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ドイツ・ザクセン州短訪

ザクセン(ザクセン人)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2020年7月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
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◆ザクセン


左上からニーダーザクセン州、ザクセン=アンハルト州、ザクセン州。
Source:Wikimedia Commons
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ドイツの地方行政区分

Source:Wikipedia



ザクセンの旗。1815年にザクセン王国の旗となり、現在はザクセン州の旗である
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 ザクセン(Sachsen[1], 低ザクセン語: Sassen, 低フランク語、蘭: Saksen、英: Saxony)は、ドイツの地域名。

 現在は単にザクセンと言えばザクセン州を指すことが多い。しかし、州名にザクセンを含む州は他にザクセン=アンハルト州、ニーダーザクセン州がある。ザクセンの範囲は歴史的に大きく変動しており、現在のザクセン=アンハルト州やニーダーザクセン州、テューリンゲン州にまで及んだ時期もあった。

ザクセンの変遷

 古代、ユトランド半島南部のホルシュタインの辺りにザクセン人が住んでいました。

 5世紀、このザクセン人(サクソン人、英: Saxons)のうち一部が、ユトランド半島のジュート人・アングル人とともにイングランドへ上陸しました。グレートブリテン島の彼らはひとつに溶け合いアングロ・サクソン人と呼ばれるようになります。

 一方、大陸に残ったザクセン人は、9世紀のフランク王国分割の頃までに、フランク王国の支配下に入ってザクセン部族公領(のちのザクセン公国)を作り上げた。

 これがザクセン(独: Sachsen、英: Saxony)の地名のルーツとなります。ザクセン部族公領は当初、現在のニーダーザクセン州の大部分からホルシュタインにかけてを領有していましたが、東方植民の過程で領土を大きく広げ、現在のザクセン=アンハルト州、ザクセン州にまで至ったのです。

 1485年にザクセン公国は西のザクセン=ラウエンブルクと東のザクセン=ヴィッテンベルクに分裂しました。

 おおよそ、前者はニーダーザクセン州、後者はザクセン=アンハルト州とザクセン州に相当します。ザクセン=ラウエンブルクは、さらにいくつかの小領邦に分裂し、拡大しつつあるプロイセン王国に吸収されたり衛星国になったりしました。

 一方、ザクセン=ヴィッテンベルクは繁栄しました。これ以後、単にザクセンといえばザクセン=ヴィッテンベルクを意味するようになり、ザクセン=ラウエンブルクはニーダーザクセン(低地ザクセン)と呼ぶようになりました。

 1806年、ナポレオンにより、(ザクセン=ヴィッテンベルクの)ザクセン公国は、ライン同盟の一員のザクセン王国となりました。

 フランス帝国崩壊後、1815年のウィーン会議により、ザクセン王国の北半分はプロイセン王国に割譲され、ザクセン県(Provinz Sachsen、provinzは州とも県とも訳すがのちのザクセン州と区別できるよう県とします)となりました。

 おおよそ、ザクセン県はザクセン=アンハルト州、ザクセン王国に残った領土はザクセン州に相当します。

 1918年のドイツ革命後のヴァイマル共和政下では、ザクセン県はプロイセン自由州 のザクセン県、ザクセン王国はザクセン州となりました。

 1944年、ザクセン県はマクデブルク県とハレ=メルゼブルク県に分割されましたが、ソ連占領時代の1945年、両県と、かつてアンハルト公国だったアンハルト自由州などを統合し、ザクセン県が生まれ、その年の内にザクセン=アンハルト県、1947年にザクセン=アンハルト州と名前を変えました。

 一方イギリス占領地では、1946年にいくつかの小さな州や共和国を統合しニーダーザクセン州が生まれました。

 東ドイツ時代の1952年には東ドイツでは州が廃止され、5州が14県に再編されましたが、東西ドイツ統一直前の1990年、ほぼ(完全にではありませんが)同じ領域の州が復活ました。


サクソン人

 サクソン人またはザクセン人(英: Saxon, 独: Sachsen, 低ザクセン語: Sassen, 低フランク語、蘭: Saksen)は、北ドイツ低地で形成されたゲルマン系の部族です。現在のドイツのニーダーザクセン地方を形成する主体となり、またイングランド人の民族形成の基盤を成しました。

部族国家ザクセン

 それほど古くから存在する部族ではなく、紀元前1世紀に記されたカエサルの「ガリア戦記」や1世紀に記されたタキトゥスの「ゲルマニア」には記録されていません。

 2世紀中頃に初めて記録に登場し、7世紀末には多くの小部族を吸収して大部族としての成長を遂げ、その間の4世紀後半から5世紀にかけてその一部がアングル人やジュート人とともにブリテン島に渡ってアングロ・サクソン人となりました。

 ゲルマン諸族のうち、サクソン人やフランク人、アレマン人、バイエルン人のように異なる小部族や異分子を多く吸収して成長したこうした新しい集団では、部族集団の形成期に共通の髪型や武装を共通の帰属概念の指標としました。

 サクソン人の場合には男性が前頭部を高く剃りあげました。また、部族名の語源になっている片刃の直刀サクスもこうした指標として機能した共通武装と考えられています。

 母体となった小部族はホルシュタイン地方南西部に居住していたと考えられますが、大部族に成長したサクソン人はその西隣のエルベ川からエムス川にかけての北ドイツ一帯に広がってフランク王国の東側で勢力を誇りました。

 北ドイツの大部族のサクソン人、即ちザクセン人はブリテン島に移住した同族やフランク人のように王国は形成せず、エルベ川以北のノルトロイテ(Nordleute)、ヴェーザー川流域のエンゲルン(Engern)、ヴェーザー川東方のオストファーレン(Ostfalen)、西方のヴェストファーレン(Westfalen)の4つの支族の連合体をとっていました。

 しかし、6世紀後半以降、フランク族との戦いが激しくなると政治的な統合が進み、部族全体に関わる問題を決定する集会をヴェーザー川中流のマルクローで開催するようになり、また部族公の成立もみられました。

 宗教面では、フランク人やゴート人と異なり、後にフランク王国に征服されるまでキリスト教を受容せずに伝統的な神々の祭祀を守り続けました。サクソン人社会は貴族、自由民、解放奴隷から構成されましたが、他のゲルマン系諸族と異なり、貴族が他身分と通婚を禁じられており、封鎖身分を形成しました。

起源

 フランク人がラテン人と同じトロイア起源論を信奉していたのに対し、ザクセン人はジュート人と同じくスキタイ人が自分達の祖先であると考えていました。

フランク王国のザクセン

 西隣のフランク王国がカロリング朝の下で統一されると、カール大帝は772年から802年にかけてザクセン人征服戦争を起こし、大量殺戮や強制移住によって反抗勢力を壊滅させた上でキリスト教を受容させました。また部族の社会組織自体は温存させた上でザクセン人有力者をグラーフ(Graf)の官職に任じて統治に当たらせました。


つづく