ドイツ・ザクセン州短訪 ライプツィヒ1 Leipzig 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年7月20日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニューに戻る ◆ライプツィヒ ![]() ライプツィヒ市の紋章 Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ![]() ライプツィヒ市の旗 Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 出典:ライプツィヒ観光局 概要 ライプツィヒ(ドイツ語: Leipzig.ogg Leipzig[ヘルプ/ファイル])は、ザクセン州に属するドイツの都市です。人口は約59万人です。ザクセン州では州都ドレスデンをやや上回る最大の都市で、旧東ドイツ地域ではベルリンに次いで2番目です。 ライプチヒは、 バッハやメンデルスゾーンそしてヴァーグナーらゆかりのドイツを代表する音楽の街です。またベルリンの壁崩壊、ひいては東西両ドイツの統一の端緒となった住民運動の発祥地として知られています。 地理 地勢 ザクセン州北西部のライプツィヒ盆地に位置し、約30km北西にハレ、約100km南東にドレスデン、約160km北東に首都ベルリンがあります。ドイツ中部圏(Metropolregion Mitteldeutschland)の中央に位置する同圏の中心都市です。 市内中心部にはリング(Ring)と呼ばれる環状大通りが一周しており、これに囲まれた部分は中世以来の都心部として特に中心街(Innenstadt)と呼ばれます。リングはかつての市壁(街自体を囲む城壁)の外周を巡っていた遊歩道跡で、近世以降その外側へと市街地が拡大して行きました。中心街は直径約1kmの円状をなし、その中央にマルクト広場(Marktplatz)が位置します。 気候 気候は大陸性気候に属し、年平均気温は約8℃。夏季でも気温が30℃を超えることはまれですが、1992年には38℃の過去最高気温を記録しています。冬の気温の最低記録は1987年の-24.1℃。真冬には多くのドイツの地域と同様降雪が見られ、雪に覆われます。氷点下になることがよくあり、2010年の0℃以下記録日数は62日でした。 ![]() 歴史 ![]() 2つの通商街道、Via Regia(国王の道)とVia Imperii(帝国の道) Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 2.5, リンクによる 中世7世紀頃、この地を流れるエルスター川とパルテ川の合流地点近く(現在の中心街北西の一角)に、スラヴ系ソルブ人の城砦集落ができたことが街の始まりとされています。 これを表す "urbs Libzi"(ウルプス・リプツィ=リプツィ城)という名称は1015年に初めて史料に現れる(リプツィはスラヴ語で「菩提樹の地」の意。このため、日本でも稀に菩提樹市と称される場合があります。ちなみに明治時代に日本で用いられた漢字表記は来責府です)。 ![]() 旧市庁舎 (1557年完成のドイツを代表するルネッサンス建築物の一つ) Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる 東方植民に続いてやがてヨーロッパ大陸を縦横に貫く2つの通商街道が形成され、広範囲の交易が盛んになると、ライプツィヒはちょうどその交差点に位置する町として神聖ローマ帝国有数の商都へと発展して行きます。 王侯貴族や司教の拠点としてではなく商人の町として1165年には都市権・市場権を獲得し、商人たちの守護聖人である聖ニコラウスに捧げられた市内最初の教会・ニコライ教会が創建されました。 興隆に伴って入植者が増加してゆき、1212年にはアウグスチノ会トーマス修道院(現・トーマス教会)とそれに付属するトーマス学校が創設されました。1409年に同修道院内に開学したライプツィヒ大学は、現在のドイツ国内でハイデルベルク大学に次いで2番目の歴史を持っています。 16世紀にはルターが当地で信仰をめぐる論争を繰り広げ(ライプツィヒ討論)、町は後に彼によってプロテスタント化されました。 ![]() 諸国民戦争記念碑 (戦闘から100年となる1913年、古戦場中央に 建設されたヨーロッパ最大の記念建造物) CC 表示-継承 3.0, リンクによるrce:Wikimedia Commons ザクセン選帝侯領の都市となった近世以降のライプツィヒは、三十年戦争(ブライテンフェルトの戦い・リュッツェンの戦い)の混乱を挟みつつメッセ(後述の「見本市」参照)の開催地としてヨーロッパ屈指の商都へと成長して行きます。 それと共に市民層による各時代の芸術・文化が花開き、18世紀にはドイツ地方初のコーヒー店が登場し、テレマンやバッハが市民の音楽活動を率い、ゲヴァントハウス管弦楽団が創設されました。 1813年にはナポレオン戦争中最大規模の戦いとなった諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)が行われ、ナポレオン1世麾下のフランス軍19万と、プロイセン・ロシア帝国・オーストリア帝国・スウェーデンの連合軍36万が激突する舞台となりました。 戦乱から復興後のライプツィヒは商業と並んで学芸、とりわけ西洋音楽における中心地として栄華を極めます。 19世紀のライプツィヒはウィーン、パリと共にヨーロッパを代表する音楽の都として名を馳せ、この時代にメンデルスゾーンやシューマンらが活躍しました。 工業化時代に入ると、ライプツィヒはその強固な経済基盤の下で工業都市として急速に発展し、それと共にドイツにおける社会民主主義運動や婦人運動の重要な拠点となりました。ドイツ帝国・ヴァイマル共和国有数の大都市として更なる拡大を見せ、1931年には人口71万9千人を数えました(現在までの最高記録)。 第二次大戦による惨禍の後、ライプツィヒのある中部ドイツはソ連占領区となり、1949年にそれがドイツ民主共和国(東ドイツ)となりました。社会主義化したこの時代にはドレスデン、カール・マルクス・シュタット(現・ケムニッツ)と共に東ドイツの主要工業地域を形成しました。 メッセは社会主義政権下でも継続され、西側世界との貴重な窓口となりました。東ドイツ時代末期の1989年にはニコライ教会での集会を発端とする「月曜デモ」と呼ばれる反体制運動が起き、これが東ドイツにおける民主化運動の出発点となりました。 当地の市民蜂起に始まり、ベルリンの壁崩壊、そして東西ドイツが犠牲者を出すことなく統一された一連の出来事は、現在東欧革命の一部として「東ドイツ平和革命(Friedliche Revolution)」と呼ばれています。 ![]() 東側から見る中心街 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる ドイツ再統一後には街並みの修復や再開発、芸術・文化面の再興などで再び急速な変遷を遂げ、現在のドイツ中部圏を代表する文化・経済都市となっています。ポルシェやBMWの開発を担う新工場の建設や、アマゾンやヤマザキマザックによる拠点開設、そしてDHLのヨーロッパ・ハブのブリュッセルから当地への移転といった企業進出に加え、音楽に代表される文化的環境(後述)を生かした文化・創造産業も盛んです。 2015年には史料初出から1000年目を迎え、千年史記念祭の開催が予定されています。 交通 鉄道 ヨーロッパ最大の頭端式駅であるライプツィヒ中央駅があり、ドイツ中部圏における鉄道交通の要所です。同駅には一日700以上の列車が発着しており、ICE・RE・Sバーンなどが利用できます。 ベルリン、フランクフルト(中央駅および空港長距離列車駅)、ミュンヘンといった国内の各主要都市に乗り換えなしで行くことが可能です。 特に首都ベルリンとは毎時間運行のICEで約1時間15分で連絡しています。中央駅から中心街の地下を通って市街南部へと抜ける「シティー・トンネル(City-Tunnel Leipzig)」が2013年12月に開通、中心街直下に地下駅が開業しました。 ライプツィヒ交通公団(Leipziger Verkehrsbetriebe GmbH)の運営する都市交通も充実しており、市内を多くの路面電車やバスが走っています。 空路 ライプツィヒ・ハレ空港(Flughafen Leipzig/Halle)が市内中心部より北西約15kmの所にあります。 空港はハレとライプツィヒの間にあり、貨物ターミナルにはDHLのヨーロッパ・ハブが置かれています。旅客ターミナルは鉄道駅と直結しており、市街とはSバーンやIC、バスで結ばれています。上述のシティー・トンネル開通後は空港駅から中央駅・マルクト駅(マルクト広場直下)といった中心街各駅まで乗り換えなしでアクセス可能となりました。 ![]() ライプツィヒ中央駅 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる ![]() シティー・トンネルのルート図 Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ![]() 旧市庁舎とマルクト駅南口(1925年完成の地下見本市ホールの入口部分を転用したもの) Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる ![]() 中央駅前に停車中の路面電車 Source:Wikimedia Commons FAL, リンクによる ![]() ライプツィヒ・ハレ空港(誘導路と高速道路が立体交差した珍しい構造) Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる 文化 多彩な文化が栄えてきたライプツィヒは特に音楽の街として知られ、市街各地に音楽ゆかりの場所があります。芸術的環境やドイツで2番目に古い大学を有する都市として歴史上の様々な著名人がこの地へと集まりました。また、世界で初めて日刊紙発行、見本市(ライプツィヒ・メッセ)開催がなされた都市です。ドイツ有数のスポーツの街としての一面も持っています。 音楽 トーマス教会少年合唱団 ![]() トーマス教会 Source:Wikimedia Commons GFDL-no-disclaimers, リンク トーマス教会少年合唱団(Thomanerchor)はトーマス修道院・トーマス学校と共に1212年に創設された市内最古の音楽団体で、その歴史を通しトーマス教会と市の中央教会であるニコライ教会を演奏の場としてきました。 その指導者であり、市の音楽活動を統轄する立場にあったトーマス教会音楽監督(トーマスカントル)は、近世以来ドレスデンの聖十字架教会と並んでドイツ・プロテスタント圏の教会音楽をリードしてきました。 歴代のトーマスカントルの中ではヨハン・ゼバスティアン・バッハ(任期:1723~50年)が最も著名で、ここで『ヨハネ受難曲』『マタイ受難曲』『クリスマス・オラトリオ』といった代表的作品が創作・初演されました。合唱団は現在でも毎週トーマス教会の礼拝に出演し、800年にわたる合唱の伝統が守られています。 ![]() ゲヴァントハウス・コンサートホール Source:Wikimedia Commons GFDL-no-disclaimers, リンク ![]() ゲヴァントハウス管弦楽団・ライプツィヒ歌劇場 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、18世紀に市民の音楽文化が栄えるなか、市民階級による自主経営団体として1743年に発足した世界初の民間オーケストラです。 フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディやアルトゥル・ニキシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、フランツ・コンヴィチュニーといった著名音楽家が楽長(首席指揮者)を務めました。 ベートーヴェン『ピアノ協奏曲《皇帝》』、シューベルト『交響曲《ザ・グレート》』、シューマン『交響曲《春》』、メンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲』、ブラームス『ドイツ・レクイエム(全曲)』『ヴァイオリン協奏曲』などの初演を行なったことでも知られます。 同団は通常のオーケストラの倍の人数を持ち、ローテーションでライプツィヒ歌劇場のピットに入るほか、トーマス教会では毎週トーマス教会少年合唱団のカンタータを伴奏します。1809年結成のゲヴァントハウス弦楽四重奏団(世界最古の弦楽四重奏団)も著名です。 人口10数万の小都市でもカンパニーが完備したオペラハウスを持つことが多いドイツ圏において50万以上の人口を擁する都市で専属オーケストラを持たないライプツィヒ歌劇場は、制度上異色の存在です。上記のようにゲヴァントハウス管弦楽団の多人数ローテーションで支えられているため、事実上常設オーケストラを有する歌劇場として運営されています。 他にライプツィヒに本拠を置く中部ドイツ放送(MDR)交響楽団や中部ドイツ放送合唱団(それぞれドイツで最初の放送管弦楽団・放送合唱団)も知られています。 上述のライプツィヒ歌劇場は1693年の開場で、ヴェネツィア、ハンブルクに次いでヨーロッパで3番目に古い市民劇場としての歴史を持っています。ワーグナーは1813年にこの地で生まれました。彼が音楽の授業を受けた旧ニコライ学校校舎(Alte Nikolaischule)が現存します。 メンデルスゾーンは1843年にドイツ初の音楽高等学校であるライプツィヒ音楽院を創設し、同校における日本人留学生第一号は瀧廉太郎でした。現在はメンデルスゾーン音楽演劇大学として受け継がれています。ドイツを代表する名門ピアノメーカーの一つであるブリュートナーもライプツィヒにて創業されました。 その他、バッハがトーマスカントルの契約書に署名した旧市庁舎(Altes Rathaus)や、ドイツ最古のコーヒー店で様々な音楽家が訪れたカフェ・バウム、メンデルスゾーン旧宅(Mendelssohn-Haus)、シューマン旧宅(Schumann-Haus)、世界屈指のコレクションを有するグラッシィ楽器博物館(Grassimuseum für Musikinstrumente)などが市内に点在し、これらの音楽史跡を繋いだ「ライプツィヒ音楽軌道(Leipziger Notenspur)」という街路を世界遺産に登録するための整備事業が開始されています。毎年初夏に行われるバッハ音楽祭は世界的に重要な音楽行事の一つに数えられます。 見本市 ![]() ライプツィヒ・メッセ (現在の見本市会場) Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 2.0, リンクによる ![]() メードラー・パッサージュ街 (ミラノのガッレリアがモデル) Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる ライプツィヒは世界有数の見本市の街としても知られます。 15世紀以降のドイツや中欧では、商都としての経済的発展のもとで「メッセ(Messe)」と呼ばれる大規模な定期市が開かれました。神聖ローマ皇帝のマクシミリアン1世はメッセを保護し、これによってライプツィヒは神聖ローマ帝国内初の帝国市「ライプツィヒ・メッセ」の街として経済的優位を確立します。 当時のメッセは商品を直接売買する現物市でした。数世紀にわたる交易を通して諸国から最新の知識や技術などがもたらされ、ライプツィヒの国際的な繁栄を支えました。 ドイツにおいてライプツィヒとフランクフルトがメッセの2大都市として知られ、16世紀からはライプツィヒのメッセがフランクフルトを上回りました。その原因としては、周辺地域での工業の発達、移民の受け入れ、内陸の通商路の重要性の高まり、ザクセンにおける手工業の発展などがあげられます。 19世紀には、メッセという語は見本市も指すようになりました。近代に入ると、これまでの現物市に代わり商品見本の展示を主とする世界初の「見本市」が1895年に当地で開催され、これによってライプツィヒは見本市の街として世界的に知られるようになります。 「メッセ」という語は以降「見本市」を表すこととなりました。マイセン磁器やシュタイフ社のテディベアなども、ライプツィヒ・メッセを通して世界へと紹介されました。 中心街には世界で初めて建設された見本市開催施設である市立商館(Städtisches Kaufhaus)、メードラー・パッサージュ街(Mädler Passage)に代表される戦前の壮麗な見本市商館が残り、国際見本市都市の栄華を物語ります。現在の見本市会場は東西ドイツ統一後に市街北部に新設されたものです。 書籍 ライプツィヒは書籍・印刷の街としても世界有数の歴史を有します。ヨーロッパ屈指の商都として様々な物品が取引されたなか、重要な位置を占めたのが書籍です。 15世紀末までは、地域外の印刷業者や書籍商により印刷物が持ち込まれていましたが、1481年、ライプツィヒでも本の印刷が開始されます。1530年までに1300種類もの本が出版されました。1594年からは書籍市のカタログまで出版されるようになり、1650年には世界初の日刊紙がライプツィヒに登場します。 ザクセン選帝侯領では神聖ローマ帝国の他の地域に比べて検閲や出版統制が緩かったことから、ドイツ各地の出版業者もライプツィヒに集まってきました。特に、17世紀までの出版の中心地であったフランクフルト・アム・マインには、神聖ローマ帝国が反カトリック的書物に対する検閲機関(Kaiserliche Bücherkommission)を置き、出版への統制を強めたため、統制を嫌った出版業者はフランクフルトからライプツィヒへと続々と移転しました。 18世紀の啓蒙時代にはライプツィヒがドイツ語圏の出版の中心地となり、ライプツィヒ書籍市(Leipziger Buchmesse)がフランクフルト書籍市からヨーロッパの書籍取引の中心の地位を奪いました。 ライプツィヒでは次々と新しい印刷所と出版社が設立され、岩波文庫を作る際に手本にしたとされるレクラム文庫、当地の音楽文化とも影響し合って世界で最初の音楽出版社ブライトコプフ、そしてペータースなどがここで生まれました。 1834年にはシューマンによって『音楽新報』が創刊されました。1912年にはドイツ帝国の中央図書館であるドイツ国立図書館も設立され、現在もドイツにおける書物研究の中心地となっています。毎年3月開催の書籍見本市もライプツィヒに欠かせない重要な行事です。 美術 当地における印刷工芸の発達、そして商人たちによる美術品の収集・芸術活動の促進によって、市民による膨大な美術コレクションが形成されて行きました。これらは現在ライプツィヒ造形美術館やグラッシィ工芸美術館(Grassimuseum für Angewandte Kunst)に収められています。 1764年には美術院も創設され、若きゲーテはライプツィヒ大学に通う傍ら、ここで美術の手ほどきを受けました。美術院の後身である視覚装丁芸術大学(Hochschule für Grafik und Buchkunst)は現在もドイツ有数の美術学校として美術界をリードしています。 東ドイツ時代には社会主義政権を暗に批判する絵画の一派「ライプツィヒ派(Leipziger Schule)」が民衆に大きな影響を与え、ライプツィヒから反体制の市民蜂起が起きる一つの遠因となりました。 現在は画家ネオ・ラオホ(Neo Rauch, 1960~)に代表されるこの伝統を受け継いだ「新ライプツィヒ派(Neue Leipziger Schule)」が隆盛を迎えています。市街西部には多くの現代芸術家たちが居を構える旧紡績工場シュピネライがあります。書籍印刷の歴史と相まってグラフィック・アートも盛んです。 姉妹都市 ヨハンナ公園 (新市庁舎の塔とシティー・ビルを望む) ライプツィヒは以下の姉妹都市を有しています: ウクライナの旗 キエフ(ウクライナ) 1961年、1992年再提携 イタリアの旗 ボローニャ(イタリア) 1962年、1997年再提携 ポーランドの旗 クラクフ(ポーランド) 1973年、1995年再提携 チェコの旗 ブルノ(チェコ) 1973年、1999年再提携 フランスの旗 リヨン(フランス) 1981年 ギリシャの旗 テッサロニキ(ギリシャ) 1984年 ドイツの旗 ハノーファー(ドイツ) 1987年 中華人民共和国の旗 南京(中国) 1988年 ドイツの旗 フランクフルト・アム・マイン(ドイツ) 1990年 イングランドの旗 バーミンガム(イングランド) 1992年 バーミンガム姉妹都市説明サイト アメリカ合衆国の旗 ヒューストン(アメリカ合衆国テキサス州) 1993年 ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 トラヴニク(ボスニア・ヘルツェゴビナ) 2003年 エチオピアの旗 アディスアベバ(エチオピア) 2004年 イスラエルの旗 ヘルツリーヤ(イスラエル) 2011年 ゆかりの著名人 出身者 ![]() 旧交易会館前のゲーテ像 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 2.0, リンクによる ![]() 著名なバッハの肖像画(原物は旧市庁舎に掲げられて Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ![]() メンデルスゾーン旧宅 Source:Wikimedia Commons CC 表示 2.5, リンクによる カスパル・シャムベルゲル 外科医(江戸初期の日本に西洋医学を伝えました 日独交流最初期の人物) ゴットフリート・ライプニッツ 哲学者・数学者 カール・グスタフ・カルス 哲学者・画家 リヒャルト・ワーグナー 作曲家 クララ・シューマン ピアニスト マックス・クリンガー 画家・版画家・彫刻家 ヴィルヘルム・バックハウス ピアニスト ヴァルター・ウルブリヒト 共産主義者・政治家(東ドイツ初代国家元首) ヤン・チヒョルト タイポグラファー・カリグラファー カトリン・ドーレ 陸上競技(マラソン)選手 ティル・リンデマン ラムシュタインのヴォーカリスト トビアス・キュンツェル、ゼバスティアン・クルムビーゲル ディー・プリンツェンのメンバー クリスティン・オットー 競泳選手 ウド・クエルマルツ 柔道選手 イルケ・ヴィルダ 陸上競技(円盤投げ)選手 レネー・アードラー サッカー選手 ビル・カウリッツ、トム・カウリッツ トキオ・ホテルのメンバー 木村昴 声優・俳優 ライプツィヒ大学に学んだ人物(詳しくはライプツィヒ大学参照) ゲオルク・フィリップ・テレマン 作曲家 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ 作曲家 ゴットホルト・エフライム・レッシング 劇作家 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 作家 ロベルト・シューマン 作曲家 フリードリヒ・ニーチェ 哲学者 エルヴィン・フォン・ベルツ 医学者・『ベルツの日記』で知られるお雇い外国人 フェルディナン・ド・ソシュール 言語学者 蔡元培 教育家 エーリヒ・ケストナー 作家 朝永振一郎 ノーベル賞物理学者 アンゲラ・メルケル 現・ドイツ首相 ライプツィヒ音楽院(メンデルスゾーン音楽演劇大学)に学んだ人物 アーサー・サリヴァン 作曲家 エドヴァルド・グリーグ 作曲家 レオシュ・ヤナーチェク 作曲家 フレデリック・ディーリアス 作曲家 瀧廉太郎 作曲家 齋藤秀雄 チェリスト・指揮者 ロージャ・ミクローシュ 作曲家 ゲルハルト・ボッセ ヴァイオリニスト・指揮者 カール・リヒター 指揮者・オルガニスト・チェンバリスト(音楽院卒業後、 トーマス教会オルガニスト) フランツ・コンヴィチュニー 指揮者 ゲヴァントハウス管弦楽団楽長 クルト・マズア ゲヴァントハウス管弦楽団楽長 ゲオルク・クリストフ・ビラー 現・トーマスカントル その他 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ トーマスカントル(その息子たち、 ヨハン・クリストフ・フリードリヒと ヨハン・クリスティアンはライプツィヒ生まれ) フリードリヒ・シラー 1785年、当地で『歓喜に寄す』を創作。 フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ ゲヴァントハウス管弦楽団楽長・ ライプツィヒ音楽院長 ユリウス・ブリュートナー ピアノ製造技師(ブリュートナー創業者) ヴィルヘルム・ヴント ライプツィヒ大学に世界初の心理学実験室を開設。 オスカル・ケルネル 農芸化学者・「ケルネル田圃」で知られるお雇い外国人 グスタフ・マーラー ライプツィヒ歌劇場音楽監督 マックス・レーガー ライプツィヒ音楽院教授・ライプツィヒ大学音楽監督 ヘルベルト・ブロムシュテット ゲヴァントハウス管弦楽団楽長 リッカルド・シャイー 現・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長 準・メルクル 中部ドイツ放送(MDR)交響楽団音楽監督 ウルフ・シルマー 現・ライプツィヒ歌劇場音楽監督 クリスチャン・ヤルヴィ 現・中部ドイツ放送(MDR)交響楽団音楽監督 つづく |