| 甲州街道、甲斐古民家探訪 甲州街道とは 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda May 16, 2024 Alternative Media E-wave Tokyo |
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三国街道と北国街道地図 出典:三国街道を歩く / Biglobe はじめに 甲州街道(こうしゅうかいどう)は、甲斐国(山梨県)へつながる道。江戸幕府によって整備された五街道のひとつ。 概要 甲州街道は、古甲州道をもとにして、江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。 江戸日本橋または江戸城半蔵門から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで44次の宿場が置かれ[1]、江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの7宿を裏街道と呼んだ。 近世初頭には「甲州海道」と呼称され、正徳6年(1716年)4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められる。中馬による陸上運送が行われた。江戸の町において陰陽道の四神相応で言うところの白虎がいるとされる街道である。 多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保 - 府中 - 調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更された。その後も古く狭い街道が、新しくできたバイパス道路へと路線が変更となっている。 歴史 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "甲州街道" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年6月) 戦国時代 戦国時代は甲斐国は甲斐武田氏、武蔵国を上杉氏・後北条氏が支配し、しばしば対立した為、街道が整備されていなかった。主に甲斐国から武蔵国へ出るには、碓氷峠を通って安中市を通って南下するルートが主であった。(後の中山道のルート) 永禄12年(1569年)、甲府 - 八王子間の街道は整備されていなかったが、甲斐武田氏の小山田信茂が間道を抜けて小仏峠を越え武蔵国八王子に侵入し(廿里の戦い)、北条方が北方に備えた滝山城の裏門を突いて三の丸まで抜き落城寸前まで迫り、さらに武田氏方はここを通って後北条氏の本拠小田原城を攻めた(詳細は三増峠の戦い参照)。 安土桃山時代 天正10年(1582年)、天正壬午の乱の結果、甲斐は徳川家康支配となる。 安土桃山時代 天正18年(1590年)、豊臣政権に臣従した徳川家康は武蔵国に移封され、徳川領と接する甲斐は豊臣家から見て最前線とされ、豊臣秀勝・加藤光泰・浅野長政・浅野幸長父子などの豊臣系大名が入国した。 江戸時代 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの結果、甲斐国は徳川氏直轄・譜代支配となった。この結果、甲州沿いが徳川領、もしくは親藩となり、街道が整備できる環境が整った。 甲州街道「江戸 - 甲府」の開設は慶長7年(1602年)[2]で、すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった。 近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという(その為、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねられている)。 また、短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、甲府城を有する甲府藩が親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲・足軽兵力が将軍と共に徳川家親藩の甲府城までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。 参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩である。それ以外の藩は中山道を利用した。下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる[誰によって?]。その事から発展が遅れ、衰退する宿場町もあった。 近世には旅の大衆化に伴い甲州道中上の名所旧跡などを紹介した地誌類や視覚化した絵図類が製作されており、絵図では『甲州道中分間延絵図』や『甲州道中図屏風』が知られる。また、宇治採茶使は甲州街道を利用した。 宿場 多くの宿場があり人々は国府参り等を旅路の楽しみとして賑わっていたが、趣向の変化で国府も西の外れ近くとなり、また東海道の人気により江戸より離れた宿場町は衰退していった。宿場は『甲州道中宿村大概帳』による。
つづく |
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