エントランスへはここをクリック       総目次に戻る
ドイツ・ザクセン州短訪

ザクセン王国

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年7月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁
総合メニューに戻る


◆ザクセン王国

はじめに

 ザクセン王国(独: Königreich Sachsen)は、1806年から1918年までドイツに存在した王国です。前身はザクセン選帝侯領です。

 1918年のヴァイマル共和国の樹立によって消滅しました。首都はドレスデンにありました。最終的な領域は現在のザクセン州の領域とほぼ同じです(以下の版図を参照)。


1900年のザクセン王国の版図
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる


歴史

 アウステルリッツの戦いでオーストリアが敗北したことで、神聖ローマ帝国は1806年8月にナポレオン1世によって解体されました。

 同年12月ザクセンは公国から王国に昇格し、ザクセン公フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン国王フリードリヒ・アウグスト1世となりました。

 その後、フリードリヒ・アウグストはティルジットの和約によって成立したワルシャワ公国の公も兼ねることとなりました。

 1815年のウィーン会議の結果、ワルシャワ公国は消滅しました。ザクセン王国はドイツ連邦に加入しましたが、北半分の領土をプロイセン王国に割譲させられることになりました(割譲された領土はプロイセンのザクセン州となりました)。

 現在のザクセン州は、大部分がこの時に残った領土に相当します。

 1848年革命の際には、ライプツィヒを中心として自由化運動が広まりました。こうした中で成立したブラウン内閣は、言論・出版の自由を保障し、封建的諸特権の廃止を実現させました。また、ザクセン王国内における制限選挙を廃止し、21歳以上の男性に普通選挙権を認めました。

 同年末の議会選挙ではスラヴ系少数民族であるソルブ人協会の代表も3人選出されました。しかしこうした改革の潮流は、オーストリアやプロイセンでも反動化が進む中で鎮圧されて行きます。

 1866年の普墺戦争では中立をとろうとしましたが、結局オーストリア側につきました。そのため、プロイセン軍による占領を受けて降伏を余儀なくされました。

 ザクセン王国はハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト・アム・マインなどのようにプロイセンに併合されることはなかったのですが、形式上の自立のみを残してプロイセンに従属し、北ドイツ連邦に加入しました。

 さらに1871年の普仏戦争で北ドイツ連邦はドイツ帝国となり、ザクセン王ヨハンは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に忠誠を誓いました。

 第一次世界大戦中の1918年11月3日、キール軍港の反乱をきっかけにドイツ革命が勃発し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位を余儀なくされました。ドイツ帝国は崩壊しヴァイマル共和政が成立し、最後のザクセン王フリードリヒ・アウグスト3世もまた、1918年11月13日に退位に追い込まれました。


君主

歴代国王

 フリードリヒ・アウグスト1世 (1806年 - 1827年) - ワルシャワ公(1807年 - 1813年)
 アントン (1827年 - 1836年)
 フリードリヒ・アウグスト2世 (1836年 - 1854年)
 ヨハン (1854年 - 1873年)
 アルブレヒト (1873年 - 1902年)
 ゲオルク (1902年 - 1904年)
 フリードリヒ・アウグスト3世 (1904年 - 1918年) - 1918年退位、ザクセンは共和政へ移行。





つづく