| ドイツ・ザクセン州短訪 ザクセン選帝侯領 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年7月20日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニューに戻る ◆ザクセン選帝侯領 ザクセン選帝侯領(Kurfürstentum Sachsen)は、神聖ローマ帝国の領邦国家です。クーアザクセン(Kursachsen)とも呼ばれます。 1356年の金印勅書により、神聖ローマ皇帝カール4世がザクセン=ヴィッテンベルク公爵を選帝侯に指定したことで成立しました。選帝侯領は1806年にザクセン王国となりました。 形成期 中世のザクセン公国が崩壊した後、新たに「ザクセン」を名乗ったのはエルベ川沿岸の都市ヴィッテンベルクを本拠とする小規模な公爵領でした。この公爵領はブランデンブルク辺境伯領の創設者であるアルブレヒト熊伯の息子の一人ベルンハルト3世に与えられました。 ベルンハルト3世の息子のザクセン公アルブレヒト1世はホルシュタイン地方のラウエンブルク(en)にも支配権を拡大したが、アルブレヒト1世の息子達はザクセン公国をザクセン=ヴィッテンベルクとザクセン=ラウエンブルクの2つに分割しました。 1356年、ローマ皇帝カール4世がローマ王の選挙方法に関する基本法を定めた金印勅書を発布した際、ザクセン=ヴィッテンベルク公爵は7人の国王選挙人、つまり選帝侯の一人とされました。これにより、ザクセン=ヴィッテンベルクは小規模な領土しか持たないものの、大きな政治的影響力を獲得しました。 世俗の選帝侯の地位は長子相続が定められており、分割相続により領土の拡散を妨げる効果を持ったため、ザクセン=ヴィッテンベルクを含む選帝侯領は、選帝侯位を有さない他の大多数のドイツ諸領邦とは違い、細分化と崩壊に苦しむことはなかったと言えます。 ザクセン=ヴィッテンベルクのアスカーニエン家が1422年に絶えると、神聖ローマ皇帝ジギスムントはザクセン選帝侯位とその領土をヴェッティン家のマイセン辺境伯だったフリードリヒ1世に与えました。 ヴェッティン家は1089年にマイセン辺境伯領を、1247年にテューリンゲン方伯領を獲得していました。このためマイセン辺境伯領、テューリンゲン方伯領がザクセン選帝侯領と同君連合を結ぶことになり、以後は3者が一纏めにされて「ザクセン」と呼ばれるようになります。 フリードリヒ1世の孫の選帝侯エルンストとアルブレヒト3世(勇敢公)の兄弟は、1485年8月26日のライプツィヒ協定により、ヴェッティン家の領土をエルネスティン系とアルベルティン系に分割しました。 エルネスティン家の始祖である兄の選帝侯エルンストはザクセン=ヴィッテンベルク公国と選帝侯位、及びテューリンゲン方伯領を確保し、アルベルティン家の始祖である弟のアルブレヒト3世はマイセン辺境伯領を与えられました。16世紀に選帝侯位及び領土の大半を没収されるまでは、エルネスティン家がアルベルティン家に対し圧倒的な優位を誇っていました。 宗教改革 ザクセン選帝侯フリードリヒ3世 16世紀に始まったプロテスタント運動は、ザクセン選帝侯の保護下で推進されることになります。ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)は1502年にヴィッテンベルク大学を創設し、1508年にアウグスティノ会の修道士マルティン・ルターを同大学の哲学教授、およびヴィッテンベルク城内教会の説教師に任命しました。 1517年10月31日、ルターは95ヶ条の論題を教会の扉に張り付け、贖宥状の販売などのローマ・カトリック教会の慣行を批判し、いわゆる宗教改革を始めました。フリードリヒ3世は当初はルターの主張の支持者にはならなかったのですが、ルターを自分の保護下に置きました。 選帝侯のとりなしで、ルターは1518年に教皇レオ10世に召喚を受けることが出来たし、1521年のヴォルムス帝国議会出席の際も選帝侯はルターに皇帝からの安全通行の保障を取り付けてあげました。ルターがヴォルムスで帝国アハト刑を科せられると、フリードリヒ3世はルターをテューリンゲンのヴァルトブルク城に匿った。 ルターの教説は最初にザクセンで広まりました。 1525年、フリードリヒ賢公は亡くなり、弟のヨハン(不変公)が後を継ぎました。ヨハンは既に熱心なルター派の信徒で、教会に対する自らの権威を行使して、領内の教会にルター派の宗教信条を採用し、カトリックの宗教信条を守る聖職者を追放し、ルターの考案した典礼を行わせました。 ヨハンは1531年、宗教改革に反対する神聖ローマ皇帝カール5世の圧迫に対抗して共同でプロテスタントの大義を守るため、他の大勢のプロテスタント諸侯と一緒にシュマルカルデン同盟を結成しました。 1532年にヨハンが死ぬと、選帝侯位はその長男のヨハン・フリードリヒ(寛大公)に受け継がれました。ヨハン・フリードリヒは父と同様にシュマルカルデン同盟の指導的諸侯の一人であり、1542年にナウムブルク司教領を占拠し、マイセン司教領とヒルデスハイム司教領を攻撃して同司教領の世俗財産を強奪しました。 ザクセン選帝侯領ではカトリック信仰は厳しく弾圧され、カトリックの教会や修道院は略奪の対象になりました。しかしヨハン・フリードリヒは1547年4月24日、エルベ河畔のミュールベルクの戦いで皇帝カール5世に敗れ、捕虜となりました。 5月19日のヴィッテンベルクの降伏文書の調印により、ヨハン・フリードリヒはザクセン選帝侯位及びザクセン=ヴィッテンベルク公国を、皇帝与党であるアルベルティン系のザクセン公モーリッツに譲渡させられました。 三十年戦争 アウグストとその息子クリスティアン1世の下で、ザクセン選帝侯領ではプロテスタントのより自由な活動が許され、領内では隠れカルヴァン主義が流行しました。しかし三十年戦争前夜のクリスティアン2世の治世、隠れカルヴァン派の信仰を普及させた宰相のニコラウス・クレルは更迭・斬首され、選帝侯領には厳格なルター派宗教体制が復活しました。 次のヨハン・ゲオルク1世(在位:1611年 - 1656年)の長い治世に、ドイツでは三十年戦争が勃発しました。ヨハン・ゲオルク1世は当初、中立を維持してスウェーデン王グスタフ2世アドルフの参戦の打診にも応じませんでしたが、皇帝軍の指導者ティリー伯爵がザクセン領内に進軍すると、プロテスタント側に立って戦うことになりました。 しかし1632年にグスタフ2世アドルフが戦死、1634年のネルトリンゲンの戦いの後、1635年に結ばれたプラハ条約で、ヨハン・ゲオルク1世は皇帝側と和解しました。この条約により、ザクセン選帝侯はボヘミア王の封土という形で上下のラウジッツ辺境伯領を与えられることになりました。 しかしスウェーデン軍はザクセンを裏切り者と見なし、10年の間ザクセン選帝侯領で掠奪を行いました。1648年のヴェストファーレン条約では、ザクセン選帝侯はその支配領域をエルベ川下流域より先に拡大することを永久に禁止され、ライバル関係にあったブランデンブルク=プロイセンの優位を認めることを余儀なくされました。 1653年、ザクセン選帝侯は帝国議会におけるプロテスタント諸侯団(Corpus Evangelicorum)の団長とされ、神聖ローマ帝国におけるプロテスタント諸侯連合の指導者となりました。17世紀後半のザクセン選帝侯たちの治下では、宗教問題はさして重要な問題にはなりませんでした。 厳格なルター派教会が体制宗教とされ、他の宗派の活動は禁止されていました。17世紀半ば、ザクセンにはプロテスタント体制に移行して以来初めてカトリック信徒のイタリア商人たちが移住してきました。彼らは首都のドレスデンと最も商業活動の盛んなライプツィヒに住みましたが、カトリックの宗教活動は禁止されていました。 18世紀 ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世/ポーランド王アウグスト2世 1697年、選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は、ポーランド・リトアニア共和国の国王選挙に出馬する資格を得るためカトリックに改宗し、同年にポーランド王に選出されました。 選帝侯の改宗により、首都ドレスデンに限ってカトリック教区の設置と私的なカトリック信仰が許されることになりました。選帝侯のカトリック改宗は、ルター派の領民たちの間にザクセンの体制宗教がカトリックに戻されるのではないか、という強い不安を生みました。 このためフリードリヒ・アウグスト1世は、ザクセン選帝侯領のルター派領邦教会の首長としての地位を選帝侯の枢密院(プロテスタントのみで構成される決まりであった)に委ねました。これ以後、歴代のザクセン選帝侯はカトリックでありながら、1806年まで帝国議会のプロテスタント諸侯団団長を務め続けることになります。 フリードリヒ・アウグスト1世は、ポーランド・リトアニア共和国の君主に選出されましたが、すぐに対スウェーデンの北方同盟(1699年)に参加し、翌1700年に大北方戦争が開始されました。1706年、共和国はスウェーデンに敗北、フリードリヒ・アウグスト1世はザクセン選帝侯領に逃亡しました。 これを追ってスウェーデン軍はシレジアを通過してザクセンに侵攻しました。フリードリヒ・アウグスト1世は、9月24日(瑞暦9月14日)にスウェーデンとアルトランシュテット条約を結び、選帝侯位は維持したものの、ポーランド王位及びリトアニア大公位を放棄して戦争から脱落しました。 この時、スウェーデンと西欧の外交官が接触したり、他国は中立・同盟を結ぶなど、ザクセンは無視された形となりました。翌1707年にスウェーデンはロシア遠征のため、一年いたザクセンからようやく立ち去りました。1709年にスウェーデンがロシアでポルタヴァの戦いに敗れた後、フリードリヒ・アウグスト1世は、再びポーランド王及びリトアニア大公に返り咲きました。しかしこれは、同盟国ロシアの援助によるものでした。 フリードリヒ・アウグスト1世の息子フリードリヒ・アウグスト2世も、世継ぎ公子だった1712年にカトリックに改宗しました。ヴェッティン家が一族全体でカトリック信徒となったことは、ルター派の領民達を激しく憤激させる恐れがあったため、世継ぎ公子の改宗は1717年まで秘匿されていました。 ザクセンはカトリック信徒を君主とするプロテスタント領邦というねじれ状態に陥りましたが、領内の少数のカトリック信徒は依然として市民権を認められませんでした。1733年にフリードリヒ・アウグスト1世が死去すると、フリードリヒ・アウグスト2世は選帝侯位を継承しますが、同時にポーランド王位を要求しました。 これによりポーランド継承戦争が勃発し、ロシア皇帝と神聖ローマ皇帝の支持を受けました。2年に及ぶ戦争の後、晴れてポーランド王位を獲得し、ザクセンと共和国は再び同君連合となりました。 1756年、ザクセンは七年戦争に巻き込まれ、プロイセン軍がザクセン領内に進攻して首都ドレスデンを占領しました。ザクセン軍はピルナ包囲戦でプロイセン軍に完敗して降伏しました。この時逃亡した大勢のザクセン兵士達はその後、ザクセンの独立回復のために戦いました。 1763年のフベルトゥスブルク条約により、ザクセンはようやく独立を取り戻しました。1763年10月、フリードリヒ・アウグスト2世は死去し、息子フリードリヒ・クリスティアンがザクセン選帝侯を継承するも、同年12月に急死した。これにより、アルベルティン系ヴェッティン家はポーランド王位及びリトアニア大公位を失いました。 1806年、フランス皇帝ナポレオンがプロイセンとの戦争を始めた時、ザクセンは当初はプロイセンに味方したものの、やがてナポレオン軍の同盟者となってライン同盟に参加しました。1806年、選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン王を名乗り、ザクセン選帝侯領はザクセン王国となりました。 つづく |