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ドイツ・ザクセン州短訪

クリスティアーネ・フォン・
ブランデンブルク=バイロイト


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年7月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
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◆クリスティアーネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト 


Source:Wikipedia


Portrait of Christiane Eberhardine of Brandenburg-Bayreuth (1671-1727)
Source:Wikimedia Common
Unidentified painter - http://mkp.emokykla.lt/gimtoji/images.php?IId=424, パブリック・ドメイン, リンクによる


生涯

 ブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストと妃ゾフィー・ルイーゼ(ヴュルテンベルク公エーバーハルト3世の娘)の第1子としてプレッチュ(en:Pretzsch, Wittenberg)で生まれた。彼女の名前は、父と母方の祖父の名にちなんだものです。

 1693年、当時ザクセン選帝侯だったアウグストと結婚しました。この結婚は純粋に政略のためであり、結婚生活は非常に不幸でした。

 名うての女たらしであったアウグストは、結婚当初から愛妾がいました。1696年10月17日、クリスティアーネがドレスデンで一人息子アウグストを出産します。そのわずか10日ほど後に、ゴスラーで、愛妾マリア・アウローラがアウグストの庶子ヘルマン・モーリッツ(のちのフランス元帥モーリス・ド・サックス)を生みました。

 夫アウグスト2世がポーランド王として即位するにあたり、プロテスタントからポーランドの国教カトリックに改宗しましたが、彼女は信仰を変えることを断固拒否したばかりか、夫の戴冠式に出席しませんでした。彼女の所領で暮らす農夫たちは、クリスティアーネを『ザクセン人の柱』と呼んでいます。

 クリスティアーネはプレッチュに持つ自身の私領か、トルガウのハルテンフェルス城で引きこもるように暮らしました。

 彼女の姿が見られるのは、ドレスデンの祝祭が行われる時くらいでした。静かな生活の中で、彼女は文化と、親のない子供たちへの奉仕活動を行いました。また、クリスティアーネは経済分野にも才能を見せ、プレッチュにガラス工房を作らせました。

 1727年、クリスティアーネは夫と長男とほぼ没交渉のまま、孤独な生涯を終えました。ポーランド王妃でありながら、彼女は地元プレッチュの教会に埋葬され、夫と長男はどちらも葬儀に出席しなかったとされています。

 クリスティアーネの死を悼み、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはヨハン・クリストフ・ゴットシェートの書いた歌詞に作曲した。これが『侯妃よ、願わくばなお一条の光を』(哀悼頌歌、原題:Laß, Fürstin, laß noch einen Strahl )で、1727年10月15日、ライプツィヒのパウリナー教会で初めて演奏されました。


◆J.S.バッハ:カンタータ 第198番 「候妃よ、さらに一条の光を」
"Laß, Fürstin, laß noch einen Strahl"
 出典:音楽の森、youtube


つづく