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ドイツ・ザクセン州短訪

アイスレーベン5

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年7月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
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アイスレーベン1  アイスレーベン2   アイスレーベン3
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◆アイスレーベン5

アイスレーベンの都市印章(1500年頃)


1970年の東ドイツの切手
Source:Wikimedia Commons
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 1946年には、マルティン・ルターの死去400周年を記念して、「ルターシュタット」の称号が授与された。1949年3月22日には、2,000人以上の住民がドイツ統一を訴えるデモを行った。1950年、アイスレーベンは東ドイツ大統領ヴィルヘルム・ピーク臨席の下、マンスフェルト鉱山750周年を祝った。

 1950年に成立した大規模な郡は解体され、アイスレーベン郡とヘットシュテット郡が編成された。1951年からは、市域がエルンスト=テールマン=ジードルングとヴィルヘルム=ピーク=ジードルングに拡大された。

 1963年にはアイスレーベンで最後の含銅粘板岩坑の先進抗が閉鎖された。1969年までに、マンスフェルト盆地における鉱業の時代はついにその終焉を迎えた。マンスフェルト=コンビナートは、工具や消費財の製造に転換された。並行して、鉱業、冶金工業学校は、電気工学や機械工学のための工業学校へと発展した[14][16]。

 デパート用の敷地を確保するため、フライ通り (Freistraße) と宮殿広場 (Schlossplatz) の角に残る、昔の水城の塔 (Bergfried) の遺構が爆破、解体された。1973年から1975年の間に、都市部で再び地盤沈下が発生し、特にジーベンヒッツェの一帯がひどかった。ゾンネ道 (Sonnenweg) と旧墓地沿いには、640戸のアパートがプラッテンバウで建設された[14][16]。

 1983年はルター生誕500周年にあたり、祝祭は時間をかけて周到に準備され、36カ国からの来賓が列席した。東ドイツ郵便(1982年11月9日と1983年10月18日)と西ドイツ郵便(1983年10月13日)は、記念切手を発行した。ルター関連史跡は修復され、マルクト広場の家々のファサードが新しくされた[14][16]。

 アイスレーベンでも1989年の秋に民主主義と社会変化を訴えるデモが開催された。1990年10月3日のドイツ再統一の日以降、アイスレーベンはザクセン=アンハルト州に属している。1994年にヘットシュテット郡とアイスレーベン郡が合併し、マンスフェルダー・ラント郡となり、郡庁はアイスレーベンに置かれた。1997年以来、ルターの家はユネスコの世界文化遺産に登録されている。2007年の郡改革の結果、アイスレーベンは郡庁所在地の地位をザンガーハウゼンに譲った[14][16]。

 2009年5月25日には、連邦政府から「多様性の場」という称号を授与された。


人口動態

市域は、一貫して合併によって拡大しているにもかかわらず、1960年代中ごろから人口流出と少子化のため一貫して減少傾向にある。


1964年から1981年を除いて毎年12月31日:国勢調査
Source:Wikipedia


宗教

 ローマ・カトリック(聖ゲルトルート教会、ヘルフタ修道院)

 福音派(聖アンドレアス教会、ニコライ教会、ペトリ=パウリ教会、聖アントン教会)

 アイスレーベンには、2010年から福音派の教会監督が置かれている。管轄の教会管区は、アイスレーベン=ゼンメルダ、マンスフェルト=ズュートハルツ郡の全教区、テューリンゲン州のキフホイザー郡とゼンメルダ郡の大部分である。

・福音派自由教会

・新使徒教会


政治

市議会


市 議会は36議席から成り、加えて専任の市長が属する。2014年5月25日に地方選挙結果、会派は3会派と無所属となっている。

政党 / リスト CDU Linke SPD 無所属2 合計
議席 14 10 8 4 36 議席


市長

 市長はユッタ・フィッシャー (Jutta Fischer) である。無所属でSPDから推薦を受け、2006年3月26日に51%の票を得て当選した。2009年1月1日から、ルターシュタット・アイスレーベンの上級市長を務めている。2012年12月2日には、決選投票で64.0%を得票し再選された[43]。その直後にSPDに入党した[44]。


紋章


アイスレーベンの紋章
DEU Eisleben COA.svg
紋章記述:「青地に広がる銀色の羽根」
Source:Wikimedia Common
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 記述:紋章はかつて都市アイスレーベンがマンスフェルト伯領に属していたことを想起させる。両方の羽根はかつてのマンスフェルト伯のクレストであり、兜とともに16世紀初頭から都市紋章としての盾の中に現れた。17世紀中ごろから羽根の付いた兜は盾の上に置かれた。盾には今日では有名な2枚の羽根のみが残った。



 ルターシュタット・アイスレーベンの旗は、2009年2月27日に郡から承認された。 青と白(1対1)の2色旗である(横方向用の旗は水平方向、縦方向用は垂直方向)[45]。

姉妹都市

フランスの旗 レスム(フランス・ノール県)1962年
ドイツの旗 ヘルネ(ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州)1990年
ドイツの旗 メミンゲン(ドイツ・バイエルン州)1990年
ドイツの旗 ヴァインハイム(ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州)1990年


文化と名所

劇場


 アイスレーベンには、ザクセン=アンハルト州立劇場がある。その起源は、1945年7月13日に戦後ドイツで初の新設劇場としてアイスレーベンに設立された市民劇場 (Bürgertheater) に遡る。ザクセン=アンハルト州政府は、州の補助金の完全撤廃を意図した財政削減計画を進めているため、劇場はその存続の危機に立たされている[46][47]。

博物館

 マルティン・ルターの生家は、ドイツ語圏で最初にして最古の博物館であり、世界的に見ても最も古いものの一つである。

 この他にも博物館が併設されたルター逝去の家、地域史博物館、ヘルフタ修道院付属リボリウスハウス (Liboriushaus) がある。

 マルティン・ルターの生家は、 15世紀半に建てられた都市住民の家屋で、ここでルターは1483年11月10日に誕生した。都市は1693年にマルティン・ルターと宗教改革を記念する施設を設立した。こうしてルター生家はドイツ語圏で最も古い博物館のひとつである。1817年には、隣接の敷地に宗教改革300周年を記念して、ルター学校の校舎が新築された。

 1997年以来、両方の建物はザクセン=アンハルト州ルター記念施設財団の所有となっている。 2007年には、通りの向かい側に入り口となる建物と接続されている。
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が寄贈したルター貧民学校 (Lutherarmenschule) は、ルターの生家の建物群の一つとなっている。

 マルティン・ルター死去の家は後期ゴシックの大邸宅で、1500年頃に建てられた。



マルクト広場のマルティン・ルター記念碑
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生家前のマルティン・ルターの胸像
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ルターが洗礼を受けた教会の洗礼盤
Source:Wikimedia Commons
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ルター死去の家
Source:Wikimedia Commons
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教会


アイスレーベン・カトリック教会
Source:Wikimedia Commons
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 聖ペトリ=パウリ教会は、3つの身廊を持つハレンキルヒェであり、最古の記録は1333年のものである。西側に寄った塔は1447年から1513年に建てられた。

 今日見られる塔の天蓋の形状は1562年以来のものである[48]。ここでルターは誕生の翌日、1483年11月11日に洗礼を受けた。

 聖アンドレアス教会は、3つの身廊がある後期ゴシック様式のハレンキルヒェであり、それ以前のロマネスク様式の建物の上に建てられている。マルティン・ルターは、1546年に最後となる4回の説教を行った。

 聖アンネ教会 (St.-Annen-Kirche)、1514年に定礎、アウグスティーノ隠修士修道院と1670年に建てられた牧師館が付属する。

 聖ニコライ教会 (St.-Nicolai-Kirche)、15世紀の前半。

 旧ゲルトルート教会 (Alte Gertrudiskirche) は、1865年にアイスレーベンで初のカトリック教会として建てられた。教会が手狭になると、修道院広場 (Klosterplatz) に新築、移転した。旧教会は売却され、体育館として使用された。

 1916年に完成したカトリックの聖ゲルトルート教会 (St.-Gertrud-Kirche) は、旧ゲルトルート教会が新築、移転したものである。

ヘルフタ修道院

 アイスレーベンのシナゴーグは1814年に完成し、1850年に改築、1938年に冒瀆された。2001年から修復が進められている。

墓地

クローネン墓地 (Kronenfriedhof) は、カンポサント形式であり、アイスレーベンの富裕層の代々の墓苑として1533年につくられた。
ソ連墓地 (Sowjetische Friedhöfe) は124名の戦争捕虜と強制連行された一般市民のための墓地となっている。


つづく