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ドイツ・ザクセン州短訪


ライプツィヒ大学

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年9月30日
独立系メディア E-wave Tokyo
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ライプツィヒ大学


ライプツィヒのロゴ大学
Source:Wikimedia Commons
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1891年以降のライプチヒ大学図書館の本館。第二次世界大戦で
破壊されましたが、1994-2002年に再建され拡張されています。
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ライプツィヒ大学とは 出典:ことばんく

 ドイツのライプツィヒにある中世以来の伝統ある大学です。

 1409年、ボヘミア国王よりプラハ大学におけるチェコ人の優位を認める勅令が出されたプラハ大学事件を契機に、そこを去ったドイツ人教授や学生のため、チューリンゲン伯フリードリヒらによって創設され、教皇アレクサンデル5世により認可されました。

 16世紀にはドイツでもっとも学生の多い大学となりました。18世紀中ごろにはドイツにおける啓蒙(けいもう)主義の中心となり、当時の在籍者名簿にはG・E・レッシング、ゲーテ、J・G・フィヒテ、J・パウルらの名がみられます。

 19世紀後半以降、資本主義社会の急速な発展とともに、大学の学術研究も飛躍的に発展し、世界的な名声を確立するに至った。

 第二次世界大戦中はかなりの被害を受けましたが、戦後復旧し東ドイツの大学となり、1953年カール・マルクス大学ライプツィヒと改称されました。その後、1968年の大学改革で学部制が廃止され、部門制Sektion(20部門)に再編成されました。

 東西ドイツ統一後は学部制に復すとともに、1991年名称も旧称ライプツィヒ大学となりました。

 1998年現在、14学部(法学、神学、歴史・文学・東洋学、言語学、教育学、社会科学・哲学、経済学、体育学、医学、数学・コンピュータ科学、生化学・薬学・心理学、物理学・地球科学、化学・鉱物学、獣医学)となっています。学生数約1万9000人です。[馬越 徹]



ライプツィヒ大学
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大学中央図書館
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 ライプツィヒ大学(Universität Leipzig)は、ドイツのザクセン州ライプツィヒにある大学です。東ドイツ(ドイツ民主共和国)時代はカール・マルクス大学と呼ばれていました。

概要

 神学者のヤン・フスらによるチェコ人優遇策に抗議してプラハ大学を一斉に去ったドイツ人教員や学生を受け入れるためにマイセン辺境伯フリードリヒ4世が1409年に創立。

 ドイツではハイデルベルク大学(1386年に創立)に次ぐ歴史と伝統を持っています。

 かつてこの大学で教鞭を執ったことがある著名人として、ライプニッツ、歴史家のモムゼン、化学者のオストヴァルト、物理学者のハイゼンベルクとヘルツ、実験心理学を確立した心理学者のヴント、クラインの壺で有名な数学者クライン、メビウスの帯で有名な数学者メビウスなどがいます。

 また、ここで学んだことのある著名人としては、哲学者で作家のゲーテならびにニーチェ、作曲家のシューマンならびに歴史家のランケ、劇作家のレッシング、ロシアの作家ミハイル・プリーシヴィン、言語学者のソシュール、社会学者のデュルケーム、探検家のスタインなどが挙げられます。現在ドイツ首相のアンゲラ・メルケルもここで物理学を専攻しています。

 また、ライプツィヒ大学で最も名高い学部は医学部だといわれており、エルヴィン・フォン・ベルツをはじめ、日本人では萩原三圭、三浦守治、森鷗外もここに留学して、ドイツ医学を学びました。

 他にこの大学に留学した日本人として「味の素」を発明した化学者池田菊苗(オストヴァルトに師事)、ノーベル物理学賞受賞者の朝永振一郎(ハイゼンベルクに師事)などがいます。



エジプト研究所のあるタイニーの高層ビル
ライプツィヒ 2011念に撮影。
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エジプト考古学博物館ゲオルクシュタインドルフライプチヒへの入口
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つづく