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@ 日本の行政訴訟は、訴えにくく、勝訴しにくいが、これを適切に機能させることは、社会的な富を増大させ、正義を実現するための必須の条件である。 A 行政の裁量判断は政策判断であるから、司法が代替するのでなく、立法府が議員提案により裁量極小化のための法改正を行うべきである。 B 国レベルでも行政庁の違法を誰もが争える「国民訴訟」を創設すべきである。 C すべての立法を通じて、「平易・明確な法」を設計することにより、国民の権利救済と法治主義の貫徹を図るべきである。
司法制度改革審議会が行政訴訟の活性化を報告に盛り込むなど、制定以来40年近く大改正のないままの行政事件訴訟法(行訴法)の改革論議が高まってきた。日本で提起される行政訴訟は年間約1800件と、同11万件の仏、20万件の独など先進国と比べて極端に少ない。人口比では、ドイツの約250分の1である。
行政訴訟は、市民の権利利益を守り、行政の適法性を確保するための根幹的手段である。ところが日本の行政訴訟では不適法却下の比率が2割、一部にせよ勝訴するのは1から1.5割にすぎず、圧倒的多数が国、自治体などの行政庁勝訴に終わる。
最高裁はこれでも独より勝訴率が高いとするが、訴えること自体きわめて困難な日本では、潜在的原告勝訴事件の多くが法廷に持ち出されていない蓋然性が高いこと、勝訴事件の絶対数に100倍もの開きがあることを踏まえれば、日本の行政事件での違法是正は依然として氷山の一角にすぎないことに変わりはない。また違法の可能性があっても、形式的に訴訟になじまず放置される行政の行為も多い。例えば、銀行への東京都による外形標準課税は、現在の行訴法と最高裁解釈の下では、課税がなされない限り訴えの利益はなく、現段階では司法の審判の術はない。宅配業者によるカード等の配送が、郵便法の禁止する信書に当たるか否かの司法判断も、事前の行政訴訟によることは困難であった。外務省機密費横領事件に関しても、刑事はともかく、納税者の損失額を関係責任者から弁済させるための訴訟の枠組みは、国については現行法の下では存在しない。
行政による計画や処分は、私人の権利・利益に直接重大な影響を及ぼすだけでなく、それらが法に基づき適正になされ得るという期待そのものが、投資を活発化し、私人間の自由な取引を促すとともに、社会的な富を増大させる。行政と私人との権利義務関係が法に則っていること、それが明確であること、私人の権利が侵されたときには司法により迅速確実に救済がなされること、行政の違法行為一般が的確に是正されることは、いずれも取引費用を低減し、コースの定理に照らして経済活動の根幹を支える要素である。これらは、当然、法治主義による正義の実現をも支える。
行政の法治主義貫徹のための立法の課題は多い。第一に、裁量の極小化のために個別法・行訴法を改正するとともに、これを議員提案で行うべきである。行政法規は、もともと処分行政庁が実質的に作成するが、訴えにくいのに加え、訴えが可能でもきわめて広い裁量によって違法となることがまれなように設計されている。被告予定者自らが後の訴訟で負けやすいように法を作る動機はない。行政事件で裁判所は、きちんと判決を書いていないという批判を招かぬよう、行政の裁量の内容に立ち入る膨大な証拠調べをするものの、最終的には専門技術的裁量を尊重するなどの理屈をつけて行政庁勝訴とすることがほとんどである。
これに対して学界などには、司法が行政の裁量をもっと統制せよ、という議論が多いが、法の読み方の訓練しか受けていない裁判官に、実質的に政策判断にほかならない裁量の確定権限を与えることは事態をかえって悪化させかねない。裁量判断とは、政策判断にほかならないのだから、裁量の統制は、政策の責任を負う立法府が立法で行うのが筋である。処分の費用便益分析の実施や処分の予測可能性確保などの客観的基準を行訴法の中に書き切るとともに、個別行政法規を、行政庁の利害を離れた明確・公正なものに改変していかなければならない。米国では、立法の中に費用便益分析を多く盛り込むのみならず、連邦最高裁自身が、広い局面で行政の権限行使に際して費用便益分析の実施を原則とし、行政裁量の統制に劇的な効果を発揮してきている。法のもつ経済的効果を把握しようとしないのみならず、定期借家立法論に象徴されるように、しばしばあえて法と経済学の知見を無視しようとする日本の最高裁・法務省や法曹関係者の態度と比べて彼我の落差は大きい。
また、行訴法の所管庁である法務省は、国を相手とする行政訴訟の代理人を一手に引き受ける官庁でもある。行政事件での敗訴可能性が高まりかねないような行訴法改正を期待するのは困難である。行訴法立案では利害当事者を排除しなければならない。
国の執行機関である行政庁の適法性を確保し、国民の権利を守るための立法である以上、行政実体法規の裁量の統制や行訴法改正は、議員提案により国民代表としての立法府の責任で行うべきである。法務省や最高裁の司法官僚、行政法研究者などに実質的にこれを代替させるべきではない。
第二に、「国民訴訟」を創設すべきである。行政庁の違法行為を誰もが争える住民訴訟は自治体にしか認められていないが、これを国レベルでも認め(国民訴訟)、行政の無駄づかい・違法な権力行使を徹底的に監視できるようにすべきである。
濫訴を懸念する反対は詭弁である。勝訴の見込みもないのに、金銭や労力をかけて訴訟を起こす利益はない。むしろ国の違法な行為・支出が是正されるならその利益は広く国民に帰属するのだから、報奨金をもってでも違法・不当を発見するための訴訟を奨励すべきである。結果として、当該処分で具体的権利を侵害された市民の利益も回復できるのである。ちなみに、米国の情報自由法では、情報開示請求訴訟の勝訴者には、裁判所が訴訟費用等の支払いを命じることができる。
なお、最高裁はいわゆる一票の格差是正訴訟で、「違法だが選挙は有効」という、事情判決制度の誤った適用により、憲法に基づく法の下の平等を実質的に無視し続けてきており、これが日本のあらゆる構造改革の決定的障害になっていることは米国でも広く認識されている。最高裁が本来の違憲立法審査権を的確に行使できるような行政訴訟制度をこそ構築すべきである。
第三に、従来の権利救済訴訟については、原告適格、処分性などの訴えの利益を客観化・具体化すべきである。このためには、一般則の整備のみならず、安念潤司氏の提案のように手間はかかっても、個別処分ごとに訴えの可否、訴えの可能な原告の範囲などを、具体的な一覧表にしてしまうのが結局最も効果的である。巷に広く見られる、ただ訴えの利益を拡大すれば万事解決というに等しい乱暴な立法論は有用でない。一般的・抽象的に訴えの利益を拡大したとしても、行政訴訟の個人権利救済訴訟としての性格が変わらず、その土俵を出ることができない以上、新たに守られる個人が劇的に増大することにはならない。
また、新たな要件の外縁を確定する必要が生じることから、法曹関係者や行政法研究者にとっては仕事が増えて望ましいかもしれないが、国民の財産である貴重な訴訟資源は新たに浪費され、その点で国民の利益は確実に損なわれる。
加えて、もともと行政庁が勝訴しやすい実体法規そのものに重大な問題があるのだから、訴えの利益のやみくもな拡大は、「訴えそのものは適法だが、本案に理由がなく棄却」という何の権利救済にも寄与しない判決を増やすだけで、問題の本質的解決とはならない。
法的紛争が起こるのは、民事・行政を問わず、法が明確でないことに起因する場合が多い。不明確な法が放置されたまま、紛争が司法の容量を超え、司法改革が叫ばれるという今日の事態は、国家機能全体としては首尾一貫性を欠いている。
その一方で行政訴訟にあきらめが蔓延し、原告勝訴の可能性が小さいのも奇怪なことである。法の不明確性は法曹・法解釈研究者・行政庁の仕事・権力の源泉だから、彼らに国民本位で構造改革を促進する立法を望むのはもともと無理がある。
上に述べた課題も、多義的な解釈を許す立法が顕在化する度に、立法府がその責任で、政策判断を逐一行い、あるべき解釈を法に書き切るように努めさえすれば、本来容易に対応できる政策課題である。法解釈や司法は、その意味で必要悪というべきであるから、その機能ができるだけ肥大化しないですむよう、法律家の利害とは独立に「平易・明解な法」を設計することこそ、成熟した民主国家のあるべき姿であろう。
当面の司法改革で司法の容量を増大させるべきことは当然としても、一方で、法は国民の権利救済と法治主義の貫徹のためにあるのであって、「複雑・難解な法」の読み手としての法律家を「活躍」させるためのものではない、ということを忘れてはならないと思う。
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