ザクセン王国の栄華を今に ドイツ・ザクセン州短訪 ヨハン・セバスティアン・バッハ2 Johann Sebastian Bach 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニューに戻る ヨハン・セバスティアン・バッハ1 ヨハン・セバスティアン・バッハ2 ヨハン・セバスティアン・バッハ3 ヨハン・セバスティアン・バッハ4 ◆ヨハン・セバスティアン・バッハ2 バッハはオールドルフの兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励みました。1700年にリューネブルクに移り、修道院付属学校の給費生となりました。 1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職しました。バッハはヴァイオリンを担当しましたが、ヨハン・エフラーの代役でオルガン演奏もこなしました。 同年、アルンシュタットの新教会(現在はバッハ教会と呼ばれる)に新しいオルガンが設置されました。その試奏者に選ばれたバッハは優れた演奏を披露し、そのまま同教会のオルガニストに採用され、演奏の他に聖歌隊の指導も任されました。 1705年10月、バッハは4週間の休暇を取り、リューベックに旅行した。アルンシュタットからリューベックまでの約400kmを徒歩で向かったと言われます。そして当地の聖母マリア教会のオルガニストを務めるディートリヒ・ブクステフーデの演奏に学びました。 当時68歳と高齢だったブクステフーデもバッハの才能を買い、自分の娘マリア・マルグレータとの結婚を条件に後継者になるよう持ちかけました。聖母マリア教会のオルガニストの地位は若いバッハにとって破格でしたが、彼はブクステフーデの申し出を辞退しました。 マルグレータはバッハより10歳も年上の約30歳であり、2年前にもゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとヨハン・マッテゾンが付帯条件を聞いて後任を辞退しています。 バッハがアルンシュタットに戻ったのは1706年1月末で、4週間の休暇に対し、3か月以上も留守にしていました。オルガン演奏の代役は従弟のヨハン・エルンスト・バッハに頼んでいましたが、聖職会議は彼を叱責しました。 会議はさらに、ブクステフーデから受けた影響であろう「耳慣れない」音を演奏時に出すことや、聖歌隊に対する指導の不備を糾弾しました。その後11月にはまた聖職会議に呼ばれ、合唱隊の中に見知らぬ娘を入れて歌わせたということも非難されました。 この娘は後に最初の妻となる遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラ(以下の中参照)であったとも考えられています。バッハは教会の上層にあるオルガン演奏席にも見知らぬ娘を招き入れて演奏したり、聖歌隊の音楽としては不適切な、当時としては前衛的な作品を作曲して演奏したりしたことも教会からの評価を下げました。 注)マリア・バルバラ・バッハ (Maria Barbara Bach 1684年10月20日 - 1720年7月7日) マリア・バルバラ・バッハは、作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハの又 従姉で先妻。ハインリヒ・バッハの孫に当たり、父親はヨハン・ミヒャエル ・バッハ。マリアの生涯と2人の馴れ初めについては、ほとんど知られて いないが、バッハがマリアとの結婚生活に満足していたことは分かってい る。7人の子をもうけながらも、そのうち4人は幼児のうちに亡くなった。 マリア自身は1720年7月に急逝しており、同時期に書かれたバッハの一 連の無伴奏ヴァイオリン作品や《半音階的幻奏曲とフーガ》、いくつかの オルガン作品の激しい感情のほとばしりに、当時のバッハの落胆ぶりを 指摘する向きもある。マリアの死後から半年後、バッハはアンナ・マクダレ ーナ・ヴィルケと再婚、アンナはマリアの遺児たちを、わが子同様に育て 上げた。マリアの遺児は、作曲家となった2人の兄弟、ヴィルヘルム・フリ ーデマンとカール・フィリップ・エマヌエルのほかに、第1子で長女のカタリ ーナ・ドロテーアがいた。 その頃、すでにバッハの能力は高く評価されていました。1706年12月にミュールハウゼンのオルガン奏者ヨハン・ゲオルク・アーレが亡くなり、後任の募集が行われました。ミュールハウゼンはマリア・バルバラの親戚が市参事会員であった縁もあり、バッハは応募し合格しました。 1707年6月に移り住んだバッハは、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに招かれました。その報酬はアルンシュタット時代とさほど変わりませんが、いくぶんか条件は良かったようです。 同年、マリア・バルバラと結婚しました。2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になりました。バッハの生活は決して楽なものではなく、常に良い条件の職場を探し求めていました。 生活の足しにするために、短い曲を作曲してはそれを1曲3ターラー程度で売るという事もしていました。その一方で、契約した先々で様々な些細なトラブルも起こしていました。あるときは5つの仕事を同時に引き受けていましたが、5つのうち4つでトラブルを抱えていました。 1708年、再びヴァイマルに移ってザクセン=ヴァイマル公国の宮廷オルガニストとなりました。多くのオルガン曲はこの時期の作品です。 しかしバッハはここでの待遇にもあまり満足しておらず、1713年にはハレのオルガニストに応募し採用されたものの、ザクセン=ヴァイマル公が大幅な昇給と昇進を提示して慰留されたことで、ヴァイマルにとどまることとなりました。 1714年には楽師長に昇進、一月に一曲のカンタータを作曲、上演しました。しかし最終的には1717年、アンハルト=ケーテン侯国宮廷楽長として招聘され、ヴァイマルを離れることとなりました。この時ザクセン=ヴァイマル公は辞職を承諾せず、このトラブルによってバッハは1ヶ月間投獄され、その後解任されました。問題となったのはバッハの契約問題で主家の許可なく他の契約をしたためといわれています。 1717年、バッハはケーテンに移り、アンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長となりました。当時のアンハルト=ケーテン侯国は音楽に理解のあるアンハルト=ケーテン侯レオポルトの統治下にあり、恵まれた環境の中で、数多くの世俗音楽の名作を作曲しました。 これにはアンハルト=ケーテン侯国がカルヴァン派を信奉していたため、教会音楽を作る必要がなかったことも関係しています。1719年5月、ハレに帰郷し家族とともに過していたヘンデルに、そこから4マイル離れたケーテンにいたバッハが会いに訪れましたが、到着した日にはヘンデルが出発した後であったため会うことができませんでした。 1720年夏、領主レオポルト侯に随行した2ヶ月間の旅行中に妻が急死する不幸に見舞われました。バッハが帰郷したときは妻はもう埋葬された後でした。翌年、宮廷歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚しました。 彼女は有能な音楽家であったと見られており、夫の仕事を助け、作品の写譜などもしているだけでなく、バッハの作品とされていた曲のいくつかは彼女の作曲であることが確実視されています]。 有名な『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、バッハの家庭で演奏されたと思われる曲が折々に書き込まれています。アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子どものうち、多くは幼いうちに世を去っています。 しかし末子クリスティアンは兄弟の中では音楽家として最も社会的に成功し、イングランド王妃専属の音楽家となった他、モーツァルトに大きな影響を与えました。彼らの他にも、バッハには成人した4人の息子がいますが、みな音楽家として活動しました。1720年ごろからケーテンの宮廷楽団の予算や規模が縮小されるようになりました。 1723年、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任しました。カントルの選考会ではバッハは第5番目の候補とされましたが、1-4番目に選ばれた候補者4人ともが様々な理由によって辞退ないし就任することができず、バッハにカントルの仕事が回ってきました。 注)カントル カントル(英語: cantor, ドイツ語: Kantor)は、キリスト教音楽の指導者。 カントルはカトリックとプロテスタントで使用される名称であり、カントルの 任務は、典礼の時に会衆の歌にオルガンなどで伴奏をつけたり、聖歌 隊の合唱指揮者を務めたり、さらにカンタータの演奏では合唱と管弦楽 の双方の指揮者を務めなければならない。ドイツ中部ではカントルと教 師は同一の概念であったので、教会付属学校の教師の役割も果たさな ければならなかった。 なお、多くのカントルが作曲家を兼ねた。もっとも有名なカントルとして、 ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(トーマスカントル)であったヨハン ・ゼバスティアン・バッハと、ハンブルクの5つの主要教会のカントル(ヨハ ネスカントル)であったゲオルク・フィリップ・テレマンの2人があげられる。 ![]() ライプチヒのトーマス教会(写真は現在のもの) Source:Wikimedia Commons GFDL-no-disclaimers, リンク ヨハン・セバスティアン・バッハ3につづく |