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司法改革の法と経済学

福井秀夫

『法社会学』
55号(2001)所収

本ホームページの内容の著作権は筆者にあります。無断で複製、転載することを禁じます。

Law and Economic Analysis of the Judicial Reform in Japan
Fukui, Hideo

While judicial experts such as the Supreme Court, lawyers' association and the Ministry of Justice dominated the designs of the judicial system for many years in Japan, the users of the judicial services recently express their opinions about the desirable change of the system. That produces heated and continuing arguments between the traditional experts and the proponents of the users' views. This study shows first the characteristics of the arguments between them, second whether the discipline of law and economics can make judgments on the economic outcomes of the proposals of the desired judicial system in terms of economic efficiency, third whether the comparative study of the US' and Japan's judicial systems contribute to the arguments about the judicial reform in Japan.
Depending on the Coase theorem, which spells the quick, certain, and inexpensive legal judgment and the enforcement of it decrease transaction costs, this study argues that the situation in Japan is on the opposite side of that. It also argues that the uncertainty of the law gives more room for judicial discretion to increase transaction costs, and that the government-supported restriction of competition among lawyers gives a lot of profit to the lawyers' guild.  
 

キーワード:司法改革、コースの定理、外部性、情報の非対称、政府の失敗


 司法改革論議が高まりつつあるのに加え、ロースクールはじめとする各種提案の制度化も現実のものになりつつある。これまでの司法改革論議が、法曹三者と呼ばれる、最高裁判所(以下「最高裁」という)、法務省、日本弁護士連合会(以下「日弁連」という)の密室の協議の中で行われていたのに対し、近年の論議は、一般市民、経済界、法学以外の学界、政界も巻き込む、広範で司法のあり方そのものにまで踏み込むものとなっている1。

 今の司法に最も必要なことは、司法サービスの提供者にすぎない弁護士や裁判官の世界が、長年にわたり規制のため競争にさらされず、聖域視され、独善化してきたことを反省し、あくまでも利用者である国民の便宜に資するよう、徹底的にサービス内容と価格についての提供者間競争をさせることである2。司法制度については法曹三者の合意した事項以外は改変しないことが、1971年の国会決議の我田引水的解釈により慣行となってきており、制度改革は利用者不在の長い歴史をたどってきた。個別事件での裁判官の職権行使は聖域にほかならないが、一方で、法曹の人員、法曹養成制度、裁判官任用制度など、司法制度の改革は立法府の専権事項であって、これを法曹三者に委ねるのは、いわばまな板の鯉が包丁を握るに等しく、聖域視は筋違いである。国民の代表である国会が、自らの見識で遂行すべき国民の利益を増進させるという責任を放棄してきたにほかならない。関係者だけ特権意識・仲間意識をもち、閉鎖集団を作ってきたことは、昨今の法曹関係者の相次ぐ不祥事と無関係ではあるまい。
1999年に設置された司法制度改革審議会(以下「司法審」という)の審議を軸とした政府における現在の検討体制は、これに先立つ1997年の行政改革会議最終報告、1998年の自由民主党(以下「自民党」という)司法制度特別調査会(現在は「司法制度調査会」。以下「自民調査会」という)の報告に基づいたものである。加えて、これら組織のその後の議論には、司法審の直後の1999年12月に設置された民間組織、司法改革フォーラム3の2001年4月18日現在で6次、計7回にわたる提言4が大きく影響を与えている。
本稿では第一に、これらを中心とする司法改革論議を比較検証する。第二に、司法改革の分析・評価に法と経済学を応用する。第三に、諸外国特に米国との比較で日本の現状を論じる。以下では法と経済学の基本的な思考枠組みを示したうえで具体的なテーマを論じる5。

1. 法と経済学からみた司法改革

 現在の司法改革論議の発端は、今の司法が十分な処理能力をもたず、このため保護の必要な権利や利益が十分に守られておらず、その使命を果たしていないという認識を、多くの関係主体が共有したことであった6。すなわち、市民の正当な権利・利益を守るためには、まず権利実現の究極的担保手段である裁判が、利用しやすく、迅速・確実・安価でなければならない。これを当事者の立場で担うべき弁護士が十分存在し、誰もが気軽に相談できる体制であることも必要不可欠である。弁護士は、裁判以前の段階で、当事者への助言等を通じて裁判の事前回避による権利保護を図る役割をも担う。

 これらが欠けるなら、本来の権利者が泣き寝入りをしたり、権利侵害者や反社会的集団が不当な利益をむさぼったりすることになるのみならず、相手方当事者の債務の履行を前提とするおよそすべての民間経済活動は取引の安全を欠くことによって停滞を余儀なくされ、市民の豊かさは損なわれる。

 ここまでの認識は、論者によっても、組織によっても大きな隔たりはないと思われるが、たとえば、法曹人口をいつまでに、どのくらいの規模に増大させるべきか、弁護士の資格付与に対して国家がいかなる態様で、どの程度介入すべきか、法曹養成の手段としてのロースクールをまったく自由に設立させるべきか否か、裁判官の選考・養成システムをどうすべきかなどの諸点については、大きく見解が相違する。

 法の専門家と称する人々の議論には、市場原理、競争、規制改革などの言語そのものに強烈な拒否反応を示し、これらを敵視するものもあるが、経済学の基本的な思考枠組みを理解しないまま誤解に基づく批判を展開するものも多い。経済学、なかんずくミクロ経済学(価格理論)に基づき法や判決の社会的影響を分析する法と経済学は、司法改革の意味を理解するうえできわめて有用である。反面、実定法解釈学は、制度化された法の意味を探求するための道具立てではあっても、その意味が確定した際に、その結果として、人々の行動にいかなる変化が生じ、ひいてはいかなる社会経済的な豊かさや分配状態の変化がもたらされるのかを分析する方法論をもたない。

 経済学や法と経済学は、それ自体中立的な方法論であって、ある法や制度の下で、第一に希少な資源が無駄づかいされずに利用されているか否か、第二にどの主体が利得し、どの主体が損失を被っているか、について明晰な知見を与えることができる。前者は経済学で資源配分の効率性、後者は所得分配の公正と呼ばれるが、これらの、特に前者のあまり的を射ているとは思えない訳語7のせいで、経済学に対する誤解が日本では増幅されてきたように見受けられる。経済学に依拠しない政策論・分析であっても、この意味での二つの基準のいずれかで説明することができることを否定する者は少ないと思われる。無論、これらのうち、前者は価値判断を含まない客観的な基準であるため、前提及び論証の過程が正しければ、誰でも同じ結論に到達しうる。これに対して後者は、公正の考え方が価値判断であるため、それ自体を学術的に決することは不可能である。しかし、後者ではあっても、少なくともある法や制度が、誰にどのように影響しているかという分析は、価値判断以前の事実として示すことができる。

 ある制度や法が、「妥当である」又は「妥当でない」と評価するためには、何らかの基準に基づく現状の評価が必須であるが、法と経済学は論者の価値判断やイデオロギーの如何を問わず、かなり普遍的な基準と方法をすべての者に対して提供するのである。その政策的含意の第一は、ある所与の社会的経済的状態の下で、希少な資源の無駄づかいをできるだけ少なくして、社会的な豊かさを願わくは極大化することである。第二は、その豊かさの下で何らかの尺度からみて公正を欠くと評価される利得や損失の状態があるならば、その利得・損失状態を、再分配により是正することである。これらの営みを、法や制度の設計において不断に実践していくことこそ重要な意義がある。
法と経済学の方法論を詳述することは本稿の範囲を越えるので、これらになじみの少ない読者には体系的なテキストやケースブックを参照することをお薦めしたい8が、ここでは、司法改革に関連して特に重要と思われるいくつかの原理的知見を提示する。

(1)市場のモデルは政策評価の便宜に資する
 財・サービスの取引を政府の計画や割り当てによることを想定するのでなければ、取引の行われる場としての市場を踏まえた政策を想定せざるをえない。市場に対する好悪の感情とは関わりなく、現実の日々の生活や産業活動の大半は、多くの国に共通して市場機構の中で行われている。これを完全に否定する、よりましな対案が考案されていない以上、市場そのものを嫌悪するよりは、その不完全を客観的に把握・是正することに努めながら、市場の利点をより引き出し、これを政策に奉仕させていく方が生産的である。うまく働く市場の利点で最大のものは、人々がある財・サービスから得る満足度合いの総和を、与えられた条件の中で最大化することである。これは、希少な財・サービスの無駄づかいを防ぐことであるといいかえてもよい。節約は、節約した人々と社会全体とをその分だけ豊かにする。誰がどれだけ豊かになるかを詮索しすぎるのは無益である。公正さを考慮するのは、後から課税などによって行うほうが容易であり、またそのほうがより公正の貫徹を図ることができるからである。いかなる公正観に立つとしても、法制度は、まずこの段階では社会的な豊かさを最大化するように設計されているほうが、公正の実現のための財源もより多く確保できるのである。

 したがって、市場を規律するすべての法制度の設計は、最もうまく機能したときの市場が果たしうる社会的な豊かさの実現にできるだけ近い状態を確保することが望ましい。これは、規制や補助などの公権力による介入がないときに十分機能する市場にはできるだけ介入を避けることと、一定の介入によってよりうまく機能する市場にはその限りにおいて必要最小限度の介入をすることによって実現される。後者の介入が必要になるときがすなわち市場の失敗である。

 競争の結果生まれた高品質の、したがって高価格の財・サービスから低所得者が締め出されるのは低所得者を切り捨てるものであって公正を欠くという議論は的外れである。競争の促進は、同じ価格帯の財・サービスの品質をそれまでよりも押し上げる。逆にいえば、競争前の集団と同数で同品質の集団を、競争後の母集団から取り出して比較するならば、その平均価格は競争前と比べて低下している。加えて競争は財・サービスの多様性を増やし、消費者にとっての選択肢をも増やす。低所得者も含めて消費者は、価格低下と選択肢増大という果実を享受することができる。
競争前の状態を美化する主張は、低所得者に対する関係だけをみても、彼らの豊かさの増大を許してはならないという主張と等しい。低所得者を犠牲にしてでも、少ない供給者で享受している特権的地位・高額報酬の切り下げを許すべきでないというギルド的利害集団9や、その集団の存続自体に利害関係をもつ集団以外に競争抑制の利益が帰属する集団は存在しない。

(2)市場の失敗のないときの市場に介入してはならない
 市場機構は常に完全であるわけではない。市場が自分の力で資源を効率的に配分するのに失敗した状態を市場の失敗というが、市場の失敗は、独占・寡占などの不完全競争、外部経済・外部不経済(外部性)、公共財、情報の非対称、取引費用など、きわめて明確な一定の場合に限られ10、これらの存在する場合に限ってその是正のために公権力が必要最小限度の介入を市場に対して行うことが正当化される。

 これに対して市場の失敗がないときの市場に規制や補助を加える余地はない。これらはどのような形でなされようとも、常に人々に無駄づかいを強いることとなる。市場価格を超える価格下限規制や、カルテルの締結の政府による容認などによって特定の供給者集団が利益を得るのは当然であるが、市場参加者の全員や、納税者の利益も含めて考えるならば、このようなときには必ず回復不可能な損失が発生し11、社会の豊かさを損なう。これは分配財源の減少を意味するから、結果として誰に対しても分配可能性を低下させる。

(3)取引費用とコースの定理を踏まえた制度に
 取引費用とは、財やサービスの取引に際して要する時間・労力・金銭などの負担のことである。たとえば取引に際して、消費者の財・サービスに対する付け値と価格との差額、すなわち消費者余剰を上回る負担が発生する、たとえば常に値切り交渉が必要になるなどの労力、履行を強制するためには常に弁護士を雇い督促を何度もしたあげく、最終的には訴訟が必要になるなどの負担などが発生するとしたら、その財・サービスの消費者はいなくなり、結局は市場そのものが存在しなくなる。権利の履行を強制できる堅固な裁判・民事執行制度12や、複雑で労力を要する負担を当事者に強いない契約法などは、取引費用を軽減して、合意と市場取引を促進する。これらは両当事者に利得をもたらし、社会を豊かにする市場を存続・拡大させる役割を果たす。

 コースの定理とは、権利が明確に法に記述され、その実現や再設定のための取引費用がゼロであるならば、誰に権利を配分しても常に資源配分は最適化される、すなわち社会的な豊かさは最大化されるという原理である。これは立法や法解釈全般に対してきわめて重大な意味付けを与える13。無論、ある取引に際して、取引費用が完全にゼロということはない。しかし、多くの取引では、複雑な手続や長期間を要したり、また債務の履行を強制するために弁護士を雇ったり、裁判に訴えたりするという取引の負担を背負うことなく、円滑に契約やその履行が完結する。通常、日用品の買い物が典型的であるように、相対の定型的な取引の費用は、コースの定理の場面ではゼロとみなして差し支えない。このような場合、誰にどのような権利が与えられていても、事後的な当事者の交渉によって双方の利得を増大させるように権利の再設定を行うことが容易である。ところが、たとえば工場から発生する大気・水質汚染などの公害のように、多くの人々に被害が分散するときには、予め定められた公害に関する権利配分、たとえば住民に完全な操業差し止め請求権があるのか、工場に公害を伴う完全な操業権があるのかなどは、当事者間の事後的な交渉が事実上不可能であることに伴って、資源配分を固定してしまい、これが是正される可能性はきわめて小さくなる。

 現実には取引費用が完全にゼロであることはありえず、この適用範囲はきわめて限られているとして、コースの定理の政策への応用が困難であるなどとする見解もあるが妥当でない。この定理は、その原型よりはむしろ、政策的な含意にこそ意義がある。すなわち第一に、法は権利の内容を明確に定めるべきであり、第二に、法は取引費用を極小化するように訴訟法をはじめとする手続規定を定めるべきであり、第三に、法は取引費用の総和を極小化するように、すなわち権利を配分されないときに権利の実現のための費用が大きくなる者に初期権利配分をするよう実体法を定めるべきであるということがより重要なこの定理の意味なのである14。

 いいかえれば、法解釈の明白性が小さいほど、事前の紛争が発生しやすくなるのみならず、事後的に裁判で争ってもその解決に時間・労力が多くかかる。加えて下級審で複数の法解釈が並存しても、当事者があくまでも最高裁の判断を求めるのに要する・金銭・労力負担は膨大であって、それらのすべてに最高裁の判断が加わるわけではない。取引費用はこれらの程度に応じて増大する。

 裁判や民事執行そのものが迅速・確実・安価になっているかどうかも重要である。現行の裁判のように、高く、不便で遅い裁判は、権利実現の取引費用を増大させ、その程度に応じて社会の豊かさを損ない、市場を失敗させている。行政事件訴訟法が、個々の判決ごとに客観的な基準なく場当たり的に訴えの利益を決することを許していることや、行政庁の裁量権を司法がどのように統制すべきかについても沈黙し、裁量統制の運用を実用に値する基準のない不明確な状況のまま推移させていることも手続規定不備の典型例である15。

 権利を配分されないときに権利の実現のための費用が小さくなるほうの当事者に法が初期権利配分をするならば当事者の事後的交渉によって当事者双方の利益を増大させる余地を閉ざしてしまうのみならず、その配分状態を悪用して不当な利益をむさぼる行為を助長して、公正を損なうことともなりかねない。たとえば良質な賃貸住宅等の供給の促進に関する特別措置法が2000年に施行され、いわゆる定期借家権が導入される前の借地借家法の正当事由制度における借家人の保護は、法そのものも判例も、法解釈の明白性がおよそ欠如していたのに加え、初期権利配分をも誤っていた16。民法395条で短期賃貸借保護の対象となる賃借人をその期間中全面的に保護しているのも、同様の意味でコースの定理に正面から衝突する立法の典型例である17。

 これらを踏まえれば、実定法の検証はむろん重要ではあるものの、およそすべての権利実現に大きく影響する司法制度を取引費用が極小化されたものに改変しておくことは、制度改変の負担・労力に対してその効果が絶大であるという意味において、きわめて重要なことなのである。

(4)外部性の論証のない規制や補助に理由はない
 外部性とは、市場取引を通じないで他者に直接及ぼす利益又は不利益のことであり、前者を外部経済、後者を外部不経済という。整然と再開発されて整備された建築物や、保存された歴史的建築物は、周囲の住人や通行人にも利益を及ぼすので外部経済をもつ。公害を発生させる工場は、その商品の購入者と関わりのない付近の住人に迷惑を及ぼすので外部不経済をもつ。外部性が是正されないときは、外部経済であればその供給が過少となり、外部不経済であればその供給が過大となる。コースの定理の前提が機能するときには、当事者による事後的交渉を通じて外部性は是正され、当事者の利益を増大させることができる。当事者の交渉を容易にして取引費用を小さくし、そのような前提が機能しやすくすることに政策的関与の高い優先順位があることはいうまでもない。しかし、当事者が多すぎるなどの理由で、事後的交渉による是正がやむをえず期待できないときには、政府が一定の介入をする、すなわち外部性を内部化することも正当化できる。外部経済のある行為にその程度に応じた補助金を与えたり、外部経済のある行為に規制を及ぼしたり、課徴金を取るなどの手法である。一般的に、規制よりも、当事者の改善意欲を残す、補助・課徴金などの経済的インセンティヴ手法のほうが、社会的な豊かさの増大の程度、公正の実現の双方において優れている18。

 ともあれ、政府の関与が正当化されうるためには、厳密な意味での外部性の存在ほか市場の失敗が論証されなければならないし、その関与の程度・態様は、必要にして十分なものでなければならない。政府の官僚や法律家によくみられるのは、「この業務(施設、施策、・・・・)には公共公益性があるので、規制(補助)によって監督(助長)を図る必要がある」という論法である。しかし、「公共公益性」といった抽象的かつ論者の主観に大きく依存する基準のみによって政府の関与を正当化することはできない。その内実を、外部性をはじめとする市場の失敗の個別要素に還元することを経ない主張は単なるデマゴーグである。「法曹の使命は尊い」といった類の論法で、試験、業務、競争はじめに枠をはめ、特定教育機関に補助を与えよとするような主張に理由がないのも同様である。

(5)資格制度の根拠は情報の非対称
 市場で取引を行う当事者相互間で取引に関して有する情報に相違があるときこれを情報の非対称という。たとえば、中古車の売買では、売り手は車の事故歴、損耗程度などの欠陥を承知しているが、買い手がこれを厳密に把握することは困難である。中古・新築住宅でも同様のことが起きる。生命保険契約では、買い手である加入者は自分の健康状態や、血族の病歴等を熟知しているのに対し、売り手である保険会社がこれらを正確に把握するのは困難である。このようなとき、情報の乏しいほうの当事者は、危険を避けるために、たとえば信頼できるディーラーや施工業者であるか否かを確立したブランドによって選別したり、劣等なものである危険を見込んで、それを取引の値付けに反映させたりすることによって対抗措置を講じる。しかし、高品質の財・サービスを正直に供給したり、不利な条件にあることをありのまま申告して保険を購入したりする行為は、ほかに不誠実な行為が蔓延している以上、相手方にこれを正しく評価してもらうことは困難であり、報われないために結局不利な振る舞いになってしまう。結局高品質な財・サービスは、市場から駆逐されてしまい、市場が失敗するのである。

 情報の非対称を緩和・解消するための政府の関与は正当化されるが、その基本的手段は、情報の出し渋りが不利になり、包み隠さない開示が有利になるようにすることである。供給者間の競争の促進による情報開示の奨励、消費者保護のための品質に関する正確な説明義務、その課徴金・刑事罰による担保などがそれに当たる。次善の手段は、各種資格試験のように、予め一定の品質を備えている蓋然性が高いと想定されるものを切り分け、その者にだけ一定の資格を呼称することを認めるという手段である。もっともこのような名称独占でさえ、たかだか一回の試験がその者の生涯の業務資質を保証できるはずもなく、かなり大雑把な目安にすぎない。結局情報の非対称は依然として残らざるをえない。

 現実の資格では、資格のない者には一切業務を行うことを認めないという業務独占が、弁護士、医師をはじめ数多く認められているが、そもそも十分に情報を共有し、正常な判断能力のもつ依頼者が、取引のリスクも含めて完全に納得しているときに、その購入を公権力が禁じること自体、情報の非対称を理由に持ち出して正当化されることではない。少なくとも、人命を直接預かる医師と比較しても、コンサルティング業務を行う弁護士のような業務について、資格者以外に対して依頼する機会を、納得済みの者から剥奪することは理由がない。弁護士法72条のような規制に正当化根拠を見出すのは困難である。ましてや、2000年11月20日付司法審中間報告が示したような、いわゆる日本型ロースクールを修了しなければ司法試験を受けさせないというがごとき規制の新設は、情報の非対称を根拠とした政府の関与のあり方を逸脱しているのみならず、その他のいかなる市場の失敗への対処手段としても正当化する余地はないものであった19。

(6)政府の失敗を過小評価してはならない
法の制定・改変、司法制度の整備、外部性の内部化、情報の非対称への対処をはじめ、政府の介入に一応理由がある場合であっても、その程度・手法には選択がある。過大でも過小でもない程度の介入でなければならないし、より市場の失敗の是正手段として目的に合致したやり方でなければならない。

 さらにあらゆる制度化に際して付きまとうが、政府部門は、民間での市場取引の直接当事者ではないのであるから、消費者や供給者にとっての最適消費・供給水準を自ら決定することには本来不向きな主体である。政府の規制や割り当て、助成は、すべて自らの市場主体としての動機に基づくものではないので、相対的に無駄づかいに対して鈍感にならざるをえない。会計検査、行政監察などはあるが、違法・不当が発覚し、是正がなされるのは氷山の一角である。国レベルでは、そもそも地方自治法の住民訴訟のように個人責任を問う制度はなく、国家賠償法上公務員個人の故意・重過失があるときですら、第一次的負担者として当該個人に求償権をもつはずの国・地方自治体がそれを行使することはほとんどない。結局のところ、無駄づかいを防ぐための制度も著しく不備である。

 加えて、政府部門は、行政庁であろうと、立法府であろうと、制度立案に関わるさまざまなレント・シーキング(利権追求)と無縁ではない20。司法行政を実質的に支配する最高裁事務総局についても、この事情は同様である。レント・シーキングは、長期雇用のキャリア官僚制を伴うとき、最も効率的に行うことが可能である。司法行政を含む行政については、現在のようなキャリア官僚制によってレントが効率的に追求された結果、組織構成員の一人当たり利益が増大してきた反面、国民は多大な損失を強いられてきた。

 政府に何らかの役割を担わせることが避けられないとしても、規制よりは経済的インセンティヴを優先すること、政府の関与の過程をすべて公開して衆人監視の下におくこと、政府の裁量を極小化し、客観的基準の運用者を越えた役割を与えないこと、不服申し立ての道を十分に開くことなどが、政府の失敗を極力少なくするために必須である。

(7)公正の実現のためには市場の機能を極大化したうえで別の手段を用意
 およそ公共政策の実現のための基本命題は、複数の目的を達成するためには目的と同じ数だけの手段が必要となるということである。二つ以上のトレード・オフの関係にある目的を、一つだけの手段で同時に達成することは不可能なのである。特に、市場の機能を高めるという資源配分上の目的と、何らかの価値判断によりたとえば低所得者を救済しなければならないという所得分配上の目的とは、ひとつの手段で同時に達成することは不可能である。これを理解しない多くの法律家は、結局トレード・オフに帰着する問題を前にして足して二で割るどちらにも恨みの残る中途半端な解決を提示・批判しあって四苦八苦する。借地借家法の正当事由の認定や、民法395条但し書きのいわゆる詐害的賃貸借の認定に関する膨大な判例・学説の多くは、瑣末な類型化や目先の両当事者のみの利益衡量に終始し、社会的費用の発生を助長はしても、潜在的当事者も含む社会の豊かさを助長するものではなかった。

 ある気の毒な主体を守るためと考えて、基準化されない価値判断の下で、その者が当事者である裁判において、その者に対して相手方よりも相対的により多くの権利を配分することは、権利の不明確性と取引費用を増大させる。結局は事後的な所得再分配のための貴重な財源をも失い、多くの社会的弱者をかえって生み出す。主観的には公正のためと考えて裁判官が正義感を発揮して判断しても、権利の配分の程度で調節するという多くの法律家に共通の思考様式に染まったその判断は、多くの場合無益有害な結果を招く。

 紛争当事者間の権利配分の調節によって弱者保護を図ることは、法律家の自己満足とは裏腹に正義の実現手法としては最悪の手段のひとつである。最善の公正実現手段は、権利の配分とは切り離して、きちんと捕捉された所得の下で、どの所得類型の者を、誰の負担で、どの程度救済すべきかについての明確な基準を民主主義的ルールの下で策定し、その基準に即して、生活保護、負の所得税などの一般的財政支出のみに特化して助成を行うことである21。次善の手段は、所得の捕捉を前提としたうえで、ある財・サービスの負担能力のないものに対して、負担能力と市場価格との差を埋める助成を行うことである。低所得者への法律扶助はこのような観点から正当化できる。困窮度に応じて受益するという再分配措置が徹底されるなら、弱者のふりをする利権収受者への個別助成は名目を欠くこととなる一方、これまで十分に保護されてこなかった真実の弱者を手厚く遇することができるのである。

 分配や公正の問題は価値判断であるため、学術的検証を経てそれ自体を決するのは困難である。しかし法と経済学は、少なくとも論理的につじつまが合わない公正観を指摘することができる。弱者を守るべきであるという公正観の持ち主が正当事由制度を支持することや、「基本的人権の擁護と社会正義の実現」を目指すことに同意する者が、低所得者や権利被侵害者の利益を増大させる法曹人口の大幅な増大を否定したり、弁護士という特権的職業の予備軍であるロースクールの学生の「資力が不十分」だとして、学生に対して直接行う場合ですら正当化が困難な、低所得者を含む納税者が負担する公金による助成を直接ロースクールに与えよと主張したりするが如きがその例である。
 いずれにせよ、いかなる公正観を前提としても、その公正観を十全に実現するためには、市場がもたらす果実を極大化し、豊かさをその極限まで高めることがすべての主体への分配可能性を確実に高める有効な目標であることは疑いない。

2. 法曹人口の増大
 既に論じたように、供給の抑制がもたらす利益は一部既存供給者の特権等の維持以外には想定できない。現在の法曹人口が、先進諸国と人口当たりで比べても、経済規模当たりで比べても過少であることについては多くの分析があるが、代表的な分析の一つは司法改革フォーラム第一次提言である。司法試験合格者を2011年までに12000人に増やしても、その時点で日本の法曹人口は、やっと先進国最低のフランス並みの9万人台に達するにすぎないというものである。

 そもそも司法試験という資格試験が実質的に競争試験化していることに加え、この試験が弁護士の業務独占の堅固な防波堤を築いていることが大きく市場の機能を歪めている。試験を極端に競争的にすることは、資格取得者を減少させ、法サービス供給者間での競争を結果として著しく抑制するため、情報の非対称を緩和するどころか、かえって強化する役割を果たす。これまでの司法試験では、資格試験が情報の非対称の弊害を緩和する手段であることを踏みにじる運用がなされてきた。このため、顧客獲得努力の一環として自らの情報をありのまま提示し、法サービス消費者の情報を豊かにするという法サービス供給者のインセンティヴが損なわれてきたのである。制度本来の目的・意義を忘れた異常な運用の一人歩きがこの結末を招いたといってもよい22。

 情報の非対称を補う根幹的手段は、供給者間にまともな、すなわち消費者利益を増大させることで自らの利益の極大化を図ろうとするような競争を持ち込むことである。このためには法曹人口の大幅な増大が不可欠である。これを否定する議論が詭弁又は無知に基づくことは既に論じた。過剰な訴訟を過剰な弁護士が誘発するというお決まりの煽動・脅迫文句は最高裁(1999)はじめ、法曹人口の増大に政治的に抵抗する勢力23に広くみられるが、「過剰」の定義はさておくとしても、紛争が誘発されることの因果関係の連鎖は、法や判例の予測可能性が小さい、すなわちそれらの不明確さ自体から出発するのであって、弁護士の「過剰」は構造的要因ではない24。何よりも、これまで泣き寝入りしていた法律弱者が「過剰」に訴訟を起こすようになるに違いないからおしなべてこれからも泣き寝入りを強いなければならない、というに等しい思考は病的である。彼らの救済を図ることこそが司法改革の原点ではなかったか25。

3. 日本型ロースクール構想
 ロースクールの意義は、法曹人口の増大に対応して法曹に対してロースクールの修了というブランドを付与し、消費者の情報を豊富にすることによって市場の失敗を緩和することにある。したがって、ロースクール修了者が司法試験で優遇されたり、法曹が関与する政府の規制・補助がロースクールに加えられたりするならば、競争の欠如によって教育の質は低下し、逆に市場はもっと失敗する。さらにこれらの措置は、需給調整の動機をもち、実際これまでも長年にわたりそれをなりふりかまわず実践してきた法曹に対しておおっぴらに法曹人口抑制の武器を与えることを意味し、消費者の利益をかえって損なう。 
 司法審の依頼で文部省に設置され、大学法律教師、法曹三者のみで構成される「法科大学院(仮称)構想に関する検討協力者会議」が、2000年9月20日いわゆる日本型ロースクール構想をまとめ、これを、同年11月20日司法審中間報告が追認した。それ以来、ロースクールの全国適正配置、公的資金による財政支援、認定ロースクール修了を司法試験受験資格にすることなどを内容とするこの構想に対して、司法改革フォーラム、その構成員をはじめ多くの主体から、米国の制度の利点を無視して名称と形式のみ真似た、司法の利用者の利益を考慮しないものであるという厳しい批判が加えられた26。
自民調査会は、司法改革フォーラムに対する二度にわたる公式ヒアリング等を経て、2001年4月13日、「中間提言(3)」を公表し、ロースクール非修了者も修了者と同一内容・条件の司法試験を受けさせること、ロースクールの設置・認定基準を最小限度の客観的なものにとどめること、ロースクールへの財政支援は奨学金を中心とすべきことなどを内容とする提言をまとめ、実質的に司法改革フォーラム、構成員等の提言を全面的に受け入れ、司法審中間報告の問題箇所の多くを覆すことを宣言した。この内容は自民調査会最終報告にも盛り込まれると見込まれる。さらに司法審の今後の報告や今後の司法政策にもこれが反映されると期待される。

4. 法解釈学の意味
 米国のロースクールにならうべき最大の利点の一つは、米国には大学学部段階の法解釈学教育が存在せず、およそ法曹は、ロースクール入学前に、経済学、文学、政治学、理学、工学などの社会・自然・人文科学の、少なくとも学部段階の高等教育を受けているということである。加えて、ロースクール入学前に、ソフトウェアのPh.D.や、バイオテクノロジーのPh.D.を取得し、その専門知識を生かして、弁護士やロースクール教員として活躍する人材もいる27。今後は学部段階で法解釈学を学んだ者がさらにロースクールで法学一辺倒教育を受けることを助長することなく、法曹の教養の幅と奥行きを広げることが課題である28。

 実定法解釈学とは、帰するところ社会的紛争を解決するための技術・方便であって、その習得が人間としての資質を固有に高める学問であるなどという一部にある認識は、実定法関係者の身びいきというほかない。米国では一般的に、学部教育において「法と経済学」、「法と社会」、「アメリカ憲法と政治」といった、政治学、経済学、社会学などの一環としての法関連科目の授業はあるが、法解釈学の授業は一切ない。法曹にならない人々が、技術としての法解釈学を「教養」として身につけておくことは、社会のニーズにも合致せず、資質の陶冶の面からもありえないことと米国社会ではみなされている。ロースクールという専門大学院の隆盛にしたがって、従来の法学部が自然に消滅したのは当然のことであった。日本が適切にロースクールの制度設計をするなら同様の事態が予測できることからも、専門家以外にとって固有の意義を見出しがたい学部法学教育の存続に対して、規制や補助という歪んだバイアスを与え続けることは、日本でも厳に慎まなければならない。

 さらにいえば、「高度」の法解釈学は、社会の必然ではない。不明確な法が温存され、法の明白性が乏しいことが、無用の紛争を誘発し、権利の取引費用を著しく高めるとともに、本来は不要な一種の知的遊戯としての「高度」の法解釈学を成立させている人為的要因である。法の明白性の欠如は、法曹や法解釈学研究者の権威を高め、その需要を人為的に増やして彼らに利益を与えはするが、市民の利益は損なう29。本来追求すべきは、立法による法の明確化である。「高度」の法解釈の成立など許さないよう、法の意図を明確に実定法に書き切るようにする試みをすべての分野について行うなら、アクロバティックな読解能力は不要となる。法解釈や法解釈学という、いわば社会の創造というよりは紛争の後始末のための業務・学問に、有能な人的資源を投入する必要はなくなり、壮大な社会的浪費を避けることができるのである。

 本来読みようがない不自然で素人を欺く解釈30をひねり出すことを「リーガル・マインド」などと名付け、権威の衣を着せて初学者や第三者に対してありがたがるよう強要することは、知性・品性を備えた職業集団の取る態度ではない。立法によってではなく、解釈で現状に追随して規範をねじ曲げ、長期にしのぎつづけることは、法の潜脱に等しい。予め完全な立法をする必要などないが、争点が顕在化し、読み方の判然としない法が発見されるごとに、政策的により望ましい解釈を容易に導き出せるように法を改編しつづけるという不断の作業を、立法府がその責任として行うべきなのである31。政策判断は、裁判所や法解釈学研究者の役割ではない。

5. 裁判官キャリア制の廃止
 裁判官と裁判所の最大の改革課題は、先進諸国に類例のない特異なキャリア制を廃止して日本の裁判官任用ルートを多様化し、裁判官の大幅増大とそのバックグラウンドの多様性をもたらすことである32。併せて、最高裁事務総局の密室裁判官人事による裁判官コントロールの権限を剥奪し、下級審の判決の多様性を確保すること33と、下級審裁判官の政治信条も含めた一切の立法に対する見解の表明を自由化・奨励することである34。下級審裁判官の任期10年制(憲法80条)が形骸化し、外部の人材が登用されない一方で、どのような不適格者も事実上終身雇用されているのも裁判官を国民から遊離させている。米国では、裁判官の平均的着任年齢は、連邦・州裁判官ともに40歳台後半以降で、年功序列の昇給はなく、前歴も弁護士のみならず多彩であるが、日本でも社会人として確かな評価を経た外部の人材を、弁護士に限らず任期10年、均一報酬体系、転勤なしで登用するのを原則とし、受験勉強しか知らない未熟な青年を司法研修所で青田刈りして囲い込む現在のキャリア制は廃止すべきだ。

 最高裁改革も重要である35。最高裁の司法官僚が、順送りの指定席として最高裁裁判官ポストを私物化し、検察官僚や日弁連の派閥の領袖も分け前にあずかるという現在の運用は、憲法79条を踏みにじるものであると同時に、そのポストを目指して官僚制の昇進・昇格の階段を駆け上がることに汲々とする裁判官の言動を生み出し、政治的に小心・臆病な法的判断を助長して、違憲立法審査権という最高裁の最も重大な職責を行使することを極度に抑制してきている。内閣に設けた任命諮問委員会での公開の実質的審議などを経て、国民的信頼に耐える外部からの人材を、内閣の政治責任の下で最高裁長官を中心として大幅に登用すべきである。

 和解勧告の蔓延も取引費用を増大させ、正義の実現を阻んでいる。裁判官は、自ら予定する厳正な判決内容の先取り以外の和解を勧めてはならず、和解を拒否する当事者に対しては直ちに判決を書くべきことは、あまりにも当然の職業倫理である36。公然と、判決だと解決が遅れるから妥協して和解に応じよ、と要求する巷でみられる裁判官の指揮は、正当な権利の実現を妨げる脅迫そのものであって、法の番人としての資質を欠く振る舞いである。また裁判官は、裁判が遅れる原因を明らかにし、原因が当事者・代理人の側に存するのであれば、厳しくそれを指摘すべきである。弁護士の不手際や準備不足を大目にみて、裁判所が時間をかけて審理するのは、相手方当事者を害するのに加え、納税者の利益を侵害し、弁護士の資質向上をも妨げる措置であって、許されることではない。

6. 法務省改革
 法務省は、内閣の中で司法政策や各種の基本的な法を立案する権限と責任を本来負っているはずであるが、実際にはその遂行能力は低く、国民的利益の擁護に対する責任感も希薄である。中立的立場から司法政策の調整を担うべき法務省が、検察庁と一体となり、訴訟現場の主体にすぎない裁判所・日弁連と同格であるかのごとく、法曹三者の一員とみなされていること自体異常である。これは、法務省が事実上刑事訴訟法上の一当事者にすぎない検察庁の人事支配を受け、司法政策の立案・調整機能と捜査・刑事訴訟手続の現場である検察の機能とが分離していないことに大きく起因している。法務省官僚機構の事実上トップであるはずの法務事務次官や、官房長、刑事局長をはじめ、枢要幹部ポストのほとんどを検察官出身者が占め、検察庁組織の最上位ポストにすぎない検事総長には法務事務次官経験者が就く。捜査機関の長より年次・格において劣位の者が、大臣を補佐する官僚機構の最高責任者であるような組織に、検察庁の利害と独立の司法政策を担えるはずがない。加えて民事畑では、提起された事件の判決を書くという受身の業務にしか通じず、立法政策の方法論を身につけない裁判官出身者が、最高裁事務総局の人事支配の下で民事局長、司法法制部長をはじめ、やはり枢要ポストに就き、検察官以上に無邪気・独善的で社会感覚とずれた判断によって政策形成を歪めてきた37。

 さらに法務省は、基本法の立案については法解釈学研究者、法曹関係者を中心とする法制審議会の審議を必須とし、社会のニーズと乖離することも多い改正案を、時間を費用とみなす感覚の乏しい構成員に長期間かけてまとめさせることを慣例としてきた。政策には不向きなことが多い法解釈の専門家を中心とする組織に対して、時代の流れを的確に捉え、かつ国民ニーズ全体を見据えた大胆かつ公正な政策的決断を期待すること自体滑稽というべきである。近年、会社法、借地借家法、民事執行法の各改正など、与党中心の議員立法が増大しているのもこの事情が大きく影響している。

 今後の法務省幹部職員の任用では、検察・最高裁支配を断ち切り、政策的思考ができ、国民の利益、立法府の意思を体現できる人材を、レント・シーキングの動機を小さくする短期任命により確保することを原則とすべきである。このような人材は法解釈の専門家である必然性はない。これまでの法解釈専門家の思考様式や言動に照らせば、むしろ彼らは、現行の法解釈を整理し、立法の多義的解釈の可能性をチェックするという技術的事項を中心として関わらせるにとどめ、政策の当否の検討や総合調整を担う幹部には主として経済学に通じた者を充てるべきである。

7. 起訴便宜主義の見直し
 現行刑事訴訟法では、検察庁に対して起訴するか否かに関して広範な裁量を与える起訴便宜主義が採用されている。しかし第一に、起訴便宜主義では不透明な裁量権限が恣意的に運用されかねず、公正を欠くのみならず、起訴・不起訴の当否を実証的・効果的に監視する手段がない。検察審査会ではたまたま申し立てのあった事件を、十分な調査権もないまま処理するのみであり、また結論には拘束力がなく実効性にも乏しい。結果的に国民は犯罪被害者といえども、一行政庁にすぎない検察官僚の判断を全面的に信頼して起訴の判断を委ねざるをえないという不合理を強制されている。第二に、刑罰は犯罪の程度に応じて確実に執行されることにより初めて効果的に犯罪抑止力を発揮する。起訴されるか否かが、有罪か否かを実質的に決定する現行制度の下では、重罪を見逃し、微罪を取り締まる運用も容易であり、犯罪抑止力が十分発揮されないという弊害が生じている。 

 起訴便宜主義を改め、客観的な基準を前提とした起訴強制主義を導入すべきである。起訴便宜主義の根拠として、重罪の場合、起訴されて有罪と認定されると必ず実刑となり、公務員などではその身分を失ってしまうことが挙げられる。しかし、これをもし酷と考えるならば、執行猶予制度や資格喪失の制度を改めればよく、起訴便宜主義をそのような理由で擁護するのは筋違いである。しかも起訴便宜主義は、起訴事件の「精選主義」を生み、裁判官に有罪の推定とでもいうべき予見を与えやすい。検察が起訴している以上よほどのことがない限り無罪判決は出せないという心理的強制が働く。
特に殺人などの重罪、賄賂・公務員の横領、特別背任・インサイダートレーディングなどの一定の経済犯罪などについては、有罪の心証を得た以上起訴を義務付ける制度を段階的に導入すべきである。政治家を含む公務員が関わる犯罪や経済犯罪は、ともかくも法廷に事案を持ち出さないと闇から闇に葬り去られる可能性が強い。

8. 弁護士規制の改革
 弁護士規制のうち、参入規制と並ぶ最大の問題点は、弁護士法72条の業務独占である38。情報の非対称の軽減策という正当化根拠すら存在しない現行規制には理由がない。もっとも法廷事務については、あまり資質のよくない弁護士が不手際をすると、訴訟遅延につながり、取引費用を高めて相手方や納税者を害するため業務独占が必要であるという理屈がありうる。これは法廷外法律事務についてとは異なり、一見成り立つようにみえるかもしれない。しかし、安念(2001)168頁がいみじくも指摘するとおり、このような弁護士を選定した依頼人に結局そのつけが跳ね返ってくる39以上、やはり依頼者、すなわち消費者との間に存在する情報の非対称だけを考察すればたりる。いずれにせよ、少なくとも法廷外法律事務に関する限り、過剰でギルド的利益の伸張以外に意義の見出せないこのような規制を存続させる理由は見当たらない。法廷外法律事務については直ちに業務独占を廃止して名称独占にとどめ、将来的には業務独占は、法廷事務についても一切廃止すべきである。

 なお、「基本的人権の擁護と社会正義の実現」は市場原理を強調することによって達成される価値ではないから、職業身分特権集団としての弁護士集団の性格を市場原理や国民主権の旗印で弱めるべきではないとする主張がある40。その根拠は、弁護士集団が「夫婦別姓や外国人処遇、少年法改正や死刑の存廃、さらには有事法制から憲法改正」などに関する「世論調査によって表明されるような民意」に「場合によっては対抗的」な意見表明を行うことを困難にすべきではないということである41。しかしこの主張は市場機構の誤解に基づいているうえに、市場がもたらす果実、確立された市場の失敗の是正措置や政府の失敗の弊害を考慮していない点で不適切である。既に論じたところであるが、多くの論者の思い込みとは逆に、市場機構や市場の機能を高めるための政府の関与はより恵まれない社会階層に福音をもたらすのである。また市場機構は国家権力に市民が対峙するための最も有力な手段の一つであって、本来反権力的側面を強くもつ42ため、上記の主張で守るべきことが前提とされている夫婦別姓等に関する価値の社会経済的効果を明らかにし、これらの価値の浸透をむしろ促進する方向にも機能しうることをここでは指摘しておきたい。

 付言すれば、これらの価値が憲法的価値たる基本的人権を踏まえたものであるならば、それらは規制等でバイアスをかけて増幅させられた職業身分特権集団の意見表明の助けを借りる多数決や政治的圧力などによることなく、当然憲法によって直接に擁護されなければならない価値というべきであろう。そこにこそ司法による違憲立法審査権の意義がある。もし違憲立法審査権の機能不全状態があるのであれば、それ自体の原因を究明して対策するのが本筋である。これに対してそれらが基本的人権を踏まえたものでないならば、公権力の介在によって特定の職業集団を庇護し、その力によって特定の価値を正当化し、別の価値を切り捨てるような帰結は、およそ正当化される価値がどのような価値であっても憲法原理の予定するところではない43。さらに、価値の取捨選択が一般に反証不可能な主観的命題に基づく以上、公権力の介在で他の価値を犠牲にするならばその社会的費用に関する考察は必須である。なお、仮に特定の価値を今の弁護士集団が支持しているとしても、それが将来にわたり継続する保証はないのに加えて、弁護士集団の支持する価値にはアプリオリに一定の観点からみて擁護に値しないものが一切含まれないという必然性もない。


(謝辞)
 安念潤司、岸敬也、久米良昭、下村郁夫、玉井克哉、三宅伸吾、八代尚宏の各氏から草稿にいただいた多くの有益な教示に心より感謝申し上げる。


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1 鈴木(2001)が明確に描き出す長い司法改革の不毛の歴史を紐解くと、その構造的要因は意外に単純である。
2 このような問題意識を最初に体系的かつ精緻に論じたのが鈴木(1995)である。宮澤(1998)4〜6頁は、規制緩和と法の支配の両立を説き、宮澤(2000)36〜38頁は、年間3000人の法曹供給は最低限の目標であり、その達成後の「計画」は不要である旨明言する。規制改革の包括的分析として川本(1998)が有益である。
3 鈴木良男(会長)、森稔(副会長)、阿部泰隆、阿部泰久、安念潤司、岡田ヒロミ、神田秀樹、久米良昭、小嶌典明、原早苗、福井秀夫、福島隆司、宮内義彦、八代尚宏を構成員とする(2001年4月18日現在)。本稿執筆に当たっても、構成員の活発な議論・教示等から多大な示唆を得た。
4 「司法改革の前提―法曹人口の大幅増大とロースクールの自由設立をー(第一次提言)」(2000.4.21)、「民間競売を新設し、執行官制度を厳正化せよー立法府主導の司法改革をー(第二次提言)」(2000.5.10)、「利用者本位の司法改革(自民党司法制度調査会報告(2000.5.18)を踏まえてー)」(2000.5.24)、「IT革命に対応する立法、司法基盤の充実を(第三次提言)」(2000.8.11)、「「身近な司法」実現に向け、司法試験でロースクールを一切優遇するな−立法府は、文部報告ロースクール構想の愚挙にブレーキを−(第四次提言)」(2000.10.20)、「ロースクール設立にあたり、最低限担保すべき措置(第五次提言)」(2001.2.22)及び「自由民主党司法制度調査会「中間提言(3)」(2001年4月13日付け)について(第六次提言)」(2001.4.18)。
5 司法改革の法と経済学による分析には福井(2000a)、安念(2001)などがある。
6 諸外国と比較した日本の司法の具体的問題点については、三宅(2001)参照。
7 経済学は「経済効率」至上主義であって市場外の価値を切り捨てるものだ、という類の無知・独善に基づく批判を招きやすいのは、efficiency という言葉に「効率性」を充てた訳語と関係していると思われる。
8 マンキュー(2000)は、これまでの類書になく明晰・平易で、かつ法や制度の社会経済への影響の事例を盛り込む、優れたミクロ経済学テキストである。米国の大学では,本書の原書が入門ミクロ用テキストとして決定版になりつつある。政府の法や政策の数々に経済学を鮮やかに応用する刺激的なケースブックとしては,ミラー=ベンジャミン=ノース(1995)がきわめて有益である。ランズバーグ(1995)、ランズバーグ(1998)は,効率と公正の問題を事例に即してつきつめて考察する法と経済学の必読文献である。クーター=ユーレン(1997)は、法と経済学の基礎理論を米国判例等に即して解説する好著である。
9 棚瀬(2000)5頁は、弁護士の市場原理への懐疑には競争を嫌う弁護士の私益的な側面もある旨指摘する。
10 ここでの市場の失敗にはインフレ、価値財及び所得分配の不公正も含める。
11 これらの証明に複雑な数学手法は一切不要である。消費者余剰と生産者余剰の概念をグラフ化した図形のみによって、中学卒業程度の論理的操作能力で容易に理解可能である。
12 この点に最も根源的な司法の存在理由がある。川本(2001)89〜91頁が述べるとおり、「正義ある社会にこそ活力ある経済は育つ」のである。
13 久米=福井(1999)、福井=久米(1999)では、短期賃貸借保護、民事執行を例にとってコースの定理に基づく政策を論じた。福井(2001c)では、行政法・行政処分に基づく権利の設定や、それらに関する裁量権の統制、民事法との関係、立法政策の課題などを、コースの定理に基づき論じた。
14 久米=福井(1999)251~252頁。
15 福井(2001c)。
16 福井(1995)、福井(1998a)、福井=久米=阿部(2000)。
17 福井=久米(1999)、久米=福井(1999)。
18 福井(1996a)は、違法建築、道路・河川の不法占用を例に、現行規制・行政代執行制度の機能不全と課徴金制度導入の可能性を分析した。
19 福井(2001a)。
20 福井(1997)70〜76頁。
21 八田(1988)、八田(1994)が、所得税の合理性と消費税の問題点を明解かつ精緻に論証している。これらは公正とは何かを理解するうえで必須の文献である。何らかの基準に基づく再分配の必要があるという立場に立つのであれば、再分配の基準としての所得及び資産の完全な捕捉が前提になる。消費税の導入が所得の捕捉が困難であることを前提にしている以上、再分配の必要性を承認する者がこれを支持するのは矛盾であることは、福井(1996b)で論じた。所得の捕捉のない再分配は刑法のない刑罰と同じである。再分配をするのであれば、その程度はともかくとしても累進の所得税と、正確に捕捉された所得を踏まえた再分配とによることが、手続の効率からみても公正からみても最善の手段である。
22 安念(2001)182〜188頁、福井(2000a)217〜223頁。
23 「基本的人権の擁護と社会正義の実現」の最終的責任者であるはずの最高裁が、市場理解の無知と独善に基づきかえって弱者を切り捨てる競争否定論を開陳していることは、福井(2001a)120〜121頁で指摘した。
24 日本での医師数の過剰が国民医療費の増大を招いたとして、弁護士過剰の過ちを繰り返すべきでないという議論がみられるが、医療費増大の構造的要因は医師数そのものではなく、医療費抑制のインセンティブが働かない医療保険制度にある。医療保険制度さえ適切であれば、医師数の増大は競争の促進によりレントの解消をもたらす。日本の人口当たり医師数は、歴史的に医師団体が極端な供給制限をし、多額のレントを享受してきた米国のそれよりも少ない。
25 理由のない訴訟をたきつけて回る弁護士は、米国がそうであるように市場で淘汰され、また弁護過誤訴訟や懲戒制度により直接責任を問われる。市場や弁護過誤訴訟はうまく機能しないというなら、その原因を取り除くのが筋であって、だから弁護士を増やすなというのは身勝手で的外れな主張である。
26 司法改革フォーラム第四次提言、安念(2000)、福井(2000b)、森(2000)、鈴木(2001)、安念(2001)、福井(2001a)、八代(2001)、久米=福井=安念=三宅(2001a、b、c)など。
27 http://www.law.inuc.edu/faculty/asp/DirevtoryResult.htm http://www.foleylardner.com/AFL/BIOS/WASH/Burrous.html
28 高田(2000)は、ドイツの法曹養成制度の行き詰まり、試行錯誤の現状を描き出し興味深い。特に、1996年前半に法曹資格者に対する企業の求人が経済学部出身者に対する求人の十分の一であった(同127頁)という事実は、長期の法学教育のみを受けた法曹に対する社会一般のニーズを象徴している。法曹の規模を着実に増やし、その点では優等生であったドイツが、一方で米国と異なり、法曹に幅広い教養を身につけさせることを怠ったことの問題点を伺わせる。
29 法曹・法解釈学研究者に立法させるのは、泥棒に金庫を造らせるのと同じ側面があることを否定できない。
30 民法177条の背信的悪意者や利息制限法1条2項の任意弁済金返還請求権、行政事件訴訟法9条の原告適格・処分性・取消の利益などの最高裁解釈を条文から想像できる一般市民がいるだろうか。その解釈を採ることが立法的にも正当と判断するなら立法府は直ちに判例に沿って改正すべきであるし、そのような読み方が政策的に妥当でないと判断するなら、改めてそのような解釈が決してできないような明文を追加すべきである。
31 福井(1998b)12〜13頁、福井(1998c)。
32 福井(2001b)199〜212頁で詳述した。
33 福井(2001b)208頁。佐藤(2000)は、日本の司法の特徴とされる統一性・等質性が、自然な生成物というよりは裁判所自身の司法観とそれを実現しようとする活動によって意図的に創造されたものであり、「創られた伝統」にほかならないと位置付けたうえで、ドイツとの対比で日本の司法判断の多様性・非統一性を目指す論拠を明確に提示する論稿であり、示唆に富む。
34 福井(2001b)221〜227頁。高田(2000)144頁は、裁判官増大が、政治信条等による差別を不可能にするとともに、裁判官の多様性を増大させる旨指摘する。
35 福井(2001b)214〜216頁。
36 福井(2001b)219〜221頁。
37 借地借家法、民事執行、司法改革ほか、その例は既に挙げた文献にも枚挙にいとまがないが、最もグロテスクな裁判官出身法務官僚の権限逸脱の事例は、久米(1997)、八田=福井=山崎=久米(1997)、久米(1998)に詳述されている。
38 弁護士規制については、三宅(1995)が体系的に論じ、改革の方向性を明示した。宮澤(1998)16〜25頁は、兼業規制緩和、法人化、広告規制緩和を提唱した。広告制限、外国弁護士、報酬規定、兼業・法人化規制、業務独占などの法と経済学的意義については、福井(2000a)224〜233頁で論じた。
39 もし跳ね返りを阻止する要因があるのであれば、それを除去すべきである。
40 樋口(2000)50〜54頁。同54頁は、「ここ20年ほど、「市場原理」、それも、規制排除と結びついた競争の観念―・・・当面の競争の結果としての独占=無競争状態をもたらすような競争という観念―が、憲法上の正統性を弁証の必要とされることのないまま、受け入れられて」きたと断じるが、その認識の根拠は文献も含めて一切示されない。ここに示されるような荒唐無稽な「観念」を経済学に通じた者が主張し、または政府や世論がそれを「受け入れた」という例は寡聞にして知らない。
41 樋口(2000)52頁。
42 たとえばマンキュー(2000)546〜555頁は、差別解消に果たす市場の力を示す。
43 憲法原理の認識については、法学部在籍中の憲法第一部・第二部講義、憲法演習に加え、卒業後も折に触れ指導いただいた故芦部信喜氏の見解のほか、安念潤司、玉井克哉の各氏からいただいた詳細・的確な教示に多くを負っている。むろん本文の見解は筆者個人のものである。