領の内、接収から解除されたプロイセン王国領の業務を担いましたが、1780年に封土の相続によって閉鎖され、1789年からはザクセン選帝侯国の上級官吏が使用しました。

 1798年7月14日にザクセン選帝侯国政府の主導で、アイスレーベン鉱山学校が設立されました。鉱山技官のための教育機関としてです。


つづく