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ザクセン王国の栄華を今に
ドイツ・ザクセン州短訪


ヨハン・セバスティアン・バッハ3

Johann Sebastian Bach

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日
独立系メディア E-wave Tokyo
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ヨハン・セバスティアン・バッハ3

 バッハはライプツィヒ市の音楽監督にもなり、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けました。ルター派の音楽家として活動していましたが、王のカトリックへの宗旨変えに応じ、宮廷作曲家の職を求めカトリックのミサ曲も作曲しました。

 1729年1月にはハレ滞在中のヘンデルに長男フリーデマンを派遣します。ヘンデルのライプツィヒ招待を申し出ましたが断られました。結局、バッハはヘンデルとの面会を強く望んでいたものの、ヘンデルとの面会は生涯実現することはなかったのです。

 当時のヨーロッパにおいては、ヘンデルはバッハよりもはるかに有名であり、バッハはヘンデルの名声を強く意識していたので、ヘンデルの方はバッハをあまり意識していなかったと言われています。ただし、ゲオルク・フィリップ・テレマンやヨハン・マッテゾン、クリストフ・グラウプナーなど、バッハとヘンデルの両名と交流のあった作曲家は何名か存在しています。

 1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命されました。1747年にはエマヌエルが仕えていたベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を訪問します。これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけになりました。

 しかし1749年5月末、バッハは脳卒中で倒れました。聖トーマス教会の楽長という高い地位を妬む者たちが働きかけ、市参事会は後任にゴットロープ・ハラーを任命しました。さらに、以前より患っていた内障眼が悪化し視力もほとんど失っていました。しかしバッハは健康を回復したため、ハラーの仕事はお預けとなりました。

 翌1750年3月、イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーがドイツ旅行の最中ライプツィヒを訪れました。バッハは3月末と4月半ばに2度にわたって手術を受けました。

 手術後、テイラーは新聞記者を集めて「手術は成功し、バッハの視力は完全に回復した」と述べました。しかし実際には、手術は失敗していました。テイラー帰国後にバッハを診察したライプツィヒ大学医学部教授によると、視力の回復どころか炎症など後遺症が起こり、これを抑えるための投薬などが必要になったといいます。

 2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療はすでに高齢なバッハの体力を奪い、その後は病床に伏し、7月28日午後8時15分に65歳でこの世を去りました。なお、後年にヘンデルも同医師による眼疾患の手術を受けたが失敗に終わっています。

 生前のバッハは作曲家というよりもオルガンの演奏家・専門家として、また国際的に活躍したその息子たちの父親として知られる存在にすぎず、その曲は次世代の古典派からは古臭いものと見なされたこともあり、死後は急速に忘れ去られてゆきました。

 それでも鍵盤楽器の曲を中心に息子たちやモーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リストなどといった音楽家たちによって細々と、しかし確実に受け継がれ、1829年のメンデルスゾーンによるマタイ受難曲のベルリン公演をきっかけに一般にも高く再評価されるようになりました。

家族

 バッハは生涯に2度結婚し、十一男九女の20人の子供をもうけましたが、10人は夭逝し、成長したのは男子六人と女子四人の10人に過ぎませんでした。

 最初の結婚は1707年にヴァイマルでマリア・バルバラと結婚したもので、1720年にマリア・バルバラが死去するまでの間にカタリーナ・ドロテーア、ヴィルヘルム・フリーデマン、マリーア・ゾフィア、ヨハン・クリストフ、カール・フィリップ・エマヌエル、ヨハン・ゴッドフリート・ハインリヒ、レオポルト・アウグストゥスの五男二女をもうけました。

 このうちマリーア・ゾフィア、ヨハン・クリストフ、レオポルト・アウグストゥスの3人は夭逝したものの、長男のヴィルヘルム・フリーデマン (Wilhelm Friedemann、1710 - 1784、通称「ハレのバッハ」)と次男のカール・フィリップ・エマヌエル (Carl Philipp Emanuel または C.P.E.、1714 - 1788、通称「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」) は音楽家として大成しました。

 1720年にマリア・バルバラが死去すると、同年ケーテンでアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと結婚しました。アンナ・マクダレーナとの間にはクリスティーナ・ゾフィア・ヘンリエッタ、ゴットフリート・ハインリヒ (Gottfried Heinrich、1724 - 1763) 、クリスティアン・ゴットリープ、エリザベト・ユリアーナ・フレデリカ、エルネストゥス・アンドレアス、レジーナ・ヨハンナ、クリスティーナ・ベネディクタ・ルイーザ、クリスティーナ・ドロテーア、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ、ヨハン・アウグスト・アブラハム、ヨハン・クリスティアン、ヨハンナ・カロリーナ、レジーナ・スザンナの六男七女をもうけました。

 このうちクリスティーナ・ゾフィア・ヘンリエッタ、クリスティアン・ゴットリープ、エルネストゥス・アンドレアス、レジーナ・ヨハンナ、クリスティーナ・ベネディクタ・ルイーザ、クリスティーナ・ドロテーア、ヨハン・アウグスト・アブラハムの7人は夭逝しましたが、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ (Johann Christoph Friedrich、1732 - 1795、通称「ビュッケンブルクのバッハ」)と、ヨハン・クリスティアン (Johann Christian、1735 - 1782、通称「ロンドンのバッハ」) は音楽家として大成しました。

 また、架空の息子(?)も存在します。

 P. D. Q. バッハ (P. D. Q.、1807 - 1742<?>) 20世紀にアメリカの教授ピーター・シックリーがバッハの21番目の息子として捏造し、冗談音楽の作品を発表しています。


ヨハン・セバスティアン・バッハ4へつづく