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富士五湖、自然と文化・歴史短訪

富士登山2 Wikipedia
Climbing Mt Fuji 

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月30日
 

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富士登山1   富士登山2  富士登山3

 以下は富士山登山ルートと距離、標高、山小屋・売店数などである。

ルート名 登り 下り 五合目(新五合目)の標高[23] 山小屋・売店の数[23] 標準所要時間[23] 車でのアクセス
(km) (km)
富士宮ルート 静岡県 5 5 2,380m 9(五合目1・頂上1含む)[注 1][24] 登り5時間10分・下り3時間30分 県道152号・県道180号
吉田ルート 山梨県 7.5 7.6 2,305m 23(五合目5・頂上4含む)[注 2] 登り5時間55分・下り3時間10分 富士スバルライン
須走ルート 静岡県 7.8 6.2 1,970m 14(五合目2・頂上4含む)[注 3][25] 登り6時間55分・下り3時間 県道150号
御殿場ルート 静岡県 11 8.5 1,440m 5(新五合目2含む)[注 4][26] 登り8時間20分・下り3時間30分 県道152号
プリンスルート[注 5] 静岡県 6.4 2,380m 6(五合目1含む)[注 6][24] 富士宮口五合目 ? 宝永第一火口 ? 山頂 県道152号・県道180号
登り6時間・下り2時間55分
吉田口登山道 山梨県 2,220m 3(馬返し?六合目)[注 7] 馬返し ? 吉田口六合目
(馬返しは1430m) 登り3時間40分・下り2時間10分
精進口登山道 山梨県 2,305m 0 精進湖民宿村 ? 富士スバルライン五合目
登り7時間25分・下り5時間45分
御殿場口登山道 静岡県 1,440m 1[注 8] 中央青少年交流の家 ? 御殿場口新五合目
登り3時間5分・下り2時間20分
須山口登山歩道 静岡県 1[27] 水ヶ塚公園 → 御殿場口六合目
登り5時間30分
須山口下山歩道 静岡県 1[27] 御殿場口旧二合八勺 → 水ヶ塚公園
下り2時間20分
お鉢巡り 山梨県 5[注 9] 山頂一周
静岡県 時計回り1時間35分・反時計回り1時間35分
御中道 山梨県 2,305m 0 奥庭バス停 ? 大沢崩れ
登り1時間50分・下り1時間45分
宝永山遊歩道 静岡県 2,380m 1(五合目1含む)[注 10] 富士宮口五合目 ? 宝永第一火口 ? 宝永山
登り1時間55分・下り1時間20分


 以下は主な登山ルートとその詳細。  出典:Wijkiedia



出典:富士山登山紀 七合目: テクテク見聞録


吉田ルート

 富士スバルライン五合目ではレジャー化が進み、馬を使った観光業も見られる。

 山梨県鳴沢村・富士吉田市の富士スバルライン五合目(船津口旧五合五勺・小御岳頂上、1964年(昭和39年)開通)を出発し、吉田口六合目(天地の境)を経由して、富士山北側から山頂を目指すルート[28]。全登山者の六割以上がこのルートを利用する。登山口の標高は2,305m。吉田ルートは頂上への4コースの内で小屋の数が多く、登山者の数も多い。[20]本八合目で須走ルートへ合流する。富士スバルライン五合目には富士小御嶽神社、八合目には富士山天拝宮・烏帽子岩神社、九合目には迎久須志神社、頂上には久須志神社がある。

 登山道と下山道が大きく分かれている。下山道も本八合目で須走口下山道と分岐し、獅子岩付近より御中道を経由して吉田口六合目で登山道に合流する。富士スバルライン五合目から吉田口六合目へ至る道は、登山道と下山道の兼用である。もともとは後述する「船津口登山道」に該当(もっと厳密に言えばこの区間も御中道であり、吉田口五合目までは泉ヶ滝で分岐する)し、現在でも富士スバルライン五合目と吉田口五合目とは位置が異なる。よって、以前は吉田口登山道と区別するため「河口湖ルート」とも呼ばれていた。

 麓からの徒歩道として吉田ルートに合流する登山道は、富士スバルライン五合目で合流する「精進口登山道」と、六合目で合流する「吉田口登山道」の2つがある。

利点
富士山有料道路(富士スバルライン)五合目の標高が富士宮口五合目に次いで高い[28]。山小屋や救護所が多く、トラブルに見舞われても安心[28]。登山道の開通が比較的早い。9月上旬まで営業している山小屋がある。五合目から七合目まで馬に乗って体力をセーブできる(このルートは廃止)。観光を主眼にした登山道で、初心者でも挑戦しやすい(最低限の知識と経験、装備は必要)。関東からのアクセスが良く、バスの本数も非常に多い。頂上まで登らなくても途中で御来光を拝むことができる。

難点
登山者が非常に多く、混雑する。駐車場や山小屋も混んでいる。早朝は八合目以上が渋滞しやすく、頂上で御来光を拝めないことがある。七合目付近から急な岩場になる。下山路に山小屋が一軒しかなく、ルートも登山路に比べて遠回りとなる[28]。山頂の久須志神社から剣ヶ峰まで約50分かかる。下山時に八合目の下江戸屋分岐で誤って須走口に降りてしまうことがある。人工物が多く、自然を満喫できない。マイカー規制の無い時期の週末は、富士スバルラインが渋滞することがある。七合目までの登山道には馬糞が落ちている。

主なアクセス
富士山麓電気鉄道河口湖駅・富士山駅
河口湖駅下車、登山バス(45分〜55分, 富士急バス)
富士山駅下車、登山バス(55分〜65分, 富士急バス)
河口湖駅・富士山駅までのアクセス
首都圏各地、羽田空港、名古屋、京都、大阪、清水、静岡、三島などから高速バス
JR大月駅・高尾駅・東京駅より富士急行線(大月より手前は中央本線との直通運転)
高速バス(五合目直通)
新宿駅から2時間35分(京王バス・富士急バス・フジエクスプレス)
桜木町駅・横浜駅から3時間1分(相鉄バス・フジエクスプレス)
センター北駅から3時間25分(東急トランセ・富士急湘南バス)

歴史
 古来から北口や裏口とも呼ばれ、前述する「吉田口登山道」と江戸時代後期の富士講隆盛までは優勢であった「船津口登山道」との大きく2つのルートに由来する。なお、八合目で須走口に合流することから、そちらよりは新しいと考えられている。

 「吉田口登山道」は、吉田(上吉田、標高850m)によって管理されていたルートであり[22]、現在の吉田口六合目から頂上までの由来である。二合目には文武天皇3年(699年)に富士山最古の神社と称する小室浅間神社(現在の冨士御室浅間神社)が鎮座しており、里宮(現在の冨士御室浅間神社)が船津口に鎮座している。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、富士山本宮浅間大社に伝わる正治2年(1200年)の『末代証拠三ケ所立会証文』には「北口吉田」の記載があり[22]、平安時代から遅くとも鎌倉時代には開かれていたと考えられている。

 『勝山記』によれば、明応9年(1500年)には関東の戦乱を避けるため吉田口ではなく須走口が使われた記録があり、天文7年(1538年)には上吉田の御師集落が炎上した記録がある[22]。元亀元年(1570年)には上吉田に御師が計画的に住み登山客を呼び込むようになったといい、文禄元年(1592年)にはすでに御師が江戸まで出向き「檀廻り」を行っていた[22]。延宝8年(1680年)の『八葉九尊図』では下浅間(現在の北口本宮富士浅間神社)から登るように描かれており、少なくとも宝永4年(1707年)の宝永大噴火を経て、江戸時代中期の富士講の流行を上吉田が早くから受け入れて発展すると、富士講の支持を得た上吉田の諏訪神社・浅間神社が登山口として信仰の中心となった。

 富士講による発展で天明元年(1781年)には河口を退けて頂上の薬師堂(現在の久須志神社)の権利も得、大宮7対吉田3の割合で岳役銭を取得できるようになるなど、頂上の利権争いにも加わるようになり、明治時代以降も吉田ルート優位の状態が続いている[22]。富士スバルライン五合目までのバスルートの開通後も麓から徒歩で登山する人は一定数いたため、吉田口六合目までの徒歩道については山小屋などは閉鎖されたが廃道となることはなかった。そのため、北口本宮冨士浅間神社から吉田口六合目を経て頂上までの全域が「吉田口登山道」として世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の一部に登録されている。現在でも富士山駅前の上吉田町内には御師の宿坊が2件残っており、登山道入口の金鳥居も残っている。

 「船津口登山道」(河口口登山道・河口湖口登山道)は、河口(富士河口湖町、標高850m)によって管理されていたルートであり[22]、現在の富士スバルライン五合目から吉田口六合目までの由来である。河口には噴火を鎮めるため貞観7年(865年)に河口浅間神社が鎮座しており、また天徳2年(958年)には対岸の勝山(富士河口湖町)に前述する小室浅間神社(現在の冨士御室浅間神社)の里宮が創建されている。また、五合目の小御岳頂上には承平7年(937年)には小御岳神社(現在の富士小御嶽神社)が鎮座している。

 頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、平安時代から遅くとも室町時代には開かれていたと考えられている。元は白山岳頂上への直登ルートも持っていたが、元弘元年(1331年)の駿河地震で崩壊したとされ、小御岳・泉ヶ滝を経由し五合目(中宮)で吉田口に合流するルートが主となった[22]。他に、小室浅間神社の里宮(勝山)から本宮(吉田口二合目)へのルートを利用し船津・吉田胎内を参拝して吉田口馬返しへ合流する登山客がいたり[22]、また後には小御岳から御中道を経由して吉田口六合目(現在の富士スバルライン五合目から吉田ルート六合目)へ合流することもできた。

 このように、複数の個所で合流するようになったことから、山役銭(登山料)の取り合いで吉田とは論争になった[22]。しかしながら、天文11年(1542年)の宿坊の記録では中宮を河口御師が管理しており、また吉田口二合目も小室浅間神社を中心とする勝山の土地であり(2019年現在も富士河口湖町の飛び地である)、さらに頂上の薬師堂の管理も河口御師である大石(富士河口湖町)の者が大宮(浅間大社)より任されていたため、当時は吉田よりも優勢であった[22]。

 宝永4年(1707年)の宝永大噴火で他の登山口が30年以上不通となったため、河口はさらに発展するが、町民の間に富士講が流行すると、武士を主な支持層としていた河口は当初これを避けたため、吉田のほうが優勢となり、天明元年(1781年)までには薬師堂の権利を吉田に奪われ、さらに文化7年(1810年)の山役銭論争で吉田には完全に敗れ衰退した[22]。その後も完全に寂れたわけではなく、後述する「精進口登山道」が開通すると四合目で合流したり、さらに船津から精進口三合目までバスが通るようになると、船津口三合目から精進口三合目までつながるバスルートと船津口四合目へつながる徒歩道の2つの道ができるが、富士スバルラインが開通すると船津からのバスも廃止され、徒歩で登山する人もいなくなり、実質的に廃道となった。

 「本栖口登山道」(本栖湖口登山道)は本栖(富士河口湖町)が管理していた登山道であり、江戸時代に書かれた『駿河国新風土記』によると1570年代までは御師がいたとされるが、河口御師に合流して消滅した[22]。そのため、ルートの詳細は不明である。

 「人穴口登山道」は、人穴が管理していた登山道であり、人穴浅間神社から大宮・村山口あるいは精進口に繋がるルートであり、江戸時代から昭和初期まで登られていたが、当時から一般的ではなかった。現在は一部が林道となっているが、完全に忘れ去られている。

 「精進口登山道」(精進湖口登山道・鳴沢口登山道)は、1923年(大正12年)に山梨県が開削した新しい登山道である。赤池から登り船津口四合目に合流する。現在も県により遊歩道として整備されているが、船津口が廃道となっているため、四合目から五合目も船津口ではなく精進口として扱われている。


富士宮ルート

富士山頂郵便局
このポストに投函された郵便物には風景印が押される

登山バス(富士山本宮浅間大社横にて)

 静岡県富士宮市の富士宮口五合目(新大宮口旧三合五勺、富士山スカイライン・1969年(昭和44年)開通)を出発し、富士山南側から山頂を目指すルート[29]。登山口の標高は2,380m。頂上への1コースの内、五合目の標高が一番高い。[20]頂上には富士山本宮浅間大社奥宮がある。静岡県側では最も利用者が多い。

 お鉢巡り上にある各ルートの「頂上」・「山頂」のうち富士宮口山頂が最高峰の剣ヶ峰に一番近い。五合目の富士山総合指導センター前に登り口がある。このあたりからは剣ヶ峰方向が望める。火山礫の幅広の道を登ると樹木がなくなり、なだらかな道をたどり2軒の山小屋が並んでいる六合目に着く。ここまでは観光客が多い。[20]

 麓からの徒歩道としての登山道は富士山スカイラインの開通後、長らく未整備であったが、古来の「村山口登山道」が一部の崩落個所を除きかつてとほぼ同じルートで2005年(平成17年)に復旧した。富士宮ルートとは六合目で合流する。

利点

 登山口の標高が高いので、他のルートよりも早く山頂に着く[29]。山小屋が多く、八合目には診療所(富士山衛生センター)もあり、トラブルに見舞われても安心。宝永山に立ち寄れる。浅間大社奥宮から剣ヶ峰まで20分で行ける。名古屋や関西からのアクセスが良い(最近は関東からも行きやすくなった)。

難点

 登りと下りが同じ道で、登山者も多く、混雑しやすい[29]。駐車場や山小屋も混んでいる。平均勾配が約29%と傾斜が厳しく、岩場が多い[29]。樹林帯がなく、陽射しが強い。人工物が多く、自然を満喫できない。マイカーは規制されやすい。バスの本数が吉田ルートに比べて少ない。残雪が多く、7月中旬まで登山道が開通しない年がある。発病や転倒事故が多い。

主なアクセス

JR御殿場線
御殿場駅下車、登山バスで水ヶ塚公園下車(御殿場口新五合目経由で55分)、シャトルバスで富士宮口五合目(登り40分。30分間隔で運行[30])

JR身延線
富士宮駅下車、高速バス(1時間10分, 富士急行)
富士宮駅下車、登山バス(1時間20分 - 1時間40分, 富士急静岡バス。新富士、富士発のバスも経由するため本数が多い。)

JR東海道本線
富士駅下車、登山バス(2時間 - 2時間10分, 富士急静岡バス)

JR東海道新幹線
新富士駅下車、登山バス(1時間55分 - 2時間15分, 富士急静岡バス)
三島駅下車、登山バス(2時間5分, 富士急静岡バス)
静岡駅下車、高速バス(2時間10分, 富士急行)

歴史

 「大宮・村山口登山道」は畿内に近いため、富士登山道としては最も古いルートといわれるが、中世の記録は北口のほうが多い[22]。表口や南口、三島口(頂上の三島岳に由来、あるいは三嶋大社・浅間神社から見た呼称)とも呼ばれ、大宮(標高150m)と村山(標高500m)の2つの集落により管理されていた[22]。

 大宮では、噴火を鎮めるため大同元年(806年)に浅間神社(現在の富士山本宮浅間大社)が山宮浅間神社から遷座している[22]。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、富士山本宮浅間大社に伝わる正治2年(1200年)の『末代証拠三ケ所立会証文』には「南口大宮」の記載があり[22]、久安5年(1149年)には末代により頂上に大日寺(現在の浅間大社奥宮)が建てられた記録がある[22]。

 村山では12世紀後半の遺構が複数[22]、頂上では承久2年(1220年)ごろの経巻が見つかっており[22]、考古学的にも裏付けられていることから、平安時代から遅くとも鎌倉時代には開かれていたのは確実である。文保元年(1317年)ごろには末代の流れをくむ頼尊によって村山に富士山興法寺(現在の富士根本宮村山浅間神社)が建てられたともいわれ[22]、村山修験の中心地として発展した。登山道は村山三坊によって管理され、大宮側は基本的に関わらなかった[22]。御師はおらず、大宮では浅間大社の社人が、村山では修験者が宿坊を管理していた[22]。

 宝永4年(1707年)の宝永大噴火の被害で30年以上不通になると、村山修験者が京都まで行って富士垢離をするようになり、それで富士登山と同じ御利益があるとしたことや、もともと御師がおらず西国各地への「檀廻り」が行われなかったことから、登山客は減少した[22]。それでも浅間大社を信仰する幕府の裁定で、頂上の利権争いにおいて大宮が内院散銭の一番拾いの六割を取得し、八合目より上を浅間大社の支配地と明確にされるなど、影響は強かった[22]。

 ただし、大宮が直接管理できていたのは薬師堂(現在の久須志神社)のみで、村山口から大日堂(現在の浅間大社奥宮)は村山の管理下であったことから[22]、大宮関係者ですら村山に山役銭(登山料)を払わねばならないため、須走口を使っていた[22]。また、大宮から村山を経て登山しなければならないことから、江戸時代には何度か村山から直接の登山に誘導するよう試みられており、大宮が抗議して幕府に仲裁されるなど[22]、大宮と村山の連携はとれておらず、関係は悪かった。

 明治時代になると幕府からの縛りがなくなったことから、大宮は身延線の開通を見越して1906年(明治39年)に「新大宮口登山道」を開削し、村山ではなく山宮浅間神社を経由するようになる。1913年(大正2年)にはバスが懸巣畑(カケスバタ)まで開通し、山宮浅間神社を経由することはなくなった。その後もバス路線は伸び、現在の富士宮ルートになると徒歩で登山する人はいなくなり、五合目までは実質的に廃道となった。

 一方、村山口は明治初期の神仏分離での興法寺・村山三坊の解体および、この新大宮口開通により衰退していった。昭和になると登る人もほとんどいなくなり、富士山スカイラインの開通で実質的に廃道となり、近年再整備されるまでは放置されていた。そのため、「大宮・村山口登山道」として世界文化遺産に登録されているのは六合目(標高2,490m)から頂上までである。富士宮口五合目から六合目は新大宮口のものであるため含まれない。

 富士宮口五合目へ合流する登山道としては上記の「村山口登山道」のほかに、上記の「新大宮口登山道」および旧バスルートの「懸巣畑口登山道」、それより西側には曽我八幡宮・白糸の滝付近から新大宮口あるいは大沢崩れ右岸ルートに接続する「上井出口登山道」(上井出青年団により昭和初期開通)や、人穴浅間神社から大宮・村山口あるいは精進口に接続する「人穴口登山道」(江戸時代開通)が存在したが、現在は再整備された「村山口登山道」を除き整備されておらず廃道扱いである。


須走ルート

樹林に覆われた5合目付近の登山道

6合目の手前より山頂を仰ぐ

 静岡県小山町の須走口五合目を出発し、富士山東側から山頂を目指すルート[31]。登山口の標高は1,970m。本八合目で吉田ルートが合流する。五合目には古御岳神社、六合目には胎内神社、九合目には迎久須志神社、頂上には久須志神社がある。

麓からの徒歩としての登山道は長らく未整備であったが、2013年(平成25年)に「富士箱根トレイル」というトレッキングコースの一部として、「須走口登山道」の馬返しから須走口五合目からまでが再整備された。

利点
登山者が比較的少なく、本八合目まであまり混雑しない[31]。山小屋もそこそこある。景色に変化があり退屈しない。下山道に砂走りがある[31]。本六合目まで樹林帯で、陽射しが遮られる[31]。樹林帯を抜けると、朝は御来光を、夕方は影富士を見られる[31]。小富士(標高1,979m)に立ち寄れる。

難点
本八合目より上は早朝に渋滞しやすい。駐車場は小さく、混んでいる。マイカー規制が行われることもある。登山口の標高が吉田口や富士宮口に比べ数百メートル低い。山頂の久須志神社から剣ヶ峰まで約50分かかる。転倒事故が多い。樹林帯で夜間や濃霧時に迷いやすい[31]。

主なアクセス

JR御殿場線
御殿場駅下車、登山バス(1時間, 富士急行バス)

小田急小田原線
新松田駅下車、登山バス(1時間30分, 富士急湘南バス)

御殿場駅までのアクセス
 小田急新宿駅からJR御殿場駅までは、直通の特急ふじさんや、小田急ハイウェイバスの御殿場行きを使うと便利。小田急新松田駅から徒歩3分のJR松田駅で御殿場線に乗り換える方法もある。

歴史

 「須走口登山道」は、東口や表口とも呼ばれ、須走(標高800m)が管理していた[22]。須走には噴火を鎮めるため大同2年(807年)に冨士浅間神社(東口本宮冨士浅間神社)が鎮座している。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、平安時代から遅くとも鎌倉時代には開かれていたと考えられており、元中元年(1384年)の鏡が六合目で発見されていることから、室町時代には発展していたことがうかがえる[22]。

 北口(吉田口・船津口)が八合目(現在の本八合目)で合流し、利用客も江戸に近い北口のほうが多かったが、宝永5年(1708年)の記録では八合目から頂上までの茶屋は2軒を除き須走の冨士浅間神社御師の管理下にあり、頂上の利権争いにも参加していたため、北口よりも歴史が古いと考えられている[22]。また、現在まで大きな変更が最も少ないルートでもある[22]。砂走りがあり下りやすいため、北口から登って須走口から下り、各地を観光して江戸に帰る客が多く、またその逆も好まれたことから、遭難者対応など他の登山口との連携も行われていた[22]。

 江戸時代中期以降には富士講に属さない個人登山客も多かったことから、必ず案内人の御師をつけて遭難を防止することも行っていた[22]。宝永大噴火での被害時も、幕府の支援を受けて30年ほどの短期間で復活している[22]。昭和になると五合目までのバスの開通で徒歩での登山が廃れたため、五合目から頂上までが「須走口登山道」として世界文化遺産に登録されている。

 「山中口登山道」(山中湖口登山道、昭和初期開通)は、山中浅間神社付近から御中道を経由して五合目に合流するルートであり、山中によって昭和初期に開通したが、ルートの大半が旧日本陸軍(のちに在日米軍、陸上自衛隊)の北富士演習場となったため廃道となっている。


御殿場ルート

 静岡県御殿場市の御殿場口新五合目(旧二合目)を出発し、富士山南東側から山頂を目指すルート。登山口の標高は1,440m。御殿場ルートの新五合目の標高は頂上への4コース内で一番低い。登路よりも、長大な砂走りの下りコースに人気がある。[20]頂上には銀明水(湧き水)がある。標高差・距離・歩行時間の長いルートで、健脚向けとされる[32]。富士登山駅伝のコースである。

 麓からの徒歩道としての登山道は長らく未整備であったが、1997年(平成9年)に「須山口登山歩道」、1999年(平成11年)に「須山口下山歩道」が旧来とは別ルートで新たに整備された。須山御胎内からは少し離れてしまっているが、水ヶ塚や弁当場を通るため宝永大噴火前のルートには近いとされる。「御殿場口登山道」も徒歩で登山可能である。

利点
 登山者が非常に少なく、静かな登山を楽しめる[32]。駐車場も山小屋も空いている。駐車場が無料で、マイカー規制も行われない。人工物が少なく、自然を満喫できる。登山道の傾斜が比較的緩やかである[32]。登山道の上部からは、朝は御来光、夕方は影富士を見られる[32]。下山路に大砂走りがある[32]。宝永山や二子山に立ち寄れる。関東からのアクセスが良い。プリンスルートを使えば、富士宮ルートの標高の高さと、御殿場ルートの静けさを良いところどりできる。(詳しくは皇太子の富士登山の項目を参照)

難点

 登山者が非常に少なく、心細い。体力が不可欠。行動時間が長い。山小屋が少ない[32]。特に大石茶屋(標高1,520m)と7.4合目(標高3,100m)のわらじ館の間には山小屋やトイレ、救護所がない[32]。夜間や濃霧時に道に迷いやすい[32]。道迷いや疲労による遭難が多い[33]。樹林帯がなく陽射しが強い。景色の変化が乏しい。登山靴を消耗しやすい。バスの本数が少ない。

主なアクセス

JR御殿場線
御殿場駅下車、登山バス(40分, 富士急行バス)

御殿場駅までのアクセス
小田急新宿駅からJR御殿場駅までは、直通の特急ふじさんや、小田急ハイウェイバスの御殿場行きを使うと便利。
小田急新松田駅から徒歩3分のJR松田駅で御殿場線に乗り換える方法もある。

歴史

 「須山口登山道」は、南口や東口、表口、銚子口(頂上の銚子窪に由来)とも呼ばれ、須山(標高600m)が管理していた。伝承では大同3年(808年)に空海が開いたといわれ、また麓の浅間神社(現在の南口下宮須山浅間神社)は神代(景行天皇40年)鎮座といわれている。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、少なくとも富士山本宮浅間大社に伝わる正治2年(1200年)の『末代証拠三ケ所立会証文』には「東口珠山」の記載が[22]、文明18年(1486年)の道興の『廻国雑記』には「すはま口」の記載があり[22]、大永4年(1524年)には須山浅間神社の存在が確認されていることから、平安時代から遅くとも鎌倉時代までには開かれていたと考えられている。

 江戸時代初期には駿河側では最も利用者が多かったが、須山は林業や農業も盛んで、他の登山口とは異なり須山浅間神社御師の登山産業収入は年収の半分程度であり、依存度は低かった[22]。宝永4年(1707年)の宝永大噴火にて壊滅的な打撃を受け一度廃れるも、御師の幕府への陳情により安永9年(1780年)に別ルートで復活した[22]。天明2年(1782年)には大宮より頂上の銚子窪に鳥居を立てる許可を得て、天保7年(1836年)には銚子窪の銀明水を売る権利を得た[22]。須走と近いため、登山客を巡る争いがたびたびあった[22]。

 後述する御殿場口登山道ができると須山口旧二合八勺(標高2,050m、六合目と五合五勺の間)までの旧来ルートは衰退し、さらに一部が1912年(明治45年)に旧日本陸軍(のちに在日米軍、陸上自衛隊)の東富士演習場となったため廃道となった。そのため、須山口登山道として世界文化遺産に登録されているのは旧二合八勺から頂上の間および、須山御胎内周辺(標高1,435〜1,690m)だけである。

 新五合目(旧二合目)から旧二合八勺は御殿場口のものであるため含まれない。
「御殿場口登山道」は、東海道線(現在の御殿場線)の建設が決まったことから、登山客の利便を図るため1883年(明治16年)に開通した。当初は西田中八幡宮を起点とし、末社として東表口下宮浅間神社が建てられたが、1889年(明治22年)に御殿場駅が開業するとそちらに近い新橋浅間神社を起点と変更された。須山口には旧二合八勺で合流する。


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