弁護士費用敗訴者負担
阿部泰隆
神戸大学大学院教授
初出出典:自治研究78巻1号一六頁以下
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(ア) 中間報告と筆者の反対
司法制度改革審議会は中間報告で、弁護士費用の敗訴者負担の方針を示した。今日、判例上、不法行為訴訟で敗訴した被告にだけ原告の弁護士費用を負担させるいわゆる片面的な敗訴者負担制度がとられているが、この答申は、原告被告を問わず敗訴した者に相手方の弁護士費用を負担させようとするものである。これについては、筆者は先に「行政訴訟における裁判を受ける権利」(ジュリスト一一九二号一四一頁以下、二〇〇一年)で、少なくとも行政訴訟に関する限り、裁判を受ける権利を侵害するとして反対の意見を述べたが、そのほか多数の反対もあって(59)、その後、二〇〇一年六月に公表された司法制度改革審議会の最終報告は、弁護士費用敗訴者負担の原則を導入するとしてはいるものの、かなりトーンダウンし、文章の手直しを図っている。しかし、これは依然として行政訴訟の特殊性を理解していないのではないかと思われる。ここで、こんな議論がでてくる背景には行政法軽視の思想があるという筆者の分析の観点から、この私見を補充したい。
(イ) 審議会の議論
(a) この答申の修正をめぐる議論の様子は、第五四回司法制度改革審議会(二〇〇一年四月六日)にみることができる。
敗訴者負担積極派は次のように言う。
「弁護士費用は、訴訟の必要経費というべきだから、適切な範囲については、訴訟費用に含め、民訴法六一条の敗訴者負担原則を適用することが合理的。各自負担では、原告勝訴の場合には権利の切り詰めになり、被告勝訴の場合には、根拠のない訴えを提起されて損失のみ残るという不合理が生ずる。」
「各自負担では、権利の完全な実現が望めないことから、十分勝ち目のある訴訟でも、弁護士費用を相手方から回収できないために、訴訟提起を断念する例も多いと聞く。敗訴者負担で予想される問題点については、予め類型的に除外したり、裁判所の裁量の余地を残したりする等により対処すべき。」
「弁護士費用は、裁判にかかる費用の多くを占める。審議会の民事訴訟利用者調査でも、費用と時間が訴訟提起を躊躇する主要な理由とされている。利用者の費用負担軽減の観点から、一部を敗訴者に負担させるべき。」
「弁護士費用は、結局誰かが負担せざるを得ないので、誰に負担させることが最も適当かという問題。裁判の当否は別問題として、敗訴者負担は合理的。」
「裁判に勝てば、弁護士費用は相手方から回収できるというのが、一般常識に適うのではないか。原則を貫いた場合に酷となる場合もあるので、合理的な説明のつく類型については除外したり、適正な負担額はどの程度か議論すべき。
」
「訴訟では、双方に理がある場合もある。弁護士費用のうち適当な部分のみ敗訴者負担としておき、不都合があれば修正できるようにすればよい。訴訟提起を抑制することを目的に、狙い撃ちにしようという意図で、本件を論じていた委員はいないはずである。」
「訴訟制度には客観性が必要であり、個人は弱者、企業は強者などと安易に決め付けてはならない。弱者への配慮は、本来別の方法で対応すべき問題。」
「知的財産が侵害された場合に、中小企業では、弁護士費用の重さから泣き寝入りしてしまうことがある。」
(b) これに対して、反対派の意見では、
「我が国では、当事者同士が対等な関係にない事件などで、証拠収集手続が不十分なため、勝訴の見込みの立たない事件が多い。敗訴者負担の導入により、訴訟提起が抑制されるおそれがある。裁判所へのアクセス拡充の視点から、中間報告の記述を全面的に見直すべき。」
「訴訟促進という見地から、訴訟費用保険の普及や証拠開示などの制度整備がどうなるか見極めた上で、これらとセットで検討すべき問題。」
「平成九年の民訴費用制度等研究会では、「将来的には弁護士費用の一部の敗訴者負担制度を導入することが望ましいとする意見が、学者委員を中心に多数を占めた」ものの、法律扶助、弁護士業務態勢、弁護士人口増加など他の制度との関連や、国民の一般的な意識の調査・検討作業も不可欠なため、「現時点で直ちに実現に向けての立法作業に着手すべきであるとの意見は少数」であり、「将来の重要課題として今後も検討を進めるべきである」とされた。現段階で、導入を決めるのでなく、そこで挙げられた要件が整っているか吟味すべき。」
さらに、賛成派からは、中間報告に対する反対が予想外に多いことから次のような発言があった。
「中間報告の段階では、裁判は勝つためにやるのだから、敗訴者負担は筋が通っており、弊害は例外措置で対応すればよいと考えていたが、中間報告公表後、予想外に数多くの反対意見が寄せられた。いわゆる市民の事件を多く扱う弁護士は、ほぼ全員が反対と聞く。利用しやすい司法という見地からの検討という中間報告の本来の趣旨が伝わっていないと思われる。敗訴者負担が「基本」で各自負担が「例外」という表現が誤解を招いているのではないか。」
「当事者の負担が予測可能なものであることが重要。敗訴者負担から除外されるケースも予め明確にしておくべき。」
「弁護士費用の敗訴者負担(訴訟費用化)については、中間報告においても、裁判所へのアクセス拡充策の一環として位置付けられており、指摘される懸念に十分配慮しつつ制度設計するということとされていた。しかしながら、中間報告の表現がやや誤解され、意図しない受け止め方をされた面もある。このため、中間報告の趣旨は基本的に維持しつつ、最終意見の表現振りを更に工夫するという点については、大方の認識は一致しているのではないか。」
(ウ) 阿部のコメント
(a) 賛成派の方が多数であるが、これは訴訟の実態を知らず、観念的にしか考えていないのではないかという疑念を禁じえない。たしかに、勝った場合も自分の弁護士費用を回収できないのではその分損することとなる。このことはいわゆる「権利目減り論」の説くとおりであるが、それが本当に訴訟提起の抑制になっているのだろうか。勝訴の見込みが初めから高い事件なら、目減りしようと、訴訟を提起した方が得だから、勝ったときに、弁護士費用分損したという気持ちになる程度で、訴訟の提起自体は抑制されないだろう。
しかし、普通の事件は、訴え提起時に勝敗が明確なものは少ない。両当事者とも、正しいと信じているだけで、しかし、不安を感じているので、印紙代と弁護士の着手金さえ、捨て金になるのではないかと、訴訟を抑制する方向へ働いている。負けた場合に相手の分まで負担しなければならないとなれば、いわば往復ビンタを受けるので、その分を初めから工面しないとそもそも出訴できなくなる。弁護士の事件の受任のさいにその説明をすれば、訴訟を控える者が激増すると考えるのが常識だろう。
(b) これは民事訴訟一般にも言えるが、行政訴訟、国家賠償訴訟、医療過誤訴訟、消費者訴訟、公害訴訟など、もともと原告勝訴率の低い訴訟に弁護士費用敗訴者負担の原則が導入されると、訴え提起はほぼ完全に抑制され、司法へのアクセスの拡充を目指した司法改革の理念に完全に背馳する。
これを算数で説明すると、弁護士費用としていくらに設定されるかが問題にはなるが、かりに現在の不法行為訴訟のように一〇%と仮定しても、原告が全面敗訴した場合には請求額の一〇%を負担しなければならない。もし原告勝訴率が一〇%であれば、多数の事件を起こせば平均すれば損得なしであるが、普通の行政訴訟を例とすると、最終的な原告勝訴率はおそらく一〇%未満だと思われるので、これだけで訴訟は統計的に割に合わなくなる。そのうえ、もともと、本稿(五)で述べた印紙代などの訴訟費用の負担や着手金などがかかるので、行政訴訟は平均すれば完全に大赤字になる。
(c) まして、普通に考えると敗訴するリスクが高いが、それでも問題を提起し、新しい判例や法政策を作ろうという問題提起型訴訟が激減するには明らかである。こうしたいわゆる政策訴訟は、訴訟制度としてはムダとも言える面もあるが、しかし、敗訴の可能性が高くてもあえて提訴して証拠を収集し新理論を構築して、一部の事件でようやく勝訴を勝ち取り、あるいは、勝訴しなくても問題の所在を明らかにして、法の改正や政策の変更を実現して社会に貢献している。訴訟を提起しない者はいわばこれらの訴訟にフリーライド(ただ乗り)しているのである。公害訴訟、社会保障訴訟、消費者訴訟などはまさに死者累々の上に勝利をもたらしている典型例である。原発訴訟はすべて原告敗訴であるが、この訴訟があるからこそ、原発の安全性について当局も電力会社もそれなりに配慮するようになっているのであって、この訴訟がなければ、安全性確保の努力が今よりも怠られることは明らかである。二〇〇一年四月から施行された金融商品販売法により導入された説明義務も、値上がり確実といった金融商品販売業者に騙された被害者と弁護団の戦いと挑戦の成果である。二〇〇〇年四月から施行された住宅の品質確保法も、欠陥住宅に泣いた被害者の運動と訴訟の成果である。したがって、これを実質禁止的に抑制することは法と社会の進歩を妨げる点で好ましくない。
(d) 敗訴者負担の原則の提唱者は、勝つべき者は勝つはずで、敗訴者は無理な訴訟を提起したり無理に抗争しているという理解を前提にしているように見えるが、現実の訴訟では、勝訴の可能性が初めから高ければ、そもそも事件にならない(被告が和解に応ずる)ことが多く、訴訟で争うのは、両方の勝敗の予測が一致しないことが多い。しかも、敗訴するのも、けっして不当な抗争をしたのではなく、訴訟制度が不対等なためである面が多い。したがって、日本の実情では、一般的にはまだまだ訴訟が濫用されているとは言えず、むしろ、訴訟へのアクセスを拡大することが先決である。
たとえば、医療過誤事案では、医師はカルテにもミミズが這ったような字で断片的に記載するのが普通であり、患者や遺族にその治療経過とありうる選択肢の中での合理的な判断だったことをわかりやすく説明することもまだ多くはない。しかも、財力にも恵まれており、専門知識を独占し、これまで職業的に類似のケースを扱っているので、訴訟への対応は容易である。訴訟になりそうだとなれば、医師は病院内で箝口令を敷き、財力に任せて弁護士と医師を動員する。患者側は、医療過誤で悲嘆に暮れ、乏しい財力の中で、弁護士に委任しても、弁護士はまずは、ほとんど意味不明のカルテの解読から始めなければならない。診断と治療が合理的だったかどうかに疑問を持っても、医師仲間では同業者の不利なことは言わないというギルド社会の仁義のため、協力してくれる医師は限られ、まして中立で有能な第三者の医師の証言を取るのも困難である。有力な医師は医師側に立って証言する傾向にある。そうすると、裁判所はこれを信じやすい。現行法は、こうした証拠と資力の偏在を放置して、患者に立証責任を負担させているのであるから、裁判はおよそ平等でも公平でもなく、負けたから、無茶な訴えを起こしたことにもならないのである。むしろ、これまで、敗訴覚悟で提起された医療過誤訴訟のおかげて、医療の実態がある程度明らかにされ、裁判所も医療過誤訴訟の改善を図ろうとしているのであって、弁護士費用敗訴者負担の原則を導入して、こうした社会の発展の芽を摘むのはきわめて不適切である。
消費者訴訟でも、加害者企業は同様に財力と情報に恵まれているのに、被害者である消費者の力は弱く、弁護士にとっても割に合わないうえ、立証責任が消費者にある。製造業者の責任を強化したとされる製造物責任法のもとでも、過失が欠陥に置き換わっただけで、欠陥と、製造物の欠陥と被害との因果関係、損害の立証が必要である。したがって、被害者が製造業者である企業に太刀打ちするのは絶対的に不利である。たとえば、欠陥住宅の被害者が住宅の地盤や鉄筋、梁などの安全性の欠如を証明するのは容易なことではない。独禁法違反を理由とする消費者の損害賠償請求訴訟も、違反行為の証明や損害額の証明でとん挫するのが普通である(最判一九八九・一二・八民集四三巻一一号一二五九頁判時一三四〇号三頁)(60)が、これはこの訴訟構造が被害者に不利になっているためであって、訴えを起こすのが無茶とは必ずしも言えない。
公害でも、同様の事情で、弁護士が長年苦労して、一部の事件で勝訴するだけで、本来救済されるべき多数の案件が水面下で眠っていることは明らかである。
国家賠償訴訟、行政訴訟でも、証拠は行政側が握っているのが普通であり、専門知識も独占し、行政側は敗訴しても親方日の丸で最高裁まで争う(和解勧告があっても、行政の責任を棚上げにしないと応じないのは最近のヤコブ病和解、ハンセン病和解の動きにも見られる)。国は(優秀な?)訟務検事を多数雇用して類似の事件に習熟しているのに、弁護側は滅多に起きない事件を受任しているので不利である。したがって、国家賠償訴訟・行政訴訟は、ネズミがライオンに挑むようなもので、原告側はほとんど勝てず、やるだけムダといわれるのは制度上当然のことである。
さらに、抗告訴訟では、出訴期間、不服審査前置、管轄、被告適格、原告適格、処分性、訴えの利益、訴訟形式の判定その他の訴訟要件による障害物がある。被告の方が抗告訴訟を却下するのはきわめて簡単である(61)。国家は本来は、救済ルール明確性の原則を樹立して、こうした障害物を除去するべき任務を負うはずあるのに、そうしないで、原告を障害物に躓かせ、あまつさえ、国家が被告として訴訟費用ばかりでなく弁護士費用を請求できるというのはきわめて不合理である(私見では、こんな場合には印紙代を取るのもきわめて不合理だと思う。本稿(五)参照)。まして、出訴したときはそれなりに理由のある訴えであったのに、係争中に、被告が、現状を変更して訴えの利益なしに持ち込んだ場合、たとえば、家永教科書訴訟であったように、係争中に学習指導要領を改訂して、今さら検定不合格処分を取り消しても判断する基準がなくなる(最判一九八二・四・八民集三六巻四号五九四頁判時一〇四〇号三頁、差し戻し後の東京高判一九八九・六・二七判時一三一七号三六頁)(62)とか、農地買収処分の取消訴訟中に、被売渡人に一〇年の善意無過失の取得時効(民法一六二条二項)が完成して、訴えの利益を失う(最判一九七二・一二・一二民集二六巻一〇号一八五〇頁)とか、あるいは、特定日の公会堂使用不許可処分の取消訴訟中にその日が来るため訴えの利益がなくなる(筆者のいう時間切れ必勝)(63)とか、建築確認の取消訴訟中に建築が完成して訴えの利益が失われる場合(最判一九八四・一〇・二六判時一一三六号五三頁、開発許可について、最判一九九九・一〇・二六判時一六九五号六三頁、さらに最判一九九三・九・一〇民集四七巻七号四九五五頁)には、原告が敗訴するのは被告の作為か裁判が遅いためであって、原告に被告の弁護士費用を負担させる合理的な根拠はない。むしろ、逆で、こうした場合には、原告敗訴にもかかわらず、被告か国家が原告に一定の補償をする制度を作るのが筋である。
そのうえ、被告の国・地方公共団体側は、敗訴すれば、仮に相手方の弁護士費用を負担しなければならないとしても、それは原告を含めた国民の払う税金から当然に予算措置され、担当部局は痛痒を感じない。弁護士費用敗訴者負担の原則を導入しても、国の親方日の丸の上訴を抑制する効果はない。この原則は実質的にはもっぱら原告にだけ不利に作用する不公平なしくみになる。
(e) 訴訟制度で争われるのは、私的当事者間の私的な利害にすぎず、争点も当事者が惹起したものにすぎないというのが民事訴訟の一般的な理解であろう。そのことが訴訟費用を当事者に負担させる制度の前提にある。弁護士費用は私的なものであるから、なおさらであろう。しかし、よく考えると、紛争を裁判所に持ち出さなければならないのは、当事者のいずれかに非がある場合だけではなく、法制度が不明確な場合も少なくないのである。たとえば、その例は無限にあるが、民事差止め訴訟が一審、二審で適法とされたのに、最高裁(一九八一・一二・一六民集三五巻一〇号一三六九頁)で「行政訴訟はともかく」民事訴訟は許されないとして却下された大阪空港公害訴訟はその典型例である。森林法の共有林分割禁止の違憲を兄弟間で争わなければならなかった事件(最大判一九八七・四・二二判時一二二七号二一頁)では、兄弟は違憲立法の犠牲者なのである。こうした事件では、本来なら、紛争の種をまいた国家がその費用を負担すべきものであって、敗訴者が相手方の弁護士費用を負担しなければならないのは、きわめて不合理である。
(f) 敗訴者が弁護士費用を負担すべきか、その割合などについて裁判官の裁量とすれば、裁判所の負担は重く、また、その判断の予測可能性も高くないので、訴訟抑制的に働く。それとも、不法行為訴訟のように認容額の一〇%程度と決めてしまうのか。それも実態に合わないことが多かろう。
(g) この状況で弁護士費用敗訴者負担原則を導入するのは、「利用者の立場に立った司法改革」とはとうてい言えず、今回の司法改革の理念に反する。
したがって、もし弁護士費用敗訴者負担の原則を導入するとしても、その前に、訴訟での両当事者の立場を実質的に対等にし、また、勝敗の予測がつくように、証拠の開示(アメリカのディスカバリーに倣った証拠開示の制度)と法制度の明確化につとめること、立証責任を緩和すること、消費者団体などの団体訴訟を認めること、悪質な業者については懲罰的賠償訴訟を認めること、訴訟救助については、当事者の経済的能力が不足している場合だけではなく、社会的意義がある難事件では、勝訴の見込みがないとは言えないものについて原則として認めるように拡大すること、国相手の訴訟では訟務検事制度を廃止することが先決である。さらに、裁判官のメンタリティを、行政を応援する発想から、行政の不合理さを冷静に分析するという方向へと変えることも前提であろう(64)。
また、出訴を抑制するのは、敗訴した場合の負担のほか、当初の着手金と印紙代であるから、これを軽減するように、民事扶助の拡大、着手金なしの訴訟(代わりに、成功報酬を大幅にアップする弁護士報酬制度)を認めることと、本稿(五)で述べたように印紙代の軽減が必要である。
(h) 導入すべきは、いわゆる片面的敗訴者負担原則の拡大である。現在、住民訴訟では原告が敗訴しても、相手方の弁護士費用を負担する必要がなく、勝訴すれば弁護士費用を請求することができる(地方自治法二四二条の二第七項)。不法行為訴訟では原告が敗訴しても、相手方の弁護士費用を負担する必要はないが、被告が敗訴すれば通常一〇%程度の弁護士費用の賠償を命じられる。強者が強引に頑張ってもなお敗訴するときは、不法行為に限らず、このように、片面的に弁護士費用を負担させるべきである。
国や地方公共団体相手の訴訟では、勝訴者は個人の権利を実現したというだけではなく、法と行政の適正さを確保するという公益実現機能を果たしているのであり、訴訟を提起しない国民はこれにただ乗りしているのである。したがって、これらの訴訟の勝訴者には本来国家が褒賞金を支給すべきで、せめてその弁護士費用を国家が負担するとするのが適切である。
かりに、訴訟費用敗訴者負担の原則を片面的ではなく両当事者に平等に導入するとしても、これを行政関連訴訟には絶対導入すべきではない。もともと、この原則は民事訴訟関係の研究家と実務家の研究会(65)で提言されていたもので、行政関連訴訟の実態を知らないのではないかと疑われる。行政法は普通の民事訴訟とは異質な点が少なくないということに留意してほしい(66)。
なお、「多くの意見や署名が寄せられている分野は他にもあるので、本件だけを特別扱いして、中間報告の方針を捨て去るべきではない。」という発言があるのには驚いた。中間報告を公表するのは、広く意見を聴いて、虚心坦懐に反省して最終答申に反映させるためではないのか。
(エ) 最終答申
最終答申は次のように述べる。
[要旨]勝訴しても弁護士報酬を相手方から回収できないため訴訟を回避せざるを得なかった当事者にも、その負担の公平化を図って訴訟を利用しやすくする見地から、一定の要件の下に弁護士報酬の一部を訴訟に必要な費用と認めて敗訴者に負担させることができる制度を導入すべきである。
この制度の設計に当たっては、上記の見地と反対に不当に訴えの提起を萎縮させないよう、これを一律に導入することなく、このような敗訴者負担を導入しない訴訟の範囲及びその取扱いの在り方、敗訴者に負担させる場合に負担させるべき額の定め方等について検討すべきである。
[本文] 「訴訟当事者がその依頼した弁護士に支払う弁護士報酬は、敗訴当事者負担の適用対象となる訴訟費用に原則として含まれず、訴訟の勝敗に関わりなく、各自負担とされている(なお、判例により、不法な訴えに応ずるため弁護士に委任した場合、及び不法行為に基づく損害賠償請求権の行使のため弁護士に委任して訴えを提起することを余儀なくされた場合には、勝訴当事者が支払った弁護士報酬は、相当と認められる額の範囲で、損害の一部として相手方に請求できるものとされている。)。
弁護士報酬の一部を敗訴当事者に負担させることが訴訟の活用を促す場合もあれば、逆に不当にこれを萎縮させる場合もある。弁護士報酬の敗訴者負担制度は、一律に導入すべきではない。このような基本的認識に基づき、勝訴しても弁護士報酬を相手方から回収できないため訴訟を回避せざるを得なかった当事者にも、その負担の公平化を図って訴訟を利用しやすくする見地から、一定の要件の下に弁護士報酬の一部を訴訟に必要な費用と認めて敗訴者に負担させることができる制度を導入すべきである。ただし、同時に、敗訴者に負担させる金額は、勝訴者が実際に弁護士に支払った報酬額と同額ではなく、そのうち訴訟に必要と認められる一部に相当しかつ当事者に予測可能な合理的な金額とすべきである。また、敗訴者負担制度が不当に訴えの提起を萎縮させるおそれのある場合には、このような敗訴者負担を適用すべきではないと考えられる。このような見地から、このような敗訴者負担を導入しない訴訟の範囲及びその取扱いの在り方、敗訴者に負担させる場合に負担させるべき額の定め方等について検討すべきである。なお、この検討に当たっては、訴訟救助、法律扶助などの他の制度との関連や弁護士報酬の負担の在り方に関する国民の理解にも十分配慮すべきである。」
(オ) 阿部コメント
これをみれば、中間報告にあったような、労働訴訟、少額訴訟という例示が消えて、弁護士費用の敗訴者負担の制度を導入しない例外をこれに限定しない可能性を広げたし、訴えの提起を萎縮させないようにという配慮もあって、一律に導入すべきではないとされたので、医療過誤訴訟や行政訴訟、国家賠償訴訟、消費者訴訟、公害訴訟には導入されないと期待する。
また、訴訟救助、法律扶助などの他の制度との関連や弁護士報酬の負担の在り方に関する国民の理解にも配慮するとしているので、敗訴者の負担を現実に敗訴者の負担にならないように手当がなされることが期待される。
それでも、敗訴者負担の原則が導入されるので、その負担額の算定方法を予測可能なものとすること、例外を裁判官の事後的な裁量判断ではなく事前に予測でき、客観的に判断できるものとしてルール化することが課題である。
新たに制定された司法改革推進法に基づく司法改革推進本部では、先に述べた点に配慮して検討されることを希望する。
注
(59) 日本弁護士連合会「弁護士報酬の敗訴者負担制度に関する決議」日本弁護士連合会理事会二〇〇〇年一〇月一八日、浅岡美恵「論壇 弁護士費用の敗訴者負担に反対」朝日新聞二〇〇一年一月二三日二五面など多数。
(60) 根岸哲=舟田正之『独占禁止法概説』(有斐閣、二〇〇〇年)三一九頁以下。
(61 阿部泰隆『行政救済の実効性』(弘文堂、一九八五年)はしがき、阿部泰隆『行政訴訟改革論』(有斐閣、一九九三年)三頁以下、一六七頁以下。
(62)阿部前掲『行政救済の実効性』一三九頁。
(63)阿部前掲『行政救済の実効性』一三六頁、一五六頁以下。
(64) 行政側が敗訴しそうになると、行政側が思いもつかなかった理由を創造して、勝たせてあげる判決もある。地域医療計画をめぐる保険医療機関指定拒否処分につき、鹿児島地裁一九九九年六月一四日判決(判例時報一七一七号七八頁)は、健康保険法の解釈が問題になっているのに、その法律よりもあとの医療法の改正のための国会審議で厚生省担当官がした答弁を立法者意思とし、また、法の解釈に行政裁量があるという新理論を作って、厚生省側を勝たせた。しかし、法の解釈は司法の専権であって、行政に任されるものではないし、健康保険法の立法者意思が後の医療法改正の審議中に表明されるというのも理解しがたい。裁判所が、なぜかくも奇妙な判断をしてまで、病院を敗訴させなければならないのか。被告が考えつかないような理屈を創造してまで被告を勝たせることで、行政権の監視役になるのだろうか。いつの間にか、司法権は行政権の用心棒になったのではないか。阿部泰隆「地域医療計画に基づく保険医療機関指定拒否ー鹿児島地裁一九九九年六月一四日判決をめぐってー」判評五〇二号一八〇頁以下(二〇〇〇年)はこれを強く批判した。この問題については、阿部泰隆「地域医療計画に基づく医療機関の新規参入規制の違憲・違法性と救済方法(上・下)」自治研究七六巻二号三頁以下、三号三頁以下(二〇〇〇年)も参照。その控訴審の福岡高裁宮崎支部二〇〇一年一〇月三〇日判決は、この新理論こそ採用しなかったが、健康保険法の解釈で、地域医療計画上医療機関が多すぎるとされれば、健康保険法第四三条ノ三第二項(現第三項)に規定する「保険医療機関トシテ著シク不適当卜認ムルモノナルトキ」に該当すると解釈した。しかし、もともと、この規定は、個別の医療機関の不正を念頭においた規定であって、医療機関の需給調整の規定ではないはずであって、これまた、行政側のご都合主義の解釈を是認した例を付け加えるものとなった。例外は、広く話題になった小田急高架鉄道都市計画事業認可取消訴訟東京地判二〇〇一年一〇月三日判決である。
(65) この問題については、「民事費用制度等研究会報告書」(一九九七年一月三一日)があり、ジュリスト一一一二号(一九九七年)、自由と正義一九九九年二月号が特集を組んでいる。
(66) 前注(65)の報告書(ジュリスト一一一二号七三頁)では、行政事件のように類型を設定して例外を設けるという案が一部委員から有力に述べられたが、行政裁判所を置かないわが国の制度になじむかという問題点が指摘されたという。これでは、本来行政裁判所を設置すべきところ、それをしないためにますます悪くなってしまう。行政裁判所を置かないことを前提に考えてはならない。しかも、本文で述べたような行政事件の特色と問題点は、行政裁判所をおくか、民事訴訟法に基づき民事裁判所が裁判するかとは関係がないことで、この研究会の委員の多数が行政訴訟の実態を知らないことを露呈していると思う。
森脇純夫「報告書をめぐってー敗訴者負担積極論の立場から」(ジュリスト一一一二号五二頁)も、行政庁を被告とする事件は行政訴訟、民事訴訟を問わず、すべて敗訴者負担の原則の例外とし、私人・私企業を被告とする訴訟では、裁判所の裁量で決めるという提案をしている。さらに、山本和彦発言(ジュリスト一一一二号一八頁)参照。
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