エントランスへはここをクリック
第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容 所(概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2


青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
<第二次世界大戦(WW2)> ホロコースト地図  年表・資料  ホロコースト概要  個別収容所詳細 ビデオライブラリー  戦犠牲者数
    <
関連サイト> 日中戦争 太平洋戦争 731部隊
ヘウムノ絶滅収容所(Chelmno:ポーランド) 地図
<ポーランド> アウシュヴィッツ・ビルケナウ  モノヴィッツ  ベルゼック  マイダネク  ソビボル  トレブリンカ  ヘウムノ
 クラクフ・プワシュフ   ポズナン   ポトゥリツェ  グロース・ローゼン  シュトゥットホーフ  ソルダウ   トラウニキ
ワルシャワ   ワルシャワ・ゲットー  ウッチ・ゲットー  ルブリン・ゲットー   ビャウィストク・ゲットー  ブロツワフ・ドゥルゴイ
チェスストコワ・ゲットー  ラドム・ゲットー  クラクフ・ゲットー  死の谷・ブィドゴシュチュ  イェドヴァブネ事件 個別収容所詳細ヘ 

概要
 ヘウムノ強制収容所(Chelmmno:ポーランド)は、ナチス・ドイツがポーランドのヴィエルコポルスカ県ヘウムノ村(pl:Chelmno nad Nerem)に設置した強制収容所(絶滅収容所)。ヘウムノはウッチから70キロほど離れたところに存在していた。

※ 英  Chelmno extermination camp
   独  KZ Chelmno、 Chelmno Vernichtungslager
   波  Chelmno oboz zag?ady
   日  ヘウムノ絶滅収容所

 ドイツ側からの名称はクルムホーフ強制収容所(KZ Kulmhof)である。ユダヤ人、ジプシー、ソ連兵捕虜など最低でも15万人の人々がここで殺害されたという。  

解説
 1941年11月にヘルベルト・ランゲ親衛隊大尉の指揮する「クルムホーフ特別部隊」(Sonderkommando Kulmhof)により当時大きめの農村だったヘウムノにヘウムノ強制収容所を建設する工事が開始された。館とそこから4キロ離れた林にヘウムノ収容所は存在していた。

 ヘウムノに駐屯した「クルムホーフ特別部隊」のクルムホーフとはこの部隊の初代隊長の名前であり、ドイツ側はこの収容所をクルムホーフ強制収容所と呼ぶようになった。またその後の隊長の名前をとってランゲ強制収容所、もしくはボートマン強制収容所と呼ぶこともあった[2]。クルムホーフ特別部隊は安楽死計画に参加していた部隊であった。

 ヘウムノ村は国家社会主義ドイツ労働者党のヴァルテ管区に分類される場所にあった。ヴァルテ管区で暮らすユダヤ人45万人を絶滅することを目的として設置されることとなったのが、このヘウムノ強制収容所である。ただしヘウムノにはガス室は設置されず、絶滅作戦には三台のガス・トラックが使用された。このガス装置は国家保安本部によって制作された。

 このガス・トラックが独特で、1941年12月9日に最初の移送されたユダヤ人700人が到着し、絶滅作戦が本格的に開始された。ユダヤ人たちはナチスによって一度ウッチ・ゲットーに集められ、そこから鉄道かトラックでヘウムノ強制収容所へと移送され、そしてガストラックによって虐殺されている。

 囚人を長期に収容しておかない絶滅収容所であるヘウムノは極めて小規模であり、収容所の所員も少数である。親衛隊・警察・憲兵全てを合わせても150名を超えることはなかった。

 1943年4月、ヴァルテ管区のユダヤ人は労働できる者はウッチ・ゲットーで強制労働に従事させられ、労働できない者はほぼすべてこのヘウムノのガストラックで絶滅させられている状態になった。ヘウムノはその役割を失い、一度解体された。85名のクルムホーフ特別分隊は第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」に編入された。

 ところが1944年春にボートマン達クルムホーフ特別部隊が戻ってきて、ヘウムノでの絶滅作戦が再開された。今度は他のドイツ国防軍占領地域から連れてこられたユダヤ人たちがガス殺された。


 1944年6月から8月にかけてウッチ・ゲットーが解体されると、そこで働いていた7万人のユダヤ人もガス殺されることとなり、ヘウムノに送りこまれるようになった。しかしヘウムノだけでは対処しきれず、そのうち一部はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られて、そこでガス殺されている。

 ソ連赤軍が接近すると撤収作業が行われた。このときに囚人たちが反乱を起こしたが、生存者はいなかったという。

関係者
所長
・ヘルベルト・ランゲ親衛隊少佐
・ハンス・ボートマン親衛隊大尉(de:Hans Bothmann)1942年3月以降
看守
・ヴァルター・フィラー(Walter Filer)ボートマンの副官
・ヴァルター・ブルマイスター(Walter Burmeister)ボートマンの運転手兼補佐役
・アロイス・ヘッフェレ(Alois Hafele)衣服の検査など担当

囚人
・モルデハイ・ポドフレブニク(Mordechai Podchlebnik)脱走に成功した囚人。戦後ユダヤ人のガス室処理を証言した。

参考文献
1. ラウル・ヒルバーグ著、望田幸男・原田一美・井上茂子訳、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下』(1997年、柏書房)ISBN 978-4760115174
2. マルセル・リュビー著、菅野賢治訳、『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』(1998年、筑摩書房)ISBN 978-4480857507

脚注
1.^ 1962年と1963年に西ドイツのボンで行われたヘウムノ収容所関係者達に対する裁判ではヘウムノで15万2678人が殺害されたことが立証された。一方ポーランド政府による「ポーランドにおけるドイツの犯罪に関する総合調査委員会」の調査によると最低34万人が殺害されたという。『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』348pp
2.^ 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』348pp
3.^ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下』172pp
4.^ 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』338pp
5.^ 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』340pp
6.^ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下』172pp
7.^ 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』338pp
8.^ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下』172pp
9.^ 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』346pp
10.^ 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』346pp


出典:Wikipedia

ポーランド内のナチスドイツの強制収容所及び絶滅工場付き収容所の位置  
ヘウムノハワルシャワの西にある 
出典・Source:Wikipedia Commons
By Lonio17 na podstawie: Maria Wardzyńska: Był rok 1939. Operacja niemieckiej policji bezpieczeństwa
w Polsce. Intelligenzaktion. Warszawa: Instytut Pamięci Narodowej, 2009 - Praca własna, CC BY-SA 4.0, Link  
Source:United States Holocaust Memorial Museum
出典:米国ホロコースト記憶博物館
Source:United States Holocaust Memorial Museum
出典:米国ホロコースト記憶博物館
Source:United States Holocaust Memorial Museum
出典:米国ホロコースト記憶博物館
Source:United States Holocaust Memorial Museum
出典:米国ホロコースト記憶博物館
ヘウムノ(クルムホフ)絶滅収容所はナチスドイツにより占領下のポーランドのウッチに近いヘウムノの町に第二次大戦中に、ウッチ・ゲットーのユダヤ人たちとドイツ本国に併合された地域の人々を殺害する目的で建設された。
出典・出典・Source:Wikimedia Commons By SS Unknown author - Original at State Museum in Konin (cleaned in Photoshop), Public Domain, Link
ゲットー・リトマンスタット:クルムホフ死収容所への移送される子供たち
出典・Source:Wikimedia Commons By Unknown author - USHMM website (www.ushmm.gov), Public Domain, Link
ヘウムノ強制収容所跡地に建てられている記念碑
出典・Source:Wikimedia Commons Public Domain, Link
ヘウムノ強制収容所のガス・トラック
出典・Source:Wikimedia Commons, Public Domain, Link