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ところで、森鴎外が留学し一時期通ったドイツのフンボルト大学について簡単に述べる。
ドイツ・ベルリンにはフンボルト大学、ベルリン自由大学、ベルリン工科大学の3つの大学がある。今回私たちが国際学会で参加したのはベルリン工科大学である。
フンボルト大学は旧東独の東ベルリンにある大学であり、他の2大学、すなわちベルリン自由大学とベルリン工科大学は旧西独の西ベルリンにある大学である。フンボルト大学の歴史は約200年である。ドイツには600年以上の歴史をもつハイデルベルグ大学がある。戦前ベルリン大学と呼ばれていたのはフンボルト大学のことである。
潮木守一氏(教育社会学:桜美林大学教授)は、フンボルト大学設立の理念を氏の論考の中で次のように述べている。
「もともと、このフンボルト大学は1810年ベルリン大学という名称で誕生した。この大学の設立構想に大きな影響力を発揮したのが、政治家、哲学者ウィルヘルム・フォン・フンボルトと自然科学者アレキサンダー・フォン・フンボルトである。この大学の正門にこの兄弟の銅像が立っているのは、このためである。彼らがこの新大学の構想を練る頃、世界では科学上の新発見が相次ぐとともに、アメリカの独立、フランス革命と、人類史を揺るがすような大変動がおこっていた。彼らはこうした時代の激動を前にして、人間の最後の拠り所は、人間自身の知性だけだと悟った。だからベルリン大学の基本理念は「知性の使い方を訓練する」ことだった。「啓蒙」、これがその時代の合言葉だったが、この言葉のもともとの意味は「目を開く」ということである。そうした彼らの銅像が、200年を経て、黒帯で目隠しされることとなった」
注)上記にある「啓蒙」の蒙は現在わが国では差別用語とされておりますが、ここでは原典のままとする。
このフンボルト大学本館玄関の正面にはカール・マルクスの次に有名な言葉が掲げられている。すなわち「哲学者は世の中をいろいろ解釈してきたが、問題は何をするか、変革だ」と。マルクスのこの言葉は、現代でもそのままあてはまるだろう。学者があれこれ世界を社会を解釈し、他方、実社会に組み込まれているなかで、肝心な社会変革がなおざりになっているからである。
実際に鴎外がフンボルト大学に通っていた期間は数ヶ月と短かったようだが、フンボルト大学や下宿先の周辺は、ブランデンブルグ門、連邦議会はじめ戦前、戦後を通じドイツの政治、行政の中心となっている。おそらく19世紀後半にこの地に留学した鴎外は、肌身でドイツの医科学のみでなく、政治や行政を目の当たりに肌で感じたに違いない。
以下は森鴎外の下宿である。ご覧になれば分かるように、非常に鴎外は質素な生活をしていたことが伺える。
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