エントランスへはここをクリック   
第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

ミノーリ(コムーネ)
Minori(Comune)

    青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo

ミノーリの絵画
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S8  2013.6

<ヴェスヴィオ総合メニュー>

ミノーリ(コムーネ)
ビラ・ロマーナ遺跡1  ビラ・ロマーナ遺跡2  ビラ・ロマーナ遺跡3
ビラ・ロマーナ遺跡4  ビラ・ロマーナ遺跡5  ビラ・ロマーナ遺跡6
ビラ・ロマーナ遺跡7  ビラ・ロマーナ遺跡8  ビラ・ロマーナ遺跡9 
ビラ・ロマーナ遺跡10  

 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

    
アマルフィの位置    ミノーリの紋章  イタリア国旗

◆ミノーリ(コムーネ)


Source:Wikipedia

 
ミノーリ(イタリア語: Minori)は、イタリア共和国カンパニア州サレルノ県にある、人口約2,700人の基礎自治体(コムーネ)です。

 
以下は、ヴィッラ・ロマーナがあるミノーリ(Minori)の位置です。


ヴィッラ・ロマーナがあるミノーリ(Minori)の位置
出典:グーグルマップ



ミノーリとマイノーリの位置関係を示すグーグルマップ
出典:グーグルマップ


ミノーリの風景
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる

語源
 
 ミノーリ(「小さい」を意味する)という名前の由来は、それを流れる川、すなわちラ・レギンナとの関連に由来しています。町の古代ラテン語の名前は確かにRheginnaMinorであり、隣接する町Maiori(「大きい」を意味する)は、同じ関連性からRheginnaMaiorとして知られていました。結局、両方の町の名前は省略され、RheginnaMinorはMinoriに変わりました。


ティレニア海から見たミノーリの風景
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 3.0, Link

地理

位置・広がり


 サレルノ県北西部のアマルフィ海岸に位置する町で、アマルフィから北東へ約3km、県都サレルノから西南西へ約13km、州都ナポリから南東へ約38kmの距離にあります。町域は南北に細長く、東にマイオーリ、西にラヴェッロの町域に挟まれています。


ミノーリの絵画
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S8  2013.6


歴史


 考古学調査で示されているように、ミノリはアマルフィ海岸で最も古い人が住んでいた場所でした。現在の市街地の平坦なエリアの下には、1世紀にさかのぼり、フレスコ画やモザイクで飾られた2階建ての海上ローマ時代の別荘(下部のみが保存されています)があります。

 おそらく上層貴族が所有する別荘は、西暦4世紀までユリウスクラウディウス時代を通して使われていました。別荘は後放棄されたため、ベスビオ山から噴出した溶岩物質の山に容赦なく覆われ、最終的には激しい集中豪雨のために下流に沈殿して行きました。

 古代のミノーリの地元伝統によると、ミノーリの最初の人が住んでいた中心は、7世紀にサントロ・フィメナの遺体が奇跡的に発見されたことで分かったフォルセラ北東の丘陵地帯にありました。

 中世を通して、ミノーリの歴史は隣接するアマルフィの歴史に密接に関連していていました。確かにアマルフィ海岸全体はビザンチン(東ローマ帝国)の影響下にある南イタリアの多くの地域のひとつでした。

 町はもともとナポリの自治公国(東ローマ帝国に直接支配されていなかった)に含まれ、カンパニアの沿岸地帯に沿ってラツィオの下部にまで広がっていました。

 9世紀のロンバードの襲撃に続いて、アマルフィ海岸は都市国家の自治公国を形成しました。最初は選出された治安判事によって統治されましたが、まもなく遺伝的な公国王朝によって統治されました。

 明おーりの都市構造は、スペインの副王領時代にさまざまな変化を遂げました。 16世紀には、バルバリア海賊の侵入に抵抗するために防波堤が強化されましたが、礼拝所の数は大幅に減少しました。

 この時期は、政治的および行政的な不確実性と複数の自然災害(主に高潮による)によって、ミノーリの町は深刻な経済危機に悩まされました。そのため、ミノーリとその住民は陰鬱な時代でした。

 1799年、フランスとナポリの革命運動の文脈で、ミノーリは富裕階層(ブルジョアジー)と地元の聖職者によって「地方自治体化され民主化」されました。しかし、ウィーン会議の後、町はスペインの支配下で、新しく形成された両シチリア王国内に戻りました。

 1811年に始まり、1852年に完成したアマルフィ海岸の人々が住むことを余儀なくされた何世紀も前の孤立した時期を打破するために、新しく実用的な道路が建設されました。

 1860年、南イタリアの他の地域と同様に、ミノーリはサヴォイア家によって進められたイタリア統一の過程でジュゼッペ・ガリバルディと彼の軍隊に征服されました。

 1943年9月、第二次世界大戦でイタリアがナチスドイツとの同盟から脱退した後、ミノーリはいわゆる「サレルノ上陸」に関与した場所のひとつとなり、その結果、いわゆる連合軍はローマに向かって前進するためティレニア海のミノーリ沿岸に侵入したのです。



アマルフィ海岸のミノーリ(西部地域)。道路はアマルフィに通じています。
Source:Wikimedia Commons
CC BY 3.0, Link


行政

分離集落


 ミノーリには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

 Villa Amena, Montecita, Torre Paradiso, Monte, Via Pioppi, Torre

 注)分離集落とは
  分離集落(イタリア語、フラツィオーネ( frazione)は、イタリアの
  地方行政上の制度で、基礎自治体であるコムーネの下位にあ
  たる行政区画。 コムーネに含まれるが、コムーネの中心集落
   (it:Capoluogo) から地理的・歴史的・経済的に離れている村落
  (集落)である。

交通

道路

 SS163 (it:Strada statale 163 Amalfitana)


ビラ・ロマーナ遺跡1へつづく